今日は
九月六日。七日。八日。
何も起きなかった。
湊は朝に起きて、飯を食って、母さんの分の茶碗も洗って、夕方に縁石へ行った。宙が新しい必殺技の名前を三つ考えてきて、三つとも却下された。雪はプリンを一つ食べて、容器をきれいに洗って捨てた。透は端末に時刻を打ち、打つことがない日は打たなかった。
あの日曜のことを、四人とも一度も話さなかった。
話さない理由は、たぶん四人とも違った。
三日のあいだ、湊の指は動いた。声も出た。眠れた。何かがおかしい感じは、一つもしなかった。
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九月九日、木曜。
提携印刷所の二階は、紙とインクの匂いがして、床が少し斜めだった。斜めなのは湊がいちばん最初に気づいて、二番目に来た透が「傾いてるな、ここ」と言った。
栞が下描きを持ってきていた。素心会の小冊子の挿絵で、今回は三枚。窓の絵と、手の絵と、椅子だけの絵。
「これ、椅子は誰か座らせた方がいいですか」
「座らせない方がいい」透が言った。「座ってる絵って、待ってる感じになる」
「待ってる感じは、駄目ですか」
「駄目じゃない。今回のは、そういう話じゃないってだけ」
栞は「はい」と言って、鉛筆で椅子の脚に線を足した。足してから、少し離れて見て、また足した。
湊は窓の絵を見ていた。うまいとか下手とかは分からない。ただ、窓の下の縁のところに、指で押したような跡が三つ並んでいるのが分かって、それが何なのかをずっと考えていた。
「ミナト」と透が言った。「時間ある? あと、腹減ってる?」
「減ってない」
湊は答えた。
答えてから、透が黙っているのに気づいた。
「……時間は、ある」
透が湊を見ていた。
「なんだよ」
「いま、二個目から答えた」
「そう?」
「そう。二個目から答えて、一個目があとから来た」
湊は自分の口の中を思い返した。思い返せなかった。減ってない、と言った覚えはある。時間はある、と言った覚えもある。順番だけが、思い出せなかった。
「疲れてんのかな」
「かもな」
透はそう言って、鞄からペンを出した。出したのに、書かなかった。
三分ほど、透は下描きを見ているふりをしていた。
それから、端末を開いた。
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「ミナト。ちょっと、これ見て」
透が画面をこちらへ向けた。時刻が並んでいる。九月五日の日付だった。
`10:06 男が車両から離れる。歩き方は普通`
`10:07 「やめてください」一回目`
`10:07 一発目。右腕。側溝の蓋。足場まで走る`
`10:08 おれが前に出た。目が合った`
`10:08 二発目。人のいないところ`
`10:08 三発目。同じ。前から十`
`10:09 四発目。同じ。十八`
`10:09 おれが消えた。男が探す。ここまで一分半`
`10:09 五発目。シャッターのレール。二十五`
`10:10 ミナトが掴んだ`
`10:12 あの人たちが来てから、男の手が止まった`
「これ、全部おれが見たままだ」透は言った。「解釈は入れてない」
「……うん」
「上から読んでみろ。何かに似てないか」
湊は読んだ。読んで、分からなかった。
栞が横から覗いていた。覗いてから、「すみません」と言って一歩下がった。
「いいですよ」と透が言った。「見てください」
栞は画面を見た。見て、それから湊を見た。
「相沢くん」
「ん」
「さっき、順番が逆でした」
「……うん」
「あの日も、順番の話でしたか」
透がペンを落とした。拾わなかった。
「いや」透は言った。「順番じゃない」
「え」
「おれが見たのは、順番じゃないんだ」透は画面を指した。「あの男は、やめてくださいって言いながら、手だけ動いてた。言ってることと、体が、別だった。おれが書けるのはそこまでだ」
「それと、いまの相沢くんは」
「同じかどうかは、分からない」透は言った。「似てるとしか言えない。似てるってのは、証拠じゃない」
それでも透は端末を閉じなかった。
部屋が静かになった。床が斜めなのが、急に気になった。
栞はもう一度、画面の最後の行を読んだ。
`10:12 あの人たちが来てから、男の手が止まった`
「なぜ止まったかは」
「書いてない」透は言った。「おれが見てないからだ。見てないことは書かない」
「はい」
栞はしばらく黙っていた。
それから、鉛筆を置いた。置いてから、両手を膝の上で重ねた。指が少し震えているのを、湊は見た。
「行きましょう」
「どこに」
「同じ人のいる場所へ」
「……御堂さん」
「わたしが分かるのは、そこまでです」栞は言った。「なぜ止まったのかは、書いてありません。だから、書いてあることだけ、同じにします」
透が立ち上がった。
「場所は分かる」
「分かるんですか」
「白い車両が停まってる。まだ片づけが終わってない。通りから見える」
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歩いているあいだ、湊は自分の右手を見ていた。
何ともなかった。指は動いた。爪も普通だった。ただ、歩幅がときどき合わなくなった。前の一歩と次の一歩の長さが、少しだけ違う。合わせようとすると、合った。合わせるのをやめると、また違った。
「ミナト」
「なに」
「先に言っとく」透は前を向いたまま言った。「今日、おれはあんたを止めない」
「なんで」
「止められないからだ」
「……」
「止められることは止める。止められないことは、止められる場所へ持っていく」
「それ、あんたが考えた?」
「どっかで読んだ受け売りだ」透は言った。「誰が書いたのかは知らない」
栞は二人の少し後ろを歩いていた。歩きながら、鞄の中を一度だけ開けて、閉じた。開けたときに、小さいスケッチブックの角が見えた。
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通りの、屋根のない側。
ガラスは全部片づいていた。二軒の窓は板が張られていて、シャッターには当番表がまだ貼ってある。日付と、区画の番号と、名前。いちばん上から五番目に、自分の字。
白い車両が一台だけ、区画の端に停まっていた。
その横に、小柄な人影があった。ゴーグルの子だった。板を持って、壊れた区画の写真を撮っている。誰かに何かを報告している様子でもなく、一人でやっていた。
「いる」と透が言った。
湊は返事をしなかった。
返事をしようとして、口が動かなかったのではない。口は動いた。動いたのに、返事の順番が来なかった。
そこから先は、湊にもよく分からない。
自分の腕が上がった。
上がったことは分かった。上げようと思っていないことも分かった。二つのことが同時に分かっていて、そのあいだに何もなかった。
手が、透の胸のほうへ伸びた。
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「座ってください」
栞の声だった。
栞が透の袖を引いていた。強く引いていた。透は引かれた方向へ膝を折って、そのまま、地面に座った。
湊の手は、伸びたままだった。
伸びたままの高さに、透の胸はもうなかった。
栞は湊を見なかった。透も見なかった。鞄からスケッチブックを出して、開いて、裏の三行を上から順に指でなぞっていた。なぞってから、閉じた。
「これで、絵とは違います」栞は言った。声は震えていなかった。「でも、これだけです」
「え」
「同じ絵にならないだけです」栞は言った。「相沢くんの手が止まるのとは、別のことです。……分かっています」
湊の腕は、まだ動いていた。
高さを探していた。下がった透を追って、肘が曲がって、指の向きが変わって、また前へ出ようとしていた。
湊は自分の膝が折れるのを感じた。
追っている。座った透に、届く高さまで、自分の体が下りていく。
止められなかった。
止まれ、と思った。思ったことは、どこにも届かなかった。
体が半分だけ下りたところで、右足が半拍遅れた。
その半拍を、誰かが見ていた。
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足音がしなかった。
ゴーグルの子は、板を地面に置いてから来た。置く音のほうが、足音より大きかった。
腰から黒い箱を外して、湊の背中の、手の届く距離まで詰めた。
「照射です。異常挙動を認めました」
誰にでもなく言った。言ってから、押し当てた。
——
またなくなった。
四日前と同じだった。ずっとあったものが、急になくなる。息は吸える。手も動く。部屋が一つ減る。
今度は、なくなったあとに、腕が止まった。
止まったのは、湊の意思ではなかった。伸びていた腕が、伸びる理由をなくして、途中で落ちた。指先が透の上着に触れて、そこで滑って、地面についた。
胸の、手前だった。
「……あ」
湊は言った。それだけ言って、あとが出てこなかった。
透は座ったまま、湊を見ていた。何も言わなかった。手も出さなかった。
栞はスケッチブックを胸に抱いていた。抱いたまま、動いていなかった。
「十一時二十六分。至近で遮断。対象は——」
ゴーグルの子が板を拾って、途中で止めた。
「……対象、ではないですね」
そう言い直して、打ち込んだ。
「相沢湊。異常挙動。原因不明」
「知ってるんですか」
湊が言うと、ゴーグルの子はこちらを向かなかった。向かないまま答えた。
「顔と名前は、記録にあります」
「あの」
「わたしは、あなたを助けに来ていません」
言い方は平坦だった。責めてもいなかった。
「別件の現場確認です。閉じていない備考欄があるので、来ています。目の前で異常挙動があったので、手順を当てました。それだけです」
「……手順」
「収容の現場で異常挙動を認めたら、まず至近で遮断を試みる。決まっています」ゴーグルの子は板に何か書いた。「判断ではありません」
湊は地面についた手を見た。
四日前、同じことをした人がいた。あの人は「わたしの判断で切ります」と言った。この人は「判断ではありません」と言う。二つとも同じ形の箱で、同じ結果になった。
その違いを、湊はうまく言葉にできなかった。
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「無事でしたか」
声が、後ろからした。
零が立っていた。
いつからいたのか分からない。手ぶらだった。街灯はまだ点いていない時間で、影の位置がおかしかった。
「……あんた」
「先にいたのは僕です」零は言った。「あとから来たのは、君たちです」
「なんでここに」
「別件です。八月に一件、最後まで読み出せなかったものがあって、その周りを見ています」零は通りの端を指した。「あちらの実働が入っている区画は、最初に見る場所なので」
「見てた?」
「見ていました」
「どこから」
「最初からです」
湊は立ち上がろうとして、うまく力が入らず、いったんやめた。
「取ったのか」
「触れていません」零は言った。「見ていました」
「同じだろ」
「同じではありません。触れれば君に痕が残ります。見ただけなら、残るのは僕の側だけです」零は少し首を傾けた。「君の動きの止まり方。半拍のずれ。あの人が近づいた瞬間に、挙動が変わったこと。——三つです」
「返せって言ったら」
「返せません」
零は即答した。
「見たものを返す方法を、僕は知りません。知っていたら、返します」
湊は何も言わなかった。
渡していない。渡していないのに、持っていかれた。六月の新月の夜は、この男が置いていった。八月には自分が渡した。今日は、何もしていないのに減った。
「対価は取りません」零は言った。「今日は、こちらが一方的に得ています。取れる立場にありません」
そう言って、歩き出した。二歩でこちらを振り返った。
「相沢くん。一つだけ」
「なんだよ」
「君は、自分で止まっていません」零は言った。「そこを取り違えると、次に間違えます」
零は行った。
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透が立ち上がったのは、そのあとだった。
上着の胸のところを、一度だけ手で払った。触れられたところだった。払ってから、払ったことに自分で気づいて、手を止めた。
「悪い」と湊が言った。
「なにが」
「……」
「なにがだよ」
「分からない」
「じゃあ、謝るな」透は言った。「分かってから謝れ。そのほうが、こっちも受け取れる」
栞はまだスケッチブックを抱いていた。
「御堂さん」
「はい」
「今の、何を」
「わたしがしたのは、二つです」栞は言った。「行く方角を決めたのと、座ってくださいと言ったことです」
「それで」
「それだけです」栞は言った。「あの箱が効くことは、わたしは知りませんでした。知らないことは、わたしがしたことに入りません」
そこで初めて、栞の声が少し崩れた。
「……初めて、使いました」
「使った?」
「絵を」
栞はそれ以上言わなかった。言わずに、スケッチブックを鞄へ入れて、口を閉じた。閉じてから、両手で押さえた。押さえる必要のない鞄だった。
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帰り道、透が端末を開いた。
打っているのを、湊は横から見た。透は隠さなかった。
`11:26 至近で遮断。手は胸の手前で止まった`
`御堂さんが座らせた。おれが座った`
`ミナトは自分では止まっていない`
打って、少し止まって、最後に一行足した。
`今日は、起きなかった`
「今日は、って」と湊が言った。
「今日は、だ」
透はそれ以上書かなかった。端末を閉じて、鞄へ入れた。
湊は自分の右手を、もう一度見た。
指は動いた。爪も普通だった。歩幅は、いつのまにか合っていた。
(ep065 了)




