復唱
【観察記録 R-063 ——相良慧】
九月三日。晴れ。市街の宿。
三日前の続き。商店街の三度目は止まった、と聞きました。負傷は軽く、一人が確保された。わたしは今回も現場を見ていません。
書く前に、そうでない場合を先に潰します。第一、単なる窃盗ではない——物が一つも減っていない。第二、示威でもない——名乗りも要求も出ていない。第三、無差別でもない——人のいない時間だけを選んでいる。三つ潰して、残るのは、壊すことそのものが用件だった、という一つです。
残ったものを結論と呼ぶのは、早い気がします。潰し方が足りないのかもしれません。ただ、どこがどう足りないのかを、今日は思いつきませんでした。
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九月三日、金曜。点呼は七時五十分。訓練のない日の時刻。
真昼は七時三十四分に班室へ入った。いつもより六分早い。理由はなく、目が覚めたのが早かった。
律は先にいた。
「おはようございます」
「……おはようございます」
律は装備の棚の前に立っていた。手首を照合板に当てて、棚を開けて、中を見ている。真昼は自分の机まで歩いて、鞄を置いて、時刻を見た。七時三十五分。
律が棚を閉じた。
何も出さなかった、と真昼は思った。思ってから、それを不自然だと感じている自分に気づいた。棚を開けて何も出さないことは、規定違反ではない。開閉の記録は残るが、記録が残ることと、咎められることは別だ。
律は自分の机に戻って、絶縁手袋を一組、腰に付けた。
一組だった。
規定は一組だ。だから正しい。ただ、律はいつも二組付ける。二組目は自費で、規定外なので誰も咎めないし、誰も褒めない。真昼が知っているのは、二組目を出すところを何度も見たからで、それだけの理由だった。
七時三十五分に開けた棚は、手袋の棚だった。開けて、何も出さずに閉じた。二組目はまだ、あの中にある。
二日から、本件の引き継ぎが始まっている。八月三十一日に商店街で確保された対象の身柄と、現場の保全。うちの側が受けたのは二日の午後で、律はその日から移送の随行に付いている。移送は最短でも九月の半ばまで続く見込みだと、二日の割り当てで澄が言っている。
澄は七時四十七分に入ってきて、人と物の位置を数えてから、扉と非常口を見た。順番はいつもと同じだった。真昼が数えるのは光るかもしれないものの居場所で、澄が数えるのは通れるところだ。ひと月ばかり前に一度そう思って、それきり言葉にしていない。
「明滅。今日は午前が保全、午後が随行です」
「はい。——復唱します。午前が保全、午後が随行。以上です」
真昼は時刻を見た。七時五十三分。
復唱そのものは正確だった。
ただ、律の復唱はいつも、澄が言い終わる前に始まる。半拍かぶるくらいの速さで、それが速すぎると咎められたことも一度ある。今朝は、澄が言い終わってから、一拍あって、それから始まった。
一拍。
真昼は数えた癖で数えていた。数えてから、これは数える必要のあることだろうか、と考えた。
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午前の保全は、商店街の区画の外周に立っているだけの仕事だった。
割れた二軒には、まだシャッターが下りている。査定が済むまで誰も手をつけられない、と地元の人間が言っていた。真昼はその言葉を、聞いたままの形で記録した。
律は東の角に立ち、真昼は西の角に立った。九時十七分、律から定時の報告が入った。
「西、異常なし。東、異常なし」
真昼は端末を見た。
律が担当しているのは東で、真昼が西だ。報告は自分の担当から言う。ずっとそうしてきた。
「……東からお願いします」
「はい。東、異常なし。西も、そちらから異常なしと」
正しい内容が、正しく直された。順番だけが、最初にひっくり返っていた。
九時十八分。真昼は端末の備考欄を開いて、時刻を打った。何を書くかは決めていなかったので、時刻だけ打って閉じた。
十一時、交代。律が先に歩き出して、三歩で止まって、真昼が来るのを待った。それはいつもどおりだった。
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昼、真昼は自分の分の記録を出すついでに、律の感覚の記録の欄を開いた。範囲外だ、と思いながら開いた。
数値は先月より二段下がっていた。落ちた値が、落ちたまま入っている。そこは前と同じだった。
備考欄が、前と違っていた。
`左の薬指。湯の熱さが、立ち上がりだけ遅れて届く。温度そのものは分かる。`
候補文ではなかった。四文字でもなかった。何が、どう変わったかが書いてあった。
真昼はその一行をしばらく見ていた。言われたことを、この人は直したのだ、と思った。ひと月近くかかって、直したのだ。
午後の随行は、二台目の車両に付く。
真昼は走査をしなかった。今日の割り当てに走査は入っていない。範囲の指定がない日は、照らさない。それが規定であり、真昼にとっては楽な日ということでもあった。
だから、目で見ていた。
律は車両の点検表を持っていた。項目は十四。上から順に見て、指で押さえて、確認したところに印を入れていく。指の腹で押さえるのは、指先の感覚が落ちてから始まった癖だ。
七番目で、指が止まらなかった。
止まらないまま、八番へ行った。
七番は接地の確認だった。律がいちばん時間をかける項目で、二度見ることもある。今日は一度も見なかった。
真昼は自分の端末に時刻を打った。十三時四十二分。
対象は移送のあいだ、一度も口をきかなかった。座席で、膝に置いた自分の両手を、ときどき見ていた。見て、何も確かめられなかったという顔をして、また前を向いた。真昼はそれを二度数えて、三度目からは数えなかった。数えても、報告する欄がない。
移送そのものは何事もなく終わった。律は最後まで規律どおりだった。声の大きさも、立ち位置も、退路の確保も、教えられたとおりだった。
十六時二十分、班室で報告書。
律は候補文を使わない。いつも自分で打つ。今日も自分で打っていた。真昼は自分の報告を出したあと、律の後ろを通って、画面を見ないようにしながら、見た。
`点検表全項目を確認。異常なし。`
正確だった。
正確に、間違っていた。
「あの」と真昼は言った。
「はい」
「七番、見ましたか」
律は顔を上げた。少しだけ考える顔をして、それから言った。
「見ました」
「……そうですか」
「見ましたよ」律は笑った。笑い方は普通だった。「接地、いちばん大事なので。あれを飛ばしたら、俺、隊長に殺されます」
嘘をつくとき、律は復唱をしない。いつも復唱する人間が、しない。
律は復唱をした。
「——復唱します。七番、接地の確認を実施。以上です」
真昼は「はい」と言って、自分の席へ戻った。
戻ってから、律が嘘をついていないことのほうが怖い、と思った。
見つけることは、救うことの最初の一歩だと教わった。真昼はそれを信じている。ただ、ここ半年で一つ増えたことがあって、見つけたあとにその人がどこへ行くのかを、見つける前に考えるようになった。考えると、手が遅くなる。
いま考えているのは、律のことだった。何かを見つけてしまったら、この人は明日どこにいるのだろう、と考えていた。
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十七時、真昼は医務へ寄った。
自分の用ではなかった。律の午後の申告に、心拍の乱れの項目が一つ立っていたので、それを見に行った。範囲外だ、と自分でも思った。
医務の当直は、記録を開いて、二行だけ見て言った。
「疲労だね」
「疲労、ですか」
「移送が続いてるでしょう。夜間の割り当ても入ってる。数値も、疲労で全部説明がつく範囲だよ」
説明がつく、と真昼は口の中で繰り返した。
つく、というのは、それ以外の説明を試したという意味ではない。
「ほかの可能性は、見ましたか」
「見る理由がないからね」当直は画面を閉じた。「疲労で説明がつくものを、疲労じゃないかもしれないと思って調べ直すと、みんな寝られなくなる」
「……はい」
真昼は礼を言って出た。
廊下で立ち止まって、自分の端末を開いた。今日打った時刻が四つ並んでいる。七時三十五分。七時五十三分。九時十八分。十三時四十二分。
四つとも、それぞれ単独では何でもない。
真昼は備考欄に打った。
`所見に同意できない。理由は書けない。`
打ってから、消した。消してから、もう一度打った。
`医務所見=疲労。同意していない。同意していないことを、ここに残す。`
保存した。
規定の様式に、そういう欄はない。備考欄はあるが、備考欄に書いていいのは事実だけだと教わっている。これは事実ではない。真昼が納得していないという事実だ、と考えて、それなら事実だ、と考え直して、そのままにした。
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十七時四十分、澄が来た。
「照射。備考を読みました」
真昼はゴーグルの縁に指をかけて、下ろした。
「……様式外です。すみません」
「様式外です」澄は言った。声は上がらない。「様式外ですが、消さないでください」
「はい」
「あなたが同意していないことは、記録の価値があります。同意していない人間がいたという事実は、あとから探せます」澄は真昼の端末を見なかった。見ずに続けた。「ただし、理由が書けないと書いてあるのは、まだ書けないという意味ですね」
「……はい」
「では、書けるようになったら書いてください。それまでは、そのままで」
澄は窓の方へ歩いて、位置を確かめるみたいに立った。この人はどこにいても、全員の退路が見える場所に立つ。
「明滅の靴を、見ましたか」
真昼は答えるのに一拍かかった。
「両方、白かったです」
「そうですね」
「片方は、隊長が」
「一本です」澄は言った。「わたしが置いたのは一本です。もう一本は、本人が買っています」
真昼は、その意味を考えた。考えて、うまく言葉にならなかった。切れる前に置く人がいて、置かれた側が、置かれていない方も自分で先に替えた。それは、たぶん、いいことだ。いいことだと思ったのに、胸のあたりが少し嫌な形になった。
澄が振り返った。
「照射」
「はい」
「あなたは、この仕事を辞めたあと、何をする人ですか」
真昼は、ゴーグルの縁から指を離した。
離してから、質問の形をもう一度確かめた。何をしたいですか、ではない。何をする人ですか、だった。違いがあることは分かった。違いが何なのかは、分からなかった。
「……」
「答えなくて構いません」澄は言った。「先に知っておきたかっただけです」
「先に知ると、どうなりますか」
「外す判断が早くできます」
前にも同じ言い方を聞いた。指の感覚の話だった。あのときは、律の指のことだった。
「遅く知ると」
「間に合わなくなります」
澄はそれだけ言って、退路の見える場所から動いた。
真昼は座ったまま、答えを探した。探し方が分からなかった。探すのは自分の仕事のはずだった。範囲の指定がないものは照らさない、と教わってきたので、範囲の指定がないものの探し方を、真昼は習っていない。
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十九時十分。
真昼は忘れ物を取りに班室へ戻った。方向音痴なので、いつも同じ道を通る。班室の前の廊下は長くて、蛍光の帯が天井に二本入っている。
その廊下に、律が立っていた。
一人だった。
真昼は足音を消して歩く癖がある。だから、律は気づかなかった。
律は正面を向いていた。誰もいない方を向いて、口を動かしていた。
「——復唱します」
真昼は止まった。
「午前が保全、午後が随行。以上です」
それは今朝の割り当てだった。今朝、この人が復唱したものだった。
「——復唱します。午前が保全、午後が随行。以上です」
同じことを、もう一度言った。
真昼は数えた。三度目まで数えて、数えるのをやめた。
律の声は、はきはきしていた。任務中の声だった。姿勢も正しかった。規律どおりだった。
規律どおりに振る舞っているのに、相手がいなかった。
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【観察記録 R-063 ——相良慧】
九月三日、夜。
別件。父の写しの三つ目。心当たりが一つ立ちました。
これまでは、二つを他人の家に置いた人なら、三つ目も他人の家にあるはずだと考えていました。考え方を変えます。二つを他人に預けた人は、最後の一つを自分の手元に置きたくなるのではないか。
——これは希望であって、根拠ではありません。書いてから、そう注を付けました。付けたうえで、消していません。
(ep063 了)




