切る
【観察記録 R-064 ——相良慧】
九月五日。曇り。
今日は書くことが少ない。朝、父の箱をもう一度全部出して、並べ直した。中身は先週と同じでした。同じであることを確かめるのに、三時間かかりました。
手元に置くとしたら、どこか。父の机は処分されています。鞄も、上着も、残っていません。残っているのは、紙と、箱と、それを入れていた棚だけです。
——棚を、まだ見ていません。
明日、見に行きます。
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九月五日、日曜。曇り。
査定が済んだのは三日前だった。済むまでは現場に手をつけられず、済んだ日から一週間以内に片づけろと言われたらしい。だから商店会は人手を集めた。
九時、屋根のない側の通りに、四十人ほどが出ていた。
湊は割れた総菜屋の前で、軍手をして、大きいガラスを拾っていた。大きいのを先に、細かいのはあとで。それを二回教わってから、三回目は自分で言えるようになった。
透は名簿を持って、区画ごとに人を割っている。宙は台車を押していて、三度ほど段差で引っかかっている。雪は集めた破片を袋へ入れる係で、袋の口を折るのがうまかった。
「これ、飲んで」
総菜屋の女の人が、紙コップを持って回っていた。
「まだ九時ですよ」
「九時でも喉は渇くのよ」
湊はもらって、飲んだ。麦茶だった。ぬるかった。
シャッターに、当番表が貼ってあった。日付と、区画の番号と、名前が並んでいる。いちばん上から五番目に、自分の字があった。字が小さかったので、少し恥ずかしくなって、目を逸らした。
通りの端に、白い車両が二台停まっている。
破損の件で確保された男の身柄は、警察の手を離れて別のところが引き継いだ、と会長が言っていた。それがどこなのかを、会長は知らないようだった。
車両の周りに三人いた。背の高い、編上靴の女。小柄な、ゴーグルの子。それと、若い男が一人。
湊は二人に見覚えがあった。片方は保育園の帰りに三人まとめて壁へ留めた女で、もう片方はビルの縁にいた影だった。名前は知らない。あの日から一度も知らないままだった。
引き継いだ先がどこなのかを、湊は会長に言わなかった。言えるほど確かめていなかったし、確かめたところで、たぶん同じことだった。
若い男は初めて見る顔だった。
湊は目を逸らして、ガラスを拾った。向こうもこちらを見ていない。そういうことになっている、と湊は思った。同じ通りで、別の用事をしている。それだけのことにしておく。
十時六分、宙が言った。
「ミナト氏、水」
「ん」
「水、要る?」
「あとで」
そのとき、湊は車両の方を見ていなかった。
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最初に聞こえたのは、金属の音だった。
台車の車輪の音とは違った。もっと短くて、乾いていた。誰かが手すりを叩いたような音。
湊が顔を上げると、若い男が通りの真ん中に立っていた。
車両の方からこちらへ、まっすぐ歩いてきていた。歩き方はきれいだった。姿勢が正しくて、足の運びが揃っていて、こういう歩き方を教わった人の歩き方だった。
「やめてください」
男が言った。
誰に言ったのか分からなかった。近くには誰もいなかった。
「やめてください」
もう一度言った。声は普通だった。慌ててもいないし、怒ってもいなかった。ただ言っていた。
そして、右手が上がった。
指先から白い線が出て、路面の側溝の蓋へ落ちた。蓋が鳴った。鳴った先の、三メートルほど離れた鉄骨の足場まで、音が走った。
誰かが悲鳴を上げた。
「下がって!」と透が叫んだ。「金属から離れろ! 台車も置いてけ!」
宙が台車を放した。放してから、しゃがんで、指を折りはじめた。
雪が動いた。総菜屋の女の人の腕を取って、袋を置いて、通りの反対側の建物の中へ押し込んでいく。二人、三人、四人。壁を背にして、地面から足を離せる場所へ。
「やめてください」
男は歩きながら言い続けていた。
湊はそのとき、はっきり見た。
男の右腕が、前へ出ている。そして、左手が、その右腕の手首を掴んでいた。
自分で自分の手を押さえていた。押さえていて、止まっていなかった。
「本人が、やってるんじゃない」
「え?」
「あの人、やめろって言ってる」湊は言った。「言いながら、手だけ動いてる」
透が湊を見た。それから、男を見た。
「……ミナト。おれが前に出る」
「透くん」
「一分半だ」透は早口だった。「おれを見てから、忘れるまで。だいたいそのくらい。おれはそれを数えられる」
「数えて、どうすんだよ」
「忘れた瞬間、あいつはおれを探す。探してる間は、ほかを狙えない」透は言った。「一分半、こっちに時間をくれる」
「その一分半、透くんは撃たれる側だろ」
「床から撃たれるのは、どこにいても同じだ」透は言った。「なら、見られてる側に立つ」
「……」
「その間に、あんたは下がれ」
透は右手を出した。
手の甲で、押した。
四番だった。
五つのうちの、四番。書いた日から一度も出なかった合図が、初めて出た。
湊は見て、意味を分かって、それから、前へ出た。
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透が通りの真ん中へ出た。
男の目が透を捉えた。捉えて、そこで止まった。
そこからが長かった。
透は動かなかった。動かずに、男の正面に立っていた。宙は壁際にしゃがんだまま、指を折り続けている。放電の間隔と、もう一つ別のものを、両方数えている。
その間に、白い線は三度出た。
三度とも、透の足元から少し横の、金属のない場所へ落ちた。外したようには見えなかった。狙いが、透のいる方角のどこかへ向かって、そのつど少しずつずれていた。
間隔は、撃つたびに開いた。宙が壁際から数字だけを言う。
「十!」
「……十八!」
「二十五! 伸びてる!」
撃った直後、男の指先が細かく震えているのが見えた。震えが収まるまで、次が出ない。収まるまでの時間が、一度ごとに長くなっている。
宙が指を全部開いて、閉じた。
透が、男の中から消えた合図だった。
男の目が、通りを舐めるように動いた。さっきまで見ていたものを探している。探して、見つからなくて、それでも足は止まらなかった。
止まらない足が向いている先を、湊はそのとき初めて、はっきり見た。
自分だった。
最初から、まっすぐこっちだった。
そう思ってから、通りを見た。落ちた白い線の跡が三つ。三つとも、人のいない場所だった。鳴らすたびに、湊と男のあいだから人が減っていった。空いたのは、まっすぐな道だった。
また出た。
湊のいる方へは来なかった。斜め後ろの、シャッターのレールへ落ちた。そこにも人はいなかった。
「いま撃った!」宙が叫んだ。「二十五!」
数えている。あの夜と同じことを、別の相手にやっている。
湊は走った。
側溝の蓋を避けて、足場の鉄骨を避けて、袋の山を越えて、男の正面へ入った。
「七、六、五——」
湊は右手を伸ばして、男の手首を掴んだ。
——
何も入ってこなかった。
いつもなら、触れた瞬間に相手の側の何かが流れ込んでくる。悲しいとか、痛いとか、そういう形になる前のものが、まず来る。今回は来なかった。
扉が閉まっている、という感じでもなかった。扉の前に立っている人が、いない。返事をする人がいない場所に、湊は手を伸ばしていた。
分かったのは、腕のことだけだった。
筋肉が固い。固いのに、震えている。押している力と、押し返している力が、同じ腕の中で両方動いている。脈が速い。指先が冷たい。
そして、掴んだ手首は、湊の手を振り払おうとしなかった。
振り払うかわりに、前へ押してきた。湊の方へ、まっすぐに。
逃げようとしているのではなかった。届こうとしていた。
「……いる」
湊は言った。
「まだいる。この人、まだ中にいる」
うまい言い方だと思わなかった。ほかの言い方が出てこなかった。
男の口が動いた。
「やめて、ください」
「聞いてる」湊は言った。「聞いてるよ」
「離れて、ください」
「それは、あんたが言ってるやつだ」
男が湊を見た。
見た、と思った。目が合ったかどうかは分からない。ただ、そこにいる誰かが一度こちらを向いた気がした。
指先の白い線が、湊の手の甲の三センチ横で膨らんだ。
---
「離れてください」
別の声だった。
編上靴の女が、通りの真ん中を歩いてくるところだった。走っていなかった。歩幅も変わっていなかった。
女は男の三歩手前まで来て、腰のホルダーから何かを外した。手のひらに収まる大きさの、黒い箱だった。
女の耳のあたりで、小さく音が鳴っている。端末の音が漏れていた。
『——確保を優先。切断は保留。事象の記録を』
『——記録より人だ。切れ』
二つ、別の声だった。二つとも命令の形をしていた。
女は箱を持ったまま、一度だけ空を見た。
「どちらも受けません」
そう言った。誰にでもなく言った。
「わたしの判断で切ります」
女が箱を男の背中へ押し当てた。
音はしなかった。
代わりに、湊の中で何かが止まった。
ずっとあったものが、急になくなった。それが何なのかを、湊は知らない。知らないのに、なくなったことだけは分かった。息は吸える。手も動く。ただ、部屋が一つ減ったみたいだった。
三秒くらいだった。
戻ってきたとき、湊は自分が歯を食いしばっていることに気づいた。
男の右腕が、途中で落ちた。
落ちてから、膝が折れて、そのまま前へ倒れた。湊が受け止めそこねて、二人で地面についた。男の額が湊の肩に当たって、それから、動かなくなった。
「十時十二分。切断」
ゴーグルの子の声だった。いつのまにか、すぐ横にいた。手元に板を持っている。
「記録に、判断と書いてください」と女が言った。「命令ではないので」
「はい」
「命令に反した、とも書いてください」
「……はい」
女の耳のあたりで、また音が鳴った。
『——切断の判断は、誰の権限で』
「現場指揮です」
『——所属と番号を』
「もう出しています」
女はそれきり答えなかった。答えないまま、男の脈を見ていた。
ゴーグルの子が板に何か足した。足しながら、小さい声で言った。
「……二つ、来てました。指示」
「聞こえていました」
「両方、記録しますか」
「両方、記録してください」女は言った。「割れていたことも、記録です」
ゴーグルの子は書いた。書いてから、一度だけ湊を見た。何も言わなかった。
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男は五分ほどで目を開けた。
自分の手を見て、それから、周りを見た。何が起きたのかを確かめようとしている顔だった。確かめる材料が、たぶん一つもなかった。
「指」
男が言った。
「指が」
「動くか」と湊は聞いた。
「動きます」男は右手を開いて、閉じた。「動きます。でも」
そこで止まった。
止まって、右手の指先を、左手の指の腹で何度も擦り合わせた。擦って、擦って、擦るのをやめた。
「触ってる感じが」
湊は何も言えなかった。
「俺」男が言った。「俺、何かしましたか」
誰も答えなかった。
「誰か、怪我しましたか」
「してない」と湊は言った。「たぶん、してない」
「たぶん」
「……確かめる。俺が確かめて、あとで、誰かに言う」
言ってから、誰に言えばいいのか分からないことに気づいた。この人の名前も、この人がどこにいるのかも、湊は知らなかった。
編上靴の女が来て、男の脇に手を入れて起こした。起こしてから、湊の方を見た。
「ここから先は、こちらで処理します」
「あの」
「片づけを続けてください」
「その人、大丈夫ですか」
「答える立場にありません」
女はそれだけ言った。
湊は、自分が何かを待っていたことに気づいた。何を待っていたのかは、出てこなかった。出てこないのに、待っていたことだけが分かって、それが少し嫌だった。
透が来て、湊の腕を引いた。
「行こう」
「うん」
「……なあ、ミナト」
「なんだよ」
「四番、出したぞ、おれ」
「見た」
「見て、前に出たな」
「うん」
透はそれ以上言わなかった。ペンも出さなかった。あとで書くのだろう、と湊は思った。
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白い車両の方から、女の声が聞こえた。
「明滅。車両へ」
若い男が立ち上がって、姿勢を正した。
「……はい」
それきりだった。
ゴーグルの子が振り返った。編上靴の女も、歩きかけて、止まった。
二人とも、何かを待っている顔だった。
待っているものは、来なかった。
湊にはそれが何なのか分からなかった。分からないまま、二人が待つのをやめるところまで見ていた。
若い男は、自分の口を押さえた。押さえてから、離した。それから、何も言わずに車両へ歩いていった。
歩き方は、来たときと同じできれいだった。
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片づけは午後まで続いた。
大きいのを先に、細かいのはあとで。四十人でやると、思ったより早く終わった。会長が礼を言って、総菜屋の女の人がまた麦茶を配って、宙が三杯飲んで怒られた。
終わりごろ、宙がミラーを開いて、すぐ閉じた。
「上がってる。三本」
「消えるかな」
「消えないよ。埋まるだけ」宙は言った。「もう下に、全然関係ないのが二十本くらい並んでる。明日には誰も見ない」
透は何も言わなかった。自分の端末に、時刻と、見たものだけを打っていた。
帰る前に、湊はもう一度シャッターを見た。
当番表はまだ貼ってあった。日付と、区画の番号と、名前が並んでいる。いちばん上から五番目に、自分の字がある。
小さい字だった。
(ep064 了)




