返事
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八月二十二日の昼過ぎ、アーケードの通りは、片づけが半分ほど終わっていた。
提灯はもう外されていた。脚立の上の人が、通りをまたいだ告知幕の端を金具から抜いて、反対側から別の人が巻き取っていく。染め抜かれた八月二十一日の文字は、巻かれるにつれて内側へ入り、途中で日付の頭だけになって、最後に見えなくなった。
雪は、折り畳んだ長机を三つ運んだ。二つ目の途中で、反対の端が急に軽くなった。
「ユキ氏、それ一人で持つやつじゃないから」
「持てる」
「持てるとかじゃなくてさ。見た目の問題な。周りの大人が気にするやつ」
宙は端を持ったまま後ろ歩きで進んだ。歩きながら片手で端末を出して、何かを一度確かめて、しまった。
最後の一つを台車に載せたとき、通りの向こうから二人が来た。
一人は栞だった。もう一人は、誰かだった。誰かだ、と思ったあとで、名前が半拍遅れて追いついた。
半拍が遅れたのか、それとも最初からなかったものが埋まったのかは、雪には分からない。分からないままにしてあるものなら、雪のところには他にもいくつかある。
「あんた、今日はおれのこと分かるか」と透は言った。
「分かる」
「じゃあ省略な」
透は宙の方を向いた。
「はじめまして。日野透」
「トオル氏!」宙が振り向いた。「いや待って、今の要らなかったやつ。今日は最初から分かってたから」
「毎回そう言う」
「毎回ほんとなんだよ」
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商店会の事務所の前に、長机が一つだけ残っていた。
透は上着の内から、小さなスケッチブックを出した。角が丸くなっていて、表紙には何も書いていない。
「返す」透は言った。「揃えてから出すって言った」
栞は両手で受け取った。受け取ってから、机の上に置いた。
「……ずいぶん、待たれたんですね」
「期限のあるやつが一枚あった」透は言った。「過ぎるまでは、当たりも外れも言えない」
栞は表紙を開いて、途中の頁から三枚を外した。外して、日付の順に並べた。並べたのは栞で、誰も手を出さなかった。
三枚とも、裏を上にして置かれた。
絵は見えない。見えるのは、それぞれの裏に書かれた三行だけだ。一行目に日付。二行目に場所。三行目に、見えた物が三つ。
いちばん左の一枚の、下の二行を、雪は読んだ。一行目の日付は、栞がこれを描いた日だ。読んでも、確かめようがない。
——アーケードのある通り。火。八月二十一日の幕。靴が片方。
八月二十一日は、雪が八日前に五十枚ずつの束にした紙に、全部印刷されていた日付だ。四つ折りにして、角を合わせて、束にして、二人で配って歩いた。読まれずに終わった家が半分くらいある、と会長は毎年言っている。
その日付が、知らないところで、別の紙にも書かれていた。
「これだけです」栞が言った。「日付が、絵の中に入っていたのは」
「昨日だ」宙が言った。「昨日、俺ここにいたし」
「順番に」透が言った。「何を見た」
宙は端末を出して、指を三回動かした。
「一、商店会の掲示。中止の貼り出しなし。終了の礼だけ出てる。二、当日の記事。三本あって、三本とも認証済み。火の話はゼロ。三、通り。今、俺たちが立ってるここ」
宙は顔を上げた。
「祭りはやった。火は出てない。誰も死んでない」
栞は、いちばん左の一枚を、裏のまま指で押さえた。
「三本は、わたしが読みました」栞は言った。「一本目と二本目は、同じ写真を使っています。三本目だけ、別の人が撮ったものでした」
「どっちも認証済みなんだろ」
「はい。……別の人が撮っていた方が、少しだけ、確かです」
透は、机の上の三枚を上から見た。見てから、いちばん左の一枚を指で二度叩いた。
「一枚は、外れた」透は言った。「少なくとも一枚は外れた。だから、三枚は決まった未来じゃない」
宙が息を吸った。
「イベント回避——」
「そこまでだ」透は宙を見ずに言った。「外れることがある、ってだけだ。あとの二枚が消えたわけじゃない」
宙は口を閉じた。閉じてから、端末をしまった。しまうときに、少し手間取っていた。
栞は、残りの二枚に手を触れなかった。触れないまま、間を置いて言った。
「じゃあ、あとの二枚も、外れるかもしれないんですね」
誰も答えなかった。
雪の手が、机の上の三枚の端へ伸びた。伸びてから、角を合わせて重ねた。合わせるとき、親指の腹で折り目のないところを二度こすった。二度目は、押さえるというより、なでるのに近かった。
誰も見ていなかった。栞は鞄を開けていたし、宙は端末を見ていたし、透は通りの方を向いていた。
雪は手を引いて、膝の上に戻した。
通りでは、幕を巻き終えた台車が、脚立を積んで動きはじめていた。
別れ際、栞はスケッチブックを鞄へ入れた。入れるとき、両手だった。雪はその持ち方を知っている。壊れやすいものを持つときの持ち方だった。
帰り道、宙が信号のところまで一緒に来た。
「ユキ氏さ。あれ、よかったってことでいいんだよな」
「あれ」
「絵。当たってなかったやつ」宙は歩きながら、片手を振った。「よかった、でいいだろ。火事にならなかったんだから」
いい、と雪は思った。
思ったところで、最後の一言が余った。あとの二枚も外れるかもしれない、と栞は言って、誰も答えなかった。外れるかもしれない、は、いいことの側に置く言い方ではない。かといって、悪いことの側にも置けない。
余ったものを、どちらの側にも置かないまま、雪は持って帰ることにした。
「……別に、いい」
「なんだそれ」宙は笑った。「まあいいや。じゃあな」
信号が青になって、宙は先に渡った。雪は変わったばかりの青を、一つ分見送ってから渡った。
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部屋の電気は「ねえ」で点く。
雪のエージェントに名前はない。周りにも、名前を付けている人は一人もいない。型番で呼ぶ人が何人かいて、あとは全員「ねえ」で足りている。足りているものに、名前は要らない。
十時七分だった。
雪は床に座って、ベッドの縁に背中を預けた。ポケットから四つ折りの紙を出した。
八日前に捨てて、十分後に拾った紙だ。皺は伸びていない。伸ばそうとして伸びなかったところが、そのままの形で残っている。
開かずに、膝の上に置いた。
何も考えなかったわけではない。考えたことは全部、前に一度考えたことだった。効く方法があるならとっくに誰かが使っている。自分にだけ都合よく効くものが世の中にあると思う方が変だ。八日前と同じ順番で、同じところへ落ちた。
落ちてから、動かなかった。
途中で一度、紙をポケットへ戻した。戻してから、ポケットの上を手で押さえた。押さえたまま、しばらくそうしていた。
外の道を、自転車が二台通った。一台目は速く、二台目は遅かった。冷蔵庫が一度止まって、また動いた。
紙をもう一度出したのは、そのあとだ。
十時三十八分になっていた。
八日前は、止めるために名前を呼んだ。謝るのをやめてほしくて、やめて、と言った。やめて、は自分の中のものに言う言い方だ。手が勝手に動くのをやめさせるときや、考えるのをやめさせるときと、同じ言い方だった。
今日は、その言い方をやめた。
「あなた、痛い?」
言ってから、雪は自分の声を聞いた。他人に聞くときの声だった。
返事はなかった。
言葉では、なかった。
腕が重かった。
雪の腕は重くない。三十分、床に座っていただけだ。持ったのは机が三つで、それは昼のことで、とっくに戻っている。
重いのは腕のもっと内側にあるもので、雪はそれを、疲れている、と受け取った。
受け取ってから、気がついた。
自分の疲れではなかった。
どちらのものかが、分かった。
この一年、雪はいろいろなものを分けられなくなっていた。返した記憶と返していない記憶。自分の癖と、隣にいた人の癖。先に来る言葉と、あとから来る言葉。どれも同じ重さで置いてあって、片方が薄いということがなかった。
今のは、どちらのものかが分かった。
雪は、膝の上の紙を開いた。
皺の山と谷は、開いても残っていた。字は三つ。書いたときと同じ三つだった。書き直していない。書き足してもいない。
「みぞれ」
と、雪は言った。
それから、続けた。
「わたしは、あなたじゃない」
一度、息を吸った。
「……だから、あなたも、わたしじゃない」
何も起きなかった。
部屋の音は、冷蔵庫と、外の道と、遠くの踏切だった。八日前と同じだった。光ったものも、鳴ったものもない。身体のどこかが熱くなることも、冷たくなることもなかった。
雪は、棚のほうを見ないまま、文庫のことを思い出してみた。
返した絵と、返していない絵が、まだ同じ明るさで出てくる。水飲み場の横で両手で渡した絵と、棚の上に置いてカバーの折り返しが縁から出ている絵。どちらもはっきりしていて、どちらかを疑うための重さの差は、やっぱりどこにもなかった。
腕を見た。傷はない。ずっとない。ないことが不気味だという話も、前とまったく同じだけ不気味だった。
直っていない。
そう思ってから、直ると思っていなかったことを、雪は思い出した。
布団に入って、電気を消した。消したのは「ねえ」だった。
しばらくして、来た。
——そっちじゃない。
枕の位置のことだった。壁側へ寄りすぎていた。雪が半分そう思っていたことを、少しだけ先に言っただけだ。いつもどおりだった。
雪は枕を引いて、そのまま目を開けていた。
八日前は三度だった。信号のところで一度、青信号の三十歩でもう一度、それから部屋で一度。
次の日は数えないことにした。数えないことにしていたのに、その次の日から、また数えていた。間隔は縮まっていた。縮まっているものは、たいてい、そのあと縮まりきる。
その夜は、来なかった。
来ないことに気づくのに、しばらくかかった。気づいてからも、それが何なのかは、考えなかった。
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朝、雪はコンビニで固めのプリンを二つ買った。
一つは店を出たところで食べた。もう一つは、家に帰って冷蔵庫に入れた。ドアの内側の、いちばん手前に置いた。
誰の分かは、考えなかった。置く場所だけ、迷わなかった。
レシートは、半分に折って、一度開いて、折り目に合わせてもう一度折った。角を合わせるとき、親指の腹で二度こすった。二度目は、なでるのに近かった。
折り終えてから、雪は自分の手を見た。
手は、昨日と同じだった。
昼前に、電話が鳴った。相良さんだった。
昨日の通りの話だった。記事のことと掲示のことを、雪は覚えている順に答えた。相良さんは相槌のたびに何か書いているらしく、そのあいだ少し間があいた。
「ほかに、変わったことは」
いつも最後に同じことを聞く人だった。雪はいつも「別に」と答えている。
今日は、違うことを言った。
「声が、謝らなくなりました」
言って、それ以上は言わなかった。相良さんも、すぐには何も聞かなかった。
しばらくして、ありがとうございます、と言われた。
雪は、何に礼を言われたのかが分からないまま、電話を切った。
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【観察記録 R-058 ——相良慧】
八月二十三日。白石さんへ電話。
最後に、聞いていない一件を言われた。声が謝らなくなった、と。何の声かは聞いていません。あの人の状態で報告される声は、一つです。
これは、境目ができた事例です。根拠は三つあります。第一に、自発の報告であること。第二に、増える変化ではないこと。第三に——
三つ目を書く前に手が止まりました。順番が逆でした。書き直しません。逆だったことが残らないからです。
戻った、という報告はありません。こちらからも聞いていません。
止まったらしい、が限界です。一件では、ほかの誰のことも言えません。
(ep058 了)




