開口部
八月三十一日は、朝からよく晴れた。
日が落ちてから、通りは早く静かになった。会長が名簿の順に回って、閉店の早い店から先に鍵をかけさせていく。九時には、屋根のない側に人影が二つしか残らなかった。閉めるのが遅い二軒——割烹着の女の人の総菜屋と、その隣の金物屋。
「うちは十時半なのよ」と女の人が言った。「その時間じゃないと、帰りに寄る人がいるから」
「今日だけです」と透が言った。
「今日だけね」
女の人は笑って、それから笑うのをやめた。透の言い方が、頼み方ではなかったからだった。
雪は総菜屋の裏の勝手口に立っていた。名簿の写しを持っている。役割は一つだけで、それを湊は三回確認していた。人を出す。それだけ。前に出ない。
「わかってる」と雪は言った。「言われた」
「うん」
「三回も」
「……ごめん」
雪は少し黙って、「別に、いい」と言った。
十時、アーケードの向こうの街灯が順に落ちた。屋根のない側は、もともと二本しかない。その二本だけが残って、通りは細長い箱みたいになった。
宙が壁際にしゃがんで、床を指した。位置だ。湊は指の先を目で追った。通りの向かい、金物屋の方だった。
「そっちに人がいる」
「見えたのか」
「いや」宙は首を振った。「音がした。シャッターの音。うちらのじゃない方の」
透が湊の袖を引いた。
十時十二分。金物屋のシャッターが、内側から半分だけ下りて、止まった。
---
三人でくぐった。
湊が先で、透、宙の順だった。屈んで入って、身を起こしたところまでは覚えている。
店の中は、思っていたより広かった。棚が抜かれていて、床にビニールが敷いてある。改装の途中だったらしい。その真ん中に、一人立っていた。
若くはなかった。作業着で、耳当てはしていない。両手を胸の前で少し開いて、待っている形だった。待っている、と湊が思ったのは、目が合ったからだった。
目が合って、それから、その両手が閉じた。
音は、聞こえなかった。
聞こえないのに、耳の奥に何かが入ってきて、そこで蓋になった。湊は自分が後ろへ二歩下がったことを、下がってから知った。ビニールが波打って、正面の窓ガラスが白く割れて、外側へ吹き出していく。破片が街灯の下を横切って、そこだけ雨みたいに見えた。
湊は自分の口が動いているのがわかった。何を言ったのかは、わからなかった。
透が横で、口を大きく開けて何か言っていた。声は届かない。透はすぐにやめた。やめて、右手を上げた。
指を、床へ向けた。
位置。
湊は指の先を見た。左の壁ぎわに、非常口の緑の表示が残っていた。改装で棚を抜いた壁の、いちばん奥。
その手前を、男の正面が塞いでいる。
宙が壁際に張りついて、指を折りはじめた。一、二、三。四で止まって、また一から。折るたびに湊のほうを見る。目で確かめさせている。三度繰り返して、宙は指を四本立てたまま止めた。
四。
四つ数え切るまでは、次が来ない。
男がまた掌を開いた。宙が指を一本折る。二本。三本。四本目を折り切ったところで、男の手が閉じた。
床が跳ねた。金物屋の壁に掛かっていた工具が、まとめて落ちた。落ちた音は、聞こえない。
透が湊の肩を叩いた。叩いて、掌を上へ向けて、指を広げた。
開けろ。
湊はうなずいた。うなずいてから、非常口までの距離を測った。二十歩。男の正面を横切る。
透から写した方の力を、湊は一度だけ使った。
使ったという感じはしなかった。ただ、自分の輪郭がすこし薄くなって、見られているという感覚が抜けた。口の中が鉄の味になる。あとで数字が動くのは知っていた。いまは、それだけだった。
走った。
男の目が湊を追わなかった。追わないまま、掌が開いた。
湊は非常口の前にいた。バーを押す。開かない。改装中の扉は、内側から板を一枚渡してあった。板を外す。指が滑る。もう一度。
外れた。
扉が開いて、外の空気が入ってきた。
同時に、視界の端で透の手が動いた。
湊はそれを見た。見て——開いた掌だと思った。
開けろ。まだ開けるところがある。湊はシャッターの方へ一歩踏み出した。
透の手は、握られていた。
止め、だった。
三歩目で、圧が来た。
正面ではなかった。扇の、いちばん端だった。それでも湊は横向きに飛ばされて、棚の抜けた金具に背中から当たった。息が止まって、戻ってくるまで、たぶん二秒か三秒かかった。
耳の蓋が、少しだけ開いた。
自分の呼吸の音が聞こえた。それだけだった。
透が走ってきて、湊の前にしゃがんだ。何も言わなかった。言えないのだから当たり前だった。透は右手を握って、湊の目の前に出した。それから、ゆっくり開いた。
握って、開いた。
順番を、もう一度だけ教えていた。
湊はうなずいた。
立ち上がった。背中は痛かったが、動いた。透が親指で外を指す。宙が反対の壁で、また指を折っている。一、二、三、四。
湊はシャッターへ行った。
下から掌を入れて、押し上げる。半分下りたままだったシャッターが、腰の高さで一度引っかかって、それから最後まで上がった。
非常口が開いている。シャッターが上がっている。通りへ抜ける穴が二つできた。
男がもう一度、掌を打った。
今度は、床が跳ねなかった。
湊は見ていた。圧が来て、二つの開口部へ分かれて、外へ抜けていく。窓の残りが少しだけ落ちて、それで終わった。ビニールがめくれて、また戻った。
男の顔が変わった。
驚いたのでも、怒ったのでもなかった。もっと手前の顔だった。自分の手を見て、それから、もう一度打って、また床が跳ねないのを確かめた顔だった。
宙が指を四本立てて、こちらを見た。まだ数えている。
透が床を指した。位置。指した先は、男の背中側だった。そこには来ない、という意味だった。
根拠は床にあった。二発ぶんの跡が、男の立っている場所から前へ、扇の形に開いて残っている。ビニールのめくれた範囲。工具が滑った向き。棚の抜けた壁のうち、へこんでいるのは正面の一枚だけで、左右の端も、男の後ろの壁も、傷ひとつなかった。
湊は、それを見た。それから男を見た。
男は、自分の口を動かしていた。
何か言っている。長かった。ずっと言っている。
聞こえない。
男自身にも聞こえていないのだと、湊は気づいた。気づいたとき、追いつめている、という感じが急に薄くなった。
透がもう一度、右手を握った。
止め。
今度は、湊は止まった。
---
男の手が、途中で止まった。
胸の前まで来て、開いたまま、閉じなかった。
湊は上着の内ポケットから、透に配られた藁半紙を出した。二つに折ってあるやつだ。ペンは透が持っていた。透は聞かずにペンを渡した。
湊は紙の裏に、一行だけ書いた。
書いてから、男の前まで歩いて、見えるように持ち上げた。
`聞こえていますか`
男は、それを長いこと見ていた。
それから、ペンの方へ手を伸ばした。伸ばして、途中でやめた。やめて、手を下ろした。
何も言わなかった。何も書かなかった。理由は、最後までわからなかった。
外で、誰かの声がした。
聞こえた、と思ってから、湊は自分の耳が戻りはじめていることに気づいた。ただ、どこまで戻ったのかは確かめようがなかった。確かめる相手の声も、まだ遠い。
だから、そのあとも手信号で通した。透が床を指し、宙が指を折り、湊がうなずく。四番だけが、最後まで一度も出なかった。
十時四十一分。警察が来るまでのあいだ、男は床のビニールの上に座っていた。抵抗はしなかった。座って、両手を膝に置いて、時々その手を見ていた。
雪が総菜屋の裏から二人を連れて出したのは、最初の一発の直後だった。金物屋の主人は棚の下敷きになりかけていて、雪が引っ張り出した。打ち身が二つ。傷はそれだけだった。雪は自分の力を一度も使わなかった。使う必要がなかったからだ、と本人が言った。
---
通りに人が出てきた。
割れたガラスが、二軒ぶんになっていた。街灯の下で、通りじゅうが光って見えた。
湊が総菜屋の前まで戻ったとき、女の人がしゃがんで、細かいのを手で掃こうとしていた。
「触らない方が」
「そうよねえ」女の人は手を止めて、それでも動かなかった。「保険が下りるまで、二ヶ月ですって。二ヶ月、こう」
こう、というのは、枠だけになった窓のことだった。
湊は何も言えなかった。言えないまま、その隣にしゃがんでいた。
そのとき、通りの反対側から、女の人が歩いてきた。
上着の色が暗くて、街灯の下でも歳がよくわからない。会長に何か言って、会長がうなずいて、こちらを指した。
耳は、近くの声なら拾えるくらいには戻っていた。
「こちらのお店の方ですか」
「そうだけど」総菜屋の女の人が立ち上がった。
「今夜の件の取材ではありません。もっと前の——二週間前と、その前の破損の方です。地区の掲示を見ました。原因不明、と書いてあったので」
「集めてるの、そういうのを」
「集めています」
女の人は割れた窓を見て、それから枠の内側の、破片の下を指した。
「あの紙のことを、伺ってもいいですか」
「あれ、うちのじゃないのよ」総菜屋の女の人が言った。「前からそこにあるの。誰かが落としたんだと思うんだけど、宛名も何も書いてないし」
「先ほどの方たちは」
「見てったわ。写真だけ撮って、今夜の件とは関係ないからって、そのまま」
女の人はうなずいて、鞄から手帳を出した。
「お預かりしてもいいでしょうか。お名前と、今日の日付を、こちらに書かせていただきます。返せと言われたら返します」
「返さなくていいわよ、そんなもの」
「返せと言われたら返します」女の人はもう一度同じことを言って、それから書いた。書いてから、会長の方も見た。「立ち会いの欄に、お名前をいただけますか」
会長が名前を書いた。書きながら、湊の方をちらりと見た。何か言いたそうだったが、何も言わなかった。
女の人は、割れた窓の内側へ手を入れた。破片の下から、白い紙を一枚抜いた。
昨日の夜、湊が破片の下に見た紙だった。
女の人はそれを街灯の下へ持っていって、鞄からもう一枚出した。折り目のついた紙だった。二枚を並べて、街灯に向けた。
それから、手が止まった。
長く止まっていた。湊のところからは、紙の中身は見えない。見えないのに、その手の止まり方だけがはっきり見えた。昨日、湊がその紙から目を離すのに少し遅れた——あれと、たぶん同じ種類のものだった。
女の人は二枚を鞄へ入れて、手帳にもう一行だけ書き足した。書き終えると総菜屋の女の人と会長に頭を下げた。それだけだった。
湊たちには、一度も話しかけなかった。
宙が横に来て、同じ方を見た。
「知り合い?」
「いや」
「なんか見てたぞ、ミナト氏のこと」
「見てないだろ」
「見てた。……いや、見てないな。あの人が見てたのは、紙だ」
女の人は路地の方へ歩いていって、それきり見えなくなった。
湊は、あの紙が何なのかを言葉にしようとした。今度も出てこなかった。ただ、昨日と一つだけ違っていた。
あれは、何かだ。
それだけは、もう分かっていた。
---
会長が来たのは、片づけを諦めたあとだった。
「助かった」
会長はそれだけ言って、しばらく黙っていた。透が「はい」と言って、そのあと誰も何も言わなかった。宙が「いや、あの、俺たちは」と言いかけて、途中でやめた。雪は少し離れたところで、名簿の写しを畳んでいた。
「礼をどう言えばいいのか、わからんな」
「わからないまま言われても、こっちも困るんで」と透が言った。「大丈夫です」
「大丈夫じゃないだろう、それは」
「大丈夫です」
会長は笑った。笑って、それから思い出したように言った。
「日曜、手が要る」
「日曜?」
「九月五日。片づけだ。査定がやっと済むんでな。済むまでは触れんが、済んだらいっぺんにやる」会長は上着の内から二つ折りの紙を出した。「当番表だ。人が足りん」
湊は受け取った。日付と、区画の番号と、名前を書く欄が並んでいた。書いてある名前はまだ四つしかない。
「これ、どこに出すんですか」
「そこの掲示板に貼る。あとは地区の方にも出しとくよ。紙だけだと年寄りしか見んし、あっちだけだと若いのしか見ん」
「じゃあ、両方ですね」
「両方出さないと、両方から怒られる」
宙が笑った。湊はペンを借りて、四つの下に自分の名前を書いた。少し照れくさかったので、字が小さくなった。
透が横から覗いて、「読めるか、それ」と言った。
「読める」
「読めるならいい」
透は自分の名前をその下に書いた。宙が書いて、雪が最後に書いた。雪の字がいちばん整っていた。
会長は当番表を二つに折って、上着へ戻した。明日の朝、通りの掲示板に貼るのだという。
通りは、まだ暗かった。
---
【観察記録 R-062 ——相良慧】
八月三十一日。伝聞。商店街で三度目。今度は人がいた。負傷は打撲が数件、いずれも軽い。一人が身柄を確保された。
窓とシャッターだけが割れる、という条件は今回も守られています。壊せる範囲を選べる者は、選ばなかった範囲について、いつか誰かに説明を求められます。
音を消す力は、記録を消す力と同じ側にある。
もっとも、わたしが並べたのは二件です。二件は、まだ列ではありません。
別件。父の写しの三つ目。今日は探していません。探さなかった日も、書いておきます。
(ep062 了)




