控え
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【観察記録 R-060 ——相良慧】
八月二十七日。読み直し、二十六日目。
これは、勝てる形の問題です。理由は二つあります。第一に、消す側は一度に一つしか触れない。第二に、写す側は一度に何枚でも作れる。
……順番が逆でした。
伝聞で聞いた話を、わたしは自分の頁の外に置いておけません。置いておけない理由は、父の箱にあります。父は原本を一つ作るとき、写しを三つ作りました。二つは他人の家に置いた。残りの一つを、どこへ置いたのかが分かりません。
——今日、探します。
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八月二十六日、木曜の午前中に、京香は同じ紙を十四通りに増やした。
内容は一つだった。宛名のない書式が四枚。その様式の照合表。貸金庫で新品になった三十七枚の一覧と、封筒四つの状態。民生委員の在館記録・領収書・交通記録が消えた日付。それから、前日に喫煙所の跡地で録った音声の書き起こし。
増やし方は三つに分けた。
一つ目は、郵送だった。自分の事務所宛に三通。日を三日に分けて出す。一通目と二通目は自分で出し、三通目は相談所の人に頼んで、明後日の朝に出してもらう。消印は郵便局が付ける。京香が付けるのではない。
自分で作った証拠は、自分で作れる。だから弱い。強いのは、他人の手が途中に一回入っている紙だ。局員が押した消印。受付の男が起こした票。刷った人が入れた版元の一行。どれも京香には作れないし、京香に頼まれても作らない人が、途中に一人ずつ挟まっている。
二つ目は、預託だった。商店街の外れの生活相談所——元は文具店だった、端末のない、紙の綴りだけの部屋——へ持っていった。受付の男は裸の耳をしていて、取次票を一枚起こした。地区記号と、受付番号と、受付日。名前の欄はない。
「これ、どこに置きますか」と京香は聞いた。
「置き場所は、こちらで決めます」男は言った。「決めたら、忘れます」
「忘れる」
「回した先は、票にも書きません。書かない様式なので」
京香は、それを聞いて少し黙った。
「……つまり、私にも分からなくなる」
「そうなりますね」
三つ目は、印刷だった。提携の印刷所が、藁半紙に八部刷ってくれた。版元の一行——初出、日付、無断改変の禁止——を刷り込むことを、京香は前の件のときと同じように先に約束させた。刷った束は、配布網に乗った。誰の手を経由するかは、京香も知らない。
午後、京香は自分の事務所で数え直した。
同じ内容が、十四。郵送に三、預託に三、増刷に八。うち預託の三つは、置き場所が自分にも分からない。
——事実。同じものが十四ある。
——事実。うち三つの所在を、私は答えられない。
——事実。明日の朝、証言を足した第二版が四つ刷られる。
三行の下に、京香は初めて、推測ではないものを書いた。
——これは、消し切れない。
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証言は、夕方に取った。
場所は相談所の奥の畳の部屋で、卓袱台の上に紙と、京香の録音機と、湯呑みが三つ並んでいた。
民生委員の男は、背筋を伸ばして座っていた。三日前の電話のときより、声が低くなっていた。低くなったのは落ち着いたからではない、と京香は思った。低い方が、疑われずに済むと思っている声だった。
望は、来てから一度も手袋を外していなかった。
「先に、しないことを言います」望は言った。「僕は、自分から視ようとしません。今日、あなたが視てほしくないと言えば、そこで終わりです。終わっても、誰も困りません」
「困らない、ということは、ないでしょう」男は言った。
「困るのは僕たちであって、あなたではありません」
男は、湯呑みを一度持って、置いた。
「……お願いします」
「範囲を決めてください」
「あの日の、行った、というところだけ」
望が手袋を外した。触れて、二十秒ほどで離した。
「先々週の金曜、あなたは午後一時四十分ごろに家を出ています」望は言った。「電車で二駅。喫茶店では、汐見さんより先に着いています。頼んだのはコーヒーで、砂糖は入れていません。銀行の建物の入口で、傘立ての位置を見ています。傘は持っていません」
男の目が、少し開いた。
「傘立て」
「見ています。……理由は、僕には分かりません」
「雨の予報だったんです」男は言った。「朝に見て、折り畳みを持たずに出て、それを、ずっと」
男はそこで、言葉を止めた。
止めてから、両手で顔を一度こすった。
「……ああ」
「合っていますか」と京香が聞いた。
「合っています」
京香は書いた。書きながら、書いているのは証拠ではないと自分に言い聞かせた。これは、この人が自分の一日を自分の言葉で持ち直すための紙だ。裏取りは別にやる。
書き起こしを読み上げて、直すところを二つ直した。男は署名の前に、ペンを一度置いて、指を紙の上で滑らせた。行の高さを確かめる手つきだった。それから、名前を書いた。日付を入れて、京香が立ち会いの欄に署名した。望は署名しなかった。
「僕の名前は、要りません」望は言った。「僕が視たことは、証拠にならないので」
その紙は、翌朝に刷る第二版へ入った。第二版は四部だった。
これは、消えた一日の代わりではない。京香はそう思ったし、思ったことを男には言わなかった。乗車履歴は戻らない。領収書も戻らない。戻らないところに、新しい紙が一枚増えただけだ。
増えた、というのは、しかし、この四日で初めてのことだった。
——
同じ日の夜、京香はもう一件、頼みに行った。
喫茶店の店員だった。あの日、二人にコーヒーを出した人だ。
断られた。
「私、そういうの、無理です」若い店員は言った。「あの、怖いので」
「分かりました」京香は言った。「今日のことは、記事にも記録にも書きません」
望は、何も言わなかった。手袋も外さなかった。帰り道で、京香が「聞かないんですね」と言うと、望は「聞くのは、次にお願いするときです」と答えた。
京香は手帳の証言の欄の下に、一行だけ足した。
——同意が得られなかったため、証言なし。
欄は、空のままにした。
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男が来たのは、翌日の午後だった。
京香の事務所は自宅を兼ねていて、玄関から入って左の一間がそれだ。応答パネルは付けていない。ノックが二回した。
開けると、あの白い指が扉の縁にかかっていた。
「入っても」
「どうぞ」
京香は道を空けた。事務所の机の上には、紙が積んである。積んだのは今朝で、積み方は考えてある。
扉は閉めた。鍵はかけなかった。かけない方が、あとで説明が短くて済む。
一人で会うことの是非は、昨日のうちに一度だけ考えて、そこで打ち切った。この人が壊すのは物と記録で、人ではない。壊す気があるなら、この数日のあいだにいくらでも機会があった。——これは推測だ、と京香は自分に断って、断ったうえで採用した。
男は、上着を脱がなかった。ボタンは、今日も掛かっていない。
「仕事ですか」と京香は聞いた。
「はい」
「私の資料を、全部」
「全部、と言われています」
「そう言われて、受けたんですね」
「受けました」男は言った。「断ると、次が来ないので」
京香は録音機を出した。見せる方だ。男は今日も断らなかった。
男は机の左端の綴りに手を伸ばした。両手で覆って、二秒ほど置いた。離すと、綴りの表紙から、擦れも指の脂も、鉛筆の走り書きも消えていた。中の紙も同じだった。
一つ。
次に、京香が撮影した写真を出力した紙の束へ手を伸ばした。同じことをした。
二つ。
京香は数えていた。数えながら、男の指の色を見ていた。三分の一だったところが、少し上がったように見えた。見えただけかもしれない。それは書かない。
三つ目は、封筒に入ったままの写しだった。男は封を切らずに、両手で覆った。離したときには、封の糊の跡も、宛名の印字も消えていた。
三つ。
男は、そこで一度、右手を左手で押さえた。押さえてから、指を数えるように動かした。数えられたのかどうかは、外からは分からなかった。
四つ目に手を伸ばしたとき、男の手が止まった。
机の右端にあるのは、白い紙の束だった。
三十六枚。角の欠けた一枚を含む。ふちの断ちの毛羽立ちに見覚えがあるはずだった。
その全部に、京香の字が書いてある。
「それは」男が言った。
「二日かけて、写しました」
男は、束を見ていた。手は伸ばさなかった。
「触れません」男は言った。
「知っています」京香は言った。「だから、そこに書きました」
男は、しばらく動かなかった。
「一度対象にした物は、二度は無理なんですね」京香は言った。「痕跡がまた付いても、駄目なんですか」
「駄目です」
「理由は」
「分かりません」男は言った。「そう決まっているとしか、言えません」
京香は、頷いた。頷いたことも書いた。
「もう一つ、確認させてください。事実確認です」
「どうぞ」
「いま、この部屋にあるものを全部消したとして、それで仕事は終わりますか」
男は、答えなかった。
「答えられないと思います。だから、こちらから数字を出します」
京香は手帳を開いた。
「同じ内容のものが、いま十八あります。私の事務所の外に。昨日が十四で、今朝、証言を足した第二版が四つ刷られました。そのうち三つは、私にも置き場所が分かりません。渡した先が回した先を、票に書かない様式なので」
「……」
「明日の朝、もう一通に消印が付きます。三通を三日に分けて出す手配で、二通はもう投函しました。残りの一通は相談所の人が出します。私が止めても、あの人は出します」
男は、机の白い束を見ていた。
「一つに一回、と言いましたね」京香は言った。「指は、あと何回ぶんですか」
初めて、男が京香を見た。
それから、自分の右手を見た。上げて、少し開いて、閉じようとして、途中でやめた。閉じ切らなかったのではなく、閉じたかどうかが分からないという顔だった。
しばらく、そうしていた。
「足りません」
それだけ言った。
「やめますか」
「やめます」
京香は、録音機を止めなかった。止める理由がなかった。
「追いません」と京香は言った。「逃げても、追いません。私の仕事は、そこじゃないので」
男は、脱がなかった上着の内側から、薄い綴りを一つ出した。角が丸くなっていて、表紙には何も書いていない。
「これを」
「なぜ」
「持っていても、もう、めくれないので」
男は、それを机に置いた。置くのに、両手を使った。
「あなたの事情は書きます」京香は言った。「消したことも書きます。両方書きます」
「片方だけの方が、売れるでしょう」
「売れます」京香は言った。「両方書きます」
男は、少し笑ったように見えた。京香は、笑ったように見えた、とだけ書いた。笑ったかどうかは、書く欄が違う。
被害届は、三日前に出してあった。京香の分と、民生委員の分と、相談所を通した分で三件。電話を一本入れると、二十分ほどで人が来た。
男は、抵抗しなかった。
出ていくとき、扉のところで一度だけ振り返って、机の白い束を見た。それだけだった。
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綴りを開いたのは、その夜だった。
中身は、依頼の受付の控えだった。一件につき一枚。上から順に、口座番号、受付日、工程の欄が三つ。
工程の欄には、三つとも日付だけが入っていた。何の工程かは書いていない。金額の欄はない。口座番号は全部で三種類で、日付の新しい方から二種類目に切り替わる箇所が一度だけあった。
控えは、二十六枚あった。
人の名前は、一つも書いていない。
依頼主の名前も、仲介の名前も、男自身の名前もない。あるのは口座と、受付の様式だけだった。
京香は、机の左の引き出しから、宛名のない書式を四枚出した。七月から集めてきたものだ。
並べた。
欄の位置が同じだった。工程の空欄が三つあるのも同じで、三つ目の欄だけ少し狭いのも同じだった。罫の太さも、右下の余白の取り方も同じだった。
——事実。二種類の書式は、同一の様式である。
——事実。書かれている依頼の中身は、互いに別件である。
——推測は、書かない。
京香は、三行目を二度読んだ。読んでから、書かないと決めたことの中身を、頭の中で一度だけ言葉にした。
同じ様式を使う場所が、どこかにある。
言葉にして、書かなかった。裏が取れていない。
口座番号だけを、別の紙へ書き写した。写した紙は、翌朝の便で出す束へ入れた。
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【観察記録 R-060 ——相良慧】
八月二十七日の続き。聞き書きです。会っていません。
消えなかったものを数えます。郵送が三、預託が三、増刷が八、証言を足した第二版が四。合計は十八です。ただし、そのうち三つの置き場所は、預けた本人にも分かりません。数えられるのに、置き場所が言えない。それが答えでした。
消えたものも書きます。綴りが一つ、写真の束が一つ、封筒の写しが一つ。三つは戻りません。
取れなかった証言が一件あります。断られた、と聞きました。断られた欄は空のまま残っている、とも。
勝った、と書ける日は多くありません。今日は書けます。
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慧は端末を閉じた。
鞄の内側から、父の紙のノートを出して、机に置いた。
開かなかった。
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同じ夜、京香は事務所の机を片づけた。
白い紙が一枚、隅に残っていた。昨日の未明に抜いて、そのまま置いてあったものだ。
もう消せない紙だった。
京香は消せないボールペンを取って、その一枚に、一行だけ書いた。
(ep060 了)




