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AIが全部の正解を先に出す2049年、わかり合った相手の超能力が写る。記憶も痛みも一緒にー人間未解ー  作者: 猫間じん


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へり

---


【観察記録 R-057 ——相良慧】


 八月十七日。手を離してから、六日。


 名前について、材料が一件あります。他人が見たものを、聞いた形で持っているだけです。一件では並べられません。並べられないものを、わたしは結論の側へ置きません。


 名は、呼ぶ側が相手を自分の外のものとして認め、相手の側からも認められたときにだけ成立します。


 今日、その一件を、見た本人と一緒に数え直します。数え直しても、一件は一件です。増えないものを、増えたことにしないための手順を、先に決めておきます。


 ——十四時、行きます。


---


 児童公園の藤棚の下は、日陰というより、日の薄いところだった。


 二時を過ぎて、砂場の砂は白く乾いていた。誰も遊んでいない。入口の掲示板に、二十一日の夏祭りの案内が画鋲で留めてあって、右下の一箇所だけ抜けて紙が反っていた。同じ案内の通知が、湊の端末にも三つ溜まっている。三つとも開いていない。


 慧はベンチには座らず、砂場の縁のブロックに鞄を置いた。鞄の内側のいちばん硬いところに何が入っているかを、湊は知っている。慧はそこには手を入れず、外側の口から罫のない紙を出した。


「三度で、一度止めます」慧は言った。「次にいつ行くかは、決めていません」


「決めないのを決めたって言うんだよ、それ」と透が言った。


「日野さんには、もう言われました」


 透は言い返さずに、ブロックの上に自分の紙を置いた。


「あの。相良さん。……ちょっと、聞いてほしいことがあって」


「どうぞ」


「うまく言えないんですけど」


「うまく言わなくていいです」慧はペンを持った。「言えた順に言ってください。順番は、あとで直せます」


 湊は、一昨日のことを話した。


 縁石のところで、雪と二人になった時間が十五分ほどあった。雪はコンビニの領収書を折っていた。半分に折って、一度開いて、折り目に合わせてもう一度。角を合わせるとき、親指の腹で折り目を二度こすった。二度目は、なでるのに近かった。


 湊はそれを、透の手だと思った。


 それだけなら、癖がうつっただけだ。隣にいる人の手つきを覚えることは、湊にもある。問題は、そのあとだった。


「五分くらいあとに、同じこと聞いたんです。宙と何時に別れたか。……前と違う答えが返ってきて」


「違った」


「三時半、って言ったのが、四時半になった。ふつうなら、あれ、って顔をするじゃないですか。言い間違えたときって」湊は自分の顎を指で示した。「しなかったんです。どっちも、同じ顔で言った」


「嘘の顔でもなかった、と」


「なかったです。……たぶん、両方本当だったんだと思う。雪の中では」


 慧は顔を上げずに書きながら、聞いた。


「あなたには、どう見えましたか」


「なんか」湊は言葉を探した。出てきたものが、自分でも気に入らなかった。「二人分ある感じがする。……いや、違うな」


「違いますか」


「一人分が、二回ある感じ」


 ペンが止まった。


 慧が顔を上げた。上げてから、いま書いた一行を丸で囲った。


「いま言ったことを、もう一度言えますか」


「一人分が、二回ある感じ」


「そこです」慧は言った。「二人分なら、数の話です。足せば戻ります。一人分が二回あるというのは、足しても戻りません」


「……足しても戻らない」


「一人分と一人分のあいだに、切れ目があるという意味だからです」慧はペンの尻で紙を叩いた。「問題は、数ではありません。境目です」


 湊は、口の中でその言葉を一度転がした。境目。


「これは定義です」慧は付け足した。「診断ではありません。わたしは白石さんを見ていません」


「はい」


「見ていない人のことを、見た形で書かないための手順です」


 透が、ブロックの上で膝を組み替えた。


「境目ってのは」透が言った。「作れるのか」


「作った例を、わたしは知りません」


 湊の中で、何かが引っかかった。探り当てられないまま、口が先に動いた。


「……前に、一回だけ、見たことがあるかもしれない」


「見た」


「見た、っていうか。聞いた、っていうか。小さい子が、家の古い端末に名前を付けて呼んでたんです。うちの子、って。……返事の前に、間があった気がして」


「気がして」


「測ってないです。仮説にもならないって、そのとき自分で書きました」


「それは、材料です」慧は言った。「仮説にならない材料は、材料でないという意味ではありません」


 慧が次を言いかけたところで、端末が短く鳴った。慧は画面を一秒見て、立ち上がった。


「一件、電話を返してきます」慧は言った。「十分で戻ります」


 慧は鞄を置いたまま、公園の外へ歩いていった。植え込みの向こうで一度日に当たって、角で見えなくなった。


---


 湊は端末を出した。名前をつける、と打って、何を調べたいのかが定まらないまま送った。


 出てきたのは、姓名判断の広告と、赤ちゃんの名づけの記事と、飼い猫の名前の人気順の表だった。湊が読んで気分がよくなるものだけが、上から順に並んでいた。


「そりゃ、お前が見たいもんしか出ねえよ」透は自分の紙の角を揃えていた。「鏡だからな」


「わかってるけど」


「わかってても押すだろ。おれも押す」


 湊は端末を閉じた。顔を上げたとき、入口に人が立っていた。


 いつからいたのか、分からなかった。


 銀に近い髪が、二時過ぎの光の下では、ほとんど白かった。手ぶらだった。何も持っていない両手が、暑さの中で妙に整って見えた。


 湊は立った。立ったことに気づくのが、一拍遅れた。


「こんにちは」と男は言った。「相沢くん」


 透が、湊の斜め後ろ半歩へ移った。移り方に音がなかった。


「……あんた」


「用件は一つです」零は言った。「相良さんの報告が、八月八日の分から届いていません。生きているかどうかだけ、確認します」


「生きてます」


「確認しました」


 零は頷きもせず、体の向きを変えた。来た方向へ、そのまま帰るつもりの向きだった。


「それだけか」


 零は止まって、こちらへ向き直った。向き直り方が、さっき向きを変えたときと、角度まで同じだった。


「一つ、置いていきます」零は言った。「対価は要りません。僕の再検証のためです。あなたがたの依頼ではありません」


「……はい」


「読み出しを一件、最後まで通せませんでした」


「誰のですか」


「答えません」


「いつ」


「答えません」


「……」


「読めなかった、という言い方は、正確ではありません」零は言った。「読み出しは、途中まで進みました。途中で、当たりました」


「当たった」


「内側に、もう一本、線がありました」


 零は、右手を胸の高さまで上げた。上げただけで、何もしなかった。指の形も作らなかった。


「人の内側には、ふつう、線が一本しかありません。内側と、外側のあいだの一本です」零は言った。「その一件には、内側に、もう一本ありました。……へり、としか言えません」


「へり」


「二つのものが接しているところの、いちばん外の線です」零は言った。「そこから先は、僕の側の言葉が届きませんでした。手続きの問題でも、損傷でもありません。当たって、止まりました」


「その人が、なんかしたのか」


「分かりません」零は言った。「分からないことを、報告します」


 湊は、その一行を前にも読んだ。夜、写しの紙の、いちばん下の行だった。


 零は、それで終わりの顔をしていた。終わりの顔のまま、まだ立っていた。帰るだけの人が、帰るまでの二秒を、こちらの返事のために空けていた。


 空いていた。


 湊の口が、その二秒に落ちた。


「……相良さんが、古い装置に繋ぎました。三度」


 言ってから、自分の声が思っていたより普通だったことに、遅れて気づいた。


 透は動かなかった。止めもしなかった。止めない、という形の動かなさだった。


「三度」零は繰り返した。


「中身は言いません」


「聞いていません」


 零は、それだけ言った。


 それだけ言って、体の向きを変えた。今度は止まらなかった。植え込みのところで一度だけ、こちらを見ないまま口を開いた。


「——へりのある側が、どっちなのかは、僕には分からなかった」


「どっちって」


 返事はなかった。零は通りへ出て、角で速度を落とさずに曲がった。歩幅が、行きも帰りも同じに見えた。


---


 湊は、しばらく入口の方を見ていた。


 隣で、紙をめくる音がした。透が上着の内から紙を出して、何かを書いていた。書き出しの位置に数字が四つ並んだのが、目のはしに入った。時刻だった。


「なに書いてんの」


「今の」


「……そう」


 透は書き終えて、紙を二つに折った。こちらへは向けなかった。向けないまま上着へしまって、元の姿勢に戻った。


 三度。それだけだ。日付も、場所も、中で何があったかも、言っていない。数字を一つ渡しただけだ。


 その数字に慧の許可が要るかどうかを、湊は考えなかった。考える前に、口が二秒に落ちた。


---


 慧が戻ってきたのは、十二分後だった。


「遅れました」慧は言った。「何かありましたか」


「……いえ」


 湊は、そう言った。言いながら、視線が自分の手元へ落ちた。手には、何も持っていなかった。


 慧は一度だけ湊の顔を見て、それから透を見た。透は自分の紙の角を揃えていた。


「そうですか」慧は言った。


 慧は座って、さっきの紙を出した。丸で囲んだ行の下に、線を引いた。


「では、材料の話に戻ります」慧は言った。「一件しかない材料を、三人で数え直します」


「数え直すって、どうやって」


「あなたが見たものと、あなたが思ったものを、別の場所に置きます」慧は言った。「置く場所が同じだから、一件が二件に見えるんです」


 透が、白い紙を一枚、ブロックの上に伏せてから表に返した。ペンを持って、上のところで一度止まった。


 たぶん、一秒もなかった。


 それから透は、縦の線を二本引いた。三つに割れた。いちばん上に、見たこと、聞いたこと、思ったこと、と順に書いた。字は小さくて、行の頭が揃っていた。


「……縦線、もう一本いる」と湊は言った。


 透はペンを持ち替えて、三本目を引いた。


「なんて書く」


「順番」


 透は、いちばん右に、順番、と書いた。


 湊は話した。


 夕方の水飲み場のそばだった。小さい女の子が、買い物袋から顔を出した旧式の家庭用端末に話しかけていた。片腕に、片耳の縫い目がほつれた熊のぬいぐるみを抱いていた。女の子は話しながら、そのほつれたところを指で押さえた。


「押さえ方は」と慧が聞いた。


「……誰かの癖を、そのまま大事にしてるみたいな押さえ方でした」


 慧は、それを見たことの欄に書いた。


「聞いたこと」


「うちの子はね、お豆腐、数えられるの。……あと、次、お豆腐やさん、って」


「呼び名は」


「頭のところが、風で聞こえなかったです」


「では、名前は聞いていない」慧は書いた。「うちの子、は名前ではありません。呼び方です」


「……あ」


「二つあります」透が言った。「名前と、呼び方と」


「はい」慧は言った。「あなたが聞いたのは、呼び方の方です」


 湊は、思ったことの欄を見た。書かれているのは一行だった。名前で呼ぶと、間が変わる。


「間は、何秒でしたか」


「測ってません」


「では、空です」慧は、その欄に、測っていない、と書いた。「空けておきます」


 透が、紙の上を指で押さえた。


「なあ」透が言った。「お前、その子が名前を付けるところを、見たか」


 湊は、止まった。


「……見てない」


「途中から聞いたんだよな」


「うん」


「じゃあ、順番の欄に入るのは」透は指を右へ滑らせた。「名前で呼んでた。返事に間があった。それだけだ」


 湊と透の指が、同じ列の上で並んだ。


 湊は自分の指を引かなかった。透も引かなかった。二人の指は、紙の同じところを、二秒か三秒、一緒に押さえていた。


「その子は」慧が言った。「熊の方には、名前を付けていましたか」


 湊は、思い出せる範囲を全部思い出した。


「呼んでなかったです。……呼ばずに、耳を押さえてた」


「呼ばずに、大事にしていた」


 慧は、ペンを置いた。書き終えたからではなかった。書く手を止めておかないと、順序が崩れるからだった。


「わたしたちが見たのは」慧は言った。「名前を付ける場面ではありません。すでに誰かとして呼んでいる場面です」


 湊の中で、何かが裏返った。


 裏返ったものが何かは、すぐには分からなかった。分からないまま、湊は紙の右の列を見た。名前で呼んでいた。返事に間があった。その二行の上が、ずっと空いていた。


「順番が」湊は言った。「逆だったのかもしれない」


「そう置くこともできます」


「名前を付けたから、いることになったんじゃなくて。……いると思ったから、名前で呼んだ」


 慧は、書いた行をもう一度見た。


「そう仮定すると、この一件は辻褄が合います」慧は言った。「名前は、境目ができたことの印であって、境目を作る道具ではない。……いまのところ、いちばん強い言い方が、それです」


「いちばん強い」


「一件しかありませんから」慧は言った。「一件で言えるのは、そこまでです」


 誰も、すぐには何も言わなかった。


 入口の掲示板で、反った紙が風に一度鳴った。


「じゃあ」透が言った。「印を先に置いても、何も起きねえってことだな」


「その置き方が正しければ、起きません」慧は言った。「正しいかどうかは、まだ言えません」


「じゃあ、どうすれば」湊は言った。「どうすれば、境目ってできるんですか」


「ここから先は、確かめたことではありません」慧は先に断った。「相手を、自分の外にあるものとして認めること」


「それだけ?」


「それだけでは、足りないはずです」


 慧は、そこで一度、言葉を選んだ。選んでいるのが、外から分かる選び方だった。


「向こうからも」湊は言った。言いながら、自分の言葉が追いついているのかを疑っていた。「向こうからも、こっちを、こっちだと思ってもらわないと、だめってことですか」


「そこまでは、まだ言えません」慧は言った。「要ると考えています。考えたことと、確かめたことは、別の欄です」


「どうやって確かめる」と透が言った。


 慧は、すぐには答えなかった。


「分かりません」慧は言った。「確かめる手立てを、わたしは持っていません。持っていないことを、書きます」


「書いて、どうすんだ」


「待ちます」慧は言った。「一件が、二件になるのを」


 透は、紙の右下に何か短く書いて、線を一本引いた。


 湊は、その線を見ていた。


 それから、喋った。


 喋りはじめると、止まらなかった。あの子は買い物の途中だったから、たぶんあのへんに住んでるんじゃないか。旧式の端末ってことは、うちが買い替えてないってことで、あれをずっと使ってるってことで。名前を付けてる家は少ないから、探せば見つかるんじゃないか。でも探して、どうするんだ。訊くのか。訊いて、なんて言う。


「お前、今日よく喋るな」と透が言った。


「そう?」


「そうだ」


 湊は、そうかな、と言って、また喋った。


---


 紙を片づけるころには、四時に近かった。


 慧は罫のない紙を揃えて、鞄の外側の口へ入れた。内側の硬いところには、今日も手を入れなかった。


「帰りは」


「駅まで一緒に行きます」慧は言った。「途中まで」


 透が立ち上がりながら、掲示板の方を見た。


「二十一日を過ぎたら出す」


 湊は、何をとは聞かなかった。聞いたら、たぶん答えは返ってくる。返ってきた答えは、二十一日より前のものになる。


「うん」とだけ言った。


 三人で公園を出た。角のところで慧と別れて、二人になった。


 湊はまだ喋っていた。喋りながら、透が一つ分あけて隣を歩いていることに、気づいていなかった。


 自販機の前で、透が足を止めた。


「なんか買う?」


「いや」


 湊は答えて、二歩先へ行った。振り返ると、透は二本買っていた。


 一本を、こちらへ差し出した。


 何も言わなかった。買ってきた、とも、やる、とも言わなかった。ボタンを押した理由も、湊の好きな方を覚えていたことも、言わなかった。


 湊は受け取った。冷たかった。


 礼を言うつもりだった。口を開いたときには、透はもう歩き出していて、背中に向かって言うと、なんだか違うものになる気がした。


 湊は、缶を持ったまま追いついた。


 追いついてから、また別の話をはじめた。


(ep057 了)


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