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【観察記録 R-059 ——相良慧】
八月二十五日。読み直し、二十四日目。今日は自分の頁の話ではありません。
伝聞を一件、書き留めます。書式を追っている記者の方が、預けていた資料を失った。正確には、失っていない。そこにある。同じ紙が、同じ数だけ、同じ順で。ただし、何も書かれていない。二日前にそう聞きました。
消えたものには、消した人がいます。
……父の箱の仕分けが、原本の側だけ先に終わりました。写しの方が多い。父は原本を一つ作るとき、写しを三つ作る人でした。三つのうち二つは、他人の家に置いてあります。理由は書き残されていません。
書き残されていないことを、わたしは今日、二度書きました。
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八月二十三日。貸金庫の部屋は、二畳ほどだった。
壁の三面が金属で、机が一つ、椅子が一つ。時計はない。持ち込んだ端末は、扉の外の受付で預ける決まりになっている。だから京香は腕時計をしてきていた。針のある方ではなく、表示のある方だ。
十時十二分。
箱の中身は、そのままあった。
封筒が四つ。いちばん下に、輪ゴムで留めた紙束が一つ。数えなくても分かる。三十七枚だ。数えたのは自分で、数えた日も控えてある。
京香は輪ゴムを外した。
一枚目が白かった。
二枚目も白かった。三枚目も、四枚目も。京香は束を裏返して、下から数えた。三十七枚あった。紙の色も、厚みも、断ちの毛羽立ちも、同じだった。左上の角が一枚だけ欠けているのも、同じだった。
折り目がなかった。
京香はそこで手を止めた。この束は、三回に分けて持ち込んでいる。一回目に運んだ十四枚は、鞄に入れて二つ折りにした。二つ折りの跡は、伸ばしても消えない。消えないものを、京香はいつも当てにしている。
三十七枚のどこにも、折り目がなかった。
無くなっていたのなら、盗まれたと書ける。破られていたのなら、破ったと書ける。
目の前にあるのは、白い紙が三十七枚だった。
京香は封筒の口を開けて、中も確かめた。四つとも同じだった。宛名の印字も、消印も、開封の裂け目もない。裂け目のない封筒が、開いた状態で入っていた。
——事実。三十七枚は、ここにある。
——事実。何も書かれていない。
——事実。折り目がない。
——推測は、まだ書かない。
京香は椅子に座って、受付で借りた鉛筆で、備え付けの用紙に三行書いた。それから、その用紙も持って出た。
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受付の入退室記録には、京香の名前が残っていた。
先週の水曜。先々週の金曜。その前の月曜。全部ある。日付も、時刻も、生体照合の記号も。
同行者の欄が、空だった。
京香は指で押さえて、二度読んだ。
「立ち会いをお願いした方がいるんですが」
「同行の記録は、この欄に出ますが」受付の人は画面を回して見せた。「……出ていませんね」
その日の午後、京香は民生委員の男に電話をかけた。
六十代で、七月の取り立ての件から、相談所の側で立ち会いを引き受けてくれている人だ。京香が「第三者の同席」と書いた手順を、いちばん最初に実行した人でもある。
「行きましたよ」と男は言った。「先々週の金曜。汐見さんと、二人で」
「何時ごろでした」
「二時前です。近くの喫茶店で、先にコーヒーを」
京香は、それを書いた。書いてから、次の質問をした。
「その喫茶店の領収書、まだお持ちですか」
しばらく音がしなかった。紙をめくる音がした。財布の中を探す音に変わった。
「……ありますね。ありますけど」
「けど」
「何も、印刷されていません」
感熱紙が飛んだのではないか、と京香は言いかけて、やめた。感熱紙は、飛ぶと黒くなるか、薄い灰色に濁る。真っ白にはならない。
「交通の記録は」
男が確かめるのに、二分かかった。
あの日の乗車履歴だけがなかった。前の日と、次の日はある。抜けているのではなく、その一日ぶんが、乗っていない人の一日になっていた。
「私は、行きましたよね」と男は言った。
声が、さっきより高くなっていた。
「行きました」と京香は言った。「私が覚えています」
「そうですよね。……いや、そうなんですけど」
男はそのあと、二度、同じことを言った。二度目は、語尾が上がっていた。
電話を切ってから、京香は自分の手帳に書いた。
——この人は、自分の一日を、自分の記憶だけで持たされている。
——それは、私が引き受けさせた仕事の結果である。
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消えた、という言葉は使えなかった。無くなっていないからだ。
京香は手帳の見開きに、別の言葉を書いた。
——新品になっている。
それから、新品になったものを並べ直した。
紙束が一つ。封筒が四つ。入退室記録の同行者欄が一つ。領収書が一枚。交通記録が一日ぶん。
日付を横に書いた。
紙束と封筒は、京香が最後に開けた水曜より後。入退室記録は、その前でも後でもありうる。領収書は、男が財布に入れっぱなしにしていた三週間のどこか。交通記録も、同じ三週間のどこかだ。
窓が、全部重なった。
——事実。八件とも、触れられた可能性のある期間が、同じ三週間の中で重なっている。
——ゆえに、一日でまとめて処理した可能性を、いまの材料では消せない。
——必要なのは、期間の重ならない一件。まだ見つかっていない。
京香は、そこで手を止めた。
分からないことを分からないまま欄に置いておくのは、書ける側の仕事だ。分かった気で埋めた欄は、あとで必ず高くつく。
京香は、書式の綴りを開いた。
七月に、四人目の書類束へ混ざっていた宛名のない一枚。口座の欄と、空の工程欄が三つ。あれから同じ様式のものを、京香は四枚集めている。四枚目の工程欄の一つに、手書きの走り書きがあった。
「白紙」
業者の呼び名か、工程の名前か、判別する材料はない。だから京香は、判別しないまま欄に入れた。
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会えたのは、二日後だった。
場所は、駅の東側の、屋根だけある喫煙所の跡地だった。灰皿は撤去されていて、床のタイルに丸い跡が四つ残っている。呼び出したのは京香の方で、来る理由を相手に作らせるために、京香は最初の連絡に一行だけ書いた。
——あなたの仕事の残りを、一つ持っています。
男は、思っていたより年上だった。四十代の半ばか、もう少し上か。上着の袖から出た手が、白かった。
日焼けの反対の白さではない。指の先から三分の一ほどが、色を失っていた。境目は途中で止まっていて、そこだけ薄い霜のように見えた。
「時間は」と男は言った。
「十分で終わります」
京香は録音機を出した。二台のうち、見せる方だ。
「録らせていただいても」
「どうぞ」
男は、断らなかった。断らない人だ、と京香は思った。断る材料を持たない人でもある。
「一つ、確認させてください。事実確認です」京香は言った。「あなたは、私が貸金庫に預けたものに触れましたか」
「触れました」
「何日かけて」
「……」
「何回に分けて、と聞き直します」
「五回です」男は言った。「一回に一つです。それ以上は入りません」
「同じ日に、五回ですか」
「別の日です」
京香は、頷いた。頷いてから、書いた。頷いたのは相手のためで、書いたのは自分のためだった。
書いたのは、事実の欄ではない。供述、と札を付けた欄の方だ。裏は取れていない。取れていないが、重なった三週間に、初めて目盛りが一つ入った。目盛りを入れたのは、消した本人だった。
「そのあいだ、指はどうなりましたか」
「進みました」
「痛みますか」
「もう、なにも」
男は上着の前を合わせようとした。いちばん上のボタンに指をかけて、外した。もう一度かけて、また外した。
二度でやめた。
説明はしなかった。京香も聞かなかった。聞かないでおくことと、書かないでおくことは別だ、と自分に言い聞かせた。
「あなたの側の話を、少しだけ聞かせてください」
「話すことはありません」
「では、こちらから言います。……あなたは最初、自分の記録を消したかった。違いますか」
男は答えなかった。
「消せる立場になったときには、消したい相手はもういなかった。——これは、推測です。訂正があれば、訂正として載せます」
「訂正はありません」
それだけだった。
京香は録音機を止めた。止めたことが分かるように、机の代わりの手すりの上へ、画面を上にして置いた。
「ここからはオフレコで」
男は、初めて京香の顔を見た。
「あなたが消したのは」京香は言った。「この人の一日です」
手帳を開いて、あいだに挟んであった一枚を、手すりの上に置いた。
男の写真ではない。相談所の掲示に貼られていた、当番表の複写だった。名前の欄は、京香が指で隠していた。
「六十四歳です。週に三日、相談所に出ています。あの日は二時前に来て、私と喫茶店でコーヒーを飲んで、一緒に受付を通りました。私の立ち会いを引き受けた理由は、前の件で自分が同席して、それがうまくいったからです」
「名前は」
「言いません」京香は指をどけなかった。「あなたに渡す気はないので」
男は、複写を見ていた。
「その人は今、自分の記憶しか持っていません。行った、と言えます。行ったことを示す物が、世界に一つも残っていない。……あなたは物を消した。私が数えているのは、そこから先です」
「私は、記録しか触っていません」
「知っています」
京香は、複写を手帳に戻した。
「私の記憶も、あなたが消したのか」
言うつもりのなかった質問だった。順番でいえば、三つあとに置くはずのものだった。
男は、少しのあいだ黙った。それから、初めて自分から言葉を足した。
「消せるのは、物と記録だけです」
「人の記憶は」
「触れません」男は言った。「触れたことも、ありません」
京香は、その一行を書かなかった。
書かなかったのは、手が動かなかったからだ。
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その夜、京香は檜山望を呼んだ。
連絡先は、窓口の件のあとで一度だけ交換していた。かけるかどうかを、京香は三十分迷って、迷っている自分に気づいて、かけた。
場所は、深夜のファミレスにした。四人掛けの奥の席で、ドリンクバーは二往復した。
望は、注文を一つもしなかった。手袋をしたまま座って、京香が話すあいだ、一度も口を挟まなかった。
京香は、古い取材ノートを出した。一年以上前の、医療AI事故の初期取材の分だ。頁の異常に気づいたのは四月で、その日のうちに三方向から撮影した。撮ってから四ヶ月、京香はこの頁を誰にも見せていない。
日付はある。場所の欄が「都立第三——」で途切れている。その下の数行は、自分の筆跡で、しかし読めない。紙が破れる寸前まで筆圧をかけて、同じ画を何度もなぞってある。判読できるのは三文字だけだ。
「わすれ」
「これは、私の字です」京香は言った。「筆圧の癖も、線の入りも、私のです。事実確認は済んでいます」
「はい」
「この日の取材を、私は覚えていません。前の日も、次の日も覚えています。この日だけが、疲れて直帰した日として畳まれています。……畳まれ方が、綺麗すぎるんです」
望は、ノートを見ていた。見ているだけで、手は膝の上にあった。
「消された、って感覚だけが残ってるの」京香は言った。「何を、が思い出せないのに、確かに何かが無い」
望は、まだ何も言わなかった。
「今日まで、これは比喩だと思っていました」
「今日、変わりましたか」
「変わりました」
望は、手袋の指先を片方ずつ引いて直した。それから、一つだけ聞いた。
「それを知って、どうしますか」
京香は、答えられなかった。
答えられない、と分かるまでに十秒かかった。十秒のあいだ、望は待っていた。待ちながら、次の問いを一つ足した。
「いま、あなたが確かめたいのは、その日に何があったかですか。それとも、その日が本当にあったかですか」
正確な問いだった。
正確すぎる、と京香は思った。思ったことと、その問いに答えを持っていることは、同時に起きた。
「後です」
「はい」
「……ええ。それを、確かめたい」
「では、範囲を決めます」望は言った。「その日の、あなたの一日だけ。視たものはこの席に置きます。外へは持ち出しません。僕が言うのは、視えたものだけです」
「言わないことは」
「誰が、なぜ、は言いません。持っていないので」
京香は、手を出した。
望が手袋を外した。触れたのは、手首の内側だった。二十秒ほどだった。
離してから、望は一度だけ指を握って開いた。
「あなたのその日は、途切れていません」
京香は、息を吸った。
「朝から夜まで、続いています。歩いています。二回、電話を受けています。昼は食べていません」
「取材は」
「しています。相手の顔は、あなたの記憶の中でも輪郭がありません。……あなたは相手の靴を見ています。ずっと」
京香は、書いた。手が震えていたので、字が自分のものに見えなかった。
「それから」望は言った。「同じ角を、三度、曲がっています」
「同じ角」
「同じ角です。三度とも、初めて曲がる人の目で曲がっています」
その言い方を、京香は二度、口の中で繰り返した。
「初めて、の目で」
「はい。……僕が言えるのは、そこまでです」
望は手袋を戻した。戻すとき、指先から先に入れた。
「これは、裏取りじゃないのね」京香は言った。
「はい」望は言った。「あなたが持っているものを、あなたに返しただけです」
京香は、頷いた。頷いたことに、自分で少し驚いた。
欲しかったのは証明だった。記憶は、それが事実であることを自分では証明しない。京香はそこを取り違えない側の人間で、取り違えないことで書いてきた。
それなのに、目の前の三行が、今日いちばん確かなものに見えていた。
——事実。その日は続いている。
——事実。続いているのに、同じ角を三度、初めての目で曲がっている。
——事実。「わすれ」は、私の字である。
三行の下に、京香はもう一行足した。
——推測。私の記憶に手を入れた者がいる。それは、今日会った男ではない。
書いてから、ペンを置いた。
置いてから、四行目の下に何も続かないことに気づいた。
消したのが誰なのかを指す言葉を、京香は一つも持っていなかった。名前も、所属も、通称も、書式も。欄が全部空のまま残るのは、初めてだった。
「汐見さん」
望が言った。
「そこは、僕にも視えません」
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帰ったのは、三時を過ぎていた。
京香は机の上を片づけて、貸金庫から持ち出した紙束から、一枚だけ抜いた。
白い。折り目がない。断ちの毛羽立ちだけがある。三十七枚のうちの一枚で、どれを抜いても同じだった。
消せないボールペンを出して、キャップを外した。
そのまま、机に置いた。
紙には、何も書かなかった。
(ep059 了)




