呼ぶ
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八月十四日、土曜日。商店会の事務所の前に、長机が二つ出ていた。
机の上に、刷り上がったばかりの紙が積んである。二十一日の夏祭りの案内だった。日付と、時間と、通行止めになる区間の粗い地図。裏は白いままだった。
案内はもう各戸へ配信してある、と会長は言った。言ってから、だから紙も刷るのだと言った。配信したものは、半分ほどの家で読まれずに終わる。毎年そうなのだと、会長は数えたことがあるような言い方をした。読まれずに終わったものは、届かなかったことにもならない。
「毎年、紙のほうが人が来るんだよ」
会長は日に焼けた腕でそう言って、あとは若い人に頼むと言って奥へ入った。若い人は、二人しかいなかった。
「イベント発生!」宙が言った。「町内会クエスト。報酬は麦茶」
「……もう、もらった」雪は言った。
紙コップの麦茶は、置いた場所からもう二センチぶん陽が動いていた。
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四つ折りにして、五十枚ずつの束にする。それだけの作業だった。折り方は決めていない。誰がどう折ってもいい。
雪の手が、紙の右下を先に持ち上げた。
半分に折って、一度開いて、折り目に合わせてもう一度。角を合わせるとき、親指の腹で折り目を二度こする。二度目は、押さえるというより、なでるのに近い。
十枚ほど過ぎたところで、宙が手を止めた。
「ユキ氏、それ」
「なに」
「それ、トオル氏の折り方じゃん」
雪は自分の手を見た。紙は四つに折られていて、角が合っていた。
「知らない」
「いや知ってるだろ、いつも隣で見てんだから」宙は自分の分を雑に折って重ねた。「あの人、最後になでるんだよ。折り目を。俺あれ好きなんだよな。几帳面すぎて逆に怪しい人の仕草っていうか」
「……別に、いい」
雪は次の紙を取った。取ってから、同じ順番で折った。ほかの折り方が、指に一つも浮かばなかった。
覚えた記憶はない。見ていて真似した記憶もない。手が先に知っていて、雪はそのあとから見ている。それだけのことだった。それだけのことが、この一年で何回目かを、雪は数えていない。数えないことにしている。
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三十枚を過ぎたころ、宙が思い出したように言った。
「そういやユキ氏、あれ読んだ?」
「あれ」
「貸したやつ。文庫の」
雪の指が、紙の角で止まった。
返した。
商店街の外れの公園で、水飲み場の横に立って、両手で渡した。カバーは付け替えてあった。借りたときより、少しきれいになっていた。宙は片手で受け取って、鞄には入れずに脇に挟んだ。挟んだまましばらく喋っていた。
返していない。
鞄に入れて持って出た日に、宙が来なかった。そのまま家に持って帰って、棚の上に置いた。カバーの折り返しが、少しだけ棚の縁から出ている。あれを直そうと思って、まだ直していない。
二つとも、同じ手ざわりで置いてあった。片方が薄いということがない。どちらかを疑うための重さの差が、どこにもなかった。
三つ目を探した。棚の上を思い出そうとした。今朝、部屋を出るときに何が置いてあったか。思い出せたのは、置いてあるところと、置いてないところの、両方だった。どちらの絵も同じ明るさで出てきた。
こういうことは、前にもあった。前にもあったときは、あとで片方が消えた。消えたほうが嘘だったのか、消えたほうが本当だったのかは、消えてからでは調べようがない。
確かめる方法は、ある。ひとこと聞けばいい。返した? と聞けばいい。
雪は、紙を折った。
「……もうちょっと」
「いーよいーよ、急がないし」宙は麦茶を飲んだ。「あれ続きあるから、読んだら言って」
雪は頷いた。
聞かなかった理由を、雪は自分の中では説明できる。聞けば、宙は変な顔をする。変な顔をしたあと、たぶん、何か言う。言われたことに、雪は返事をしなければならなくなる。返事は、一つでは終わらない。
そこまでを一秒で並べて、雪は並べたことを畳んだ。畳み方も、四つ折りだった。
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「なあ」宙が机に肘をついた。「さっきの折り方さ。あれ、無意識だろ」
「……たぶん」
「それ、二重人格ってやつじゃん」
雪は紙を折った。
「あ、いや、悪い意味じゃなくてさ。物語の話な」宙は身を乗り出した。「あるだろ、記憶がないうちにもう一人が出てきて、そいつが別の癖持ってるやつ。あれ名作パターンだから。最後に全部つながるやつ」
「……」
「ユキ氏、静かなときと喋るときで別人だし。あ、これ褒めてるからな」
雪は否定しなかった。肯定もしなかった。折った紙を束の上に置いて、次を取った。
「まあどっちでもユキ氏だけどな」宙は空のコップを振った。「これ二本目もらっていい?」
「聞いてくれば」
「聞いてくる」
宙は五秒後には麦茶の話をしていた。収まったものを、雪はわざわざ動かさない。
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束にした紙を分けて、二人で配って歩いた。
盆の土曜で、開いている店は半分だった。閉まっているシャッターには、そもそも入れる隙間がない。宙は「入らないところは飛ばす」を三軒で覚えて、四軒目から自分で判断していた。
乾物屋の店先で、老婦人が案内を両手で受け取った。受け取ってから、日付のところを指で押さえて、声に出して読んだ。二十一日。読んでから、うちのに言っとくわ、と言った。うちの、が人なのか機械なのかは、雪には分からなかった。分からないまま、頭を下げて次へ行った。
三軒目の惣菜屋では、店主が受け取らずに耳の後ろを指した。「もう来てるよ、それ。今朝」
「じゃあ、二枚目です」宙は言った。
「二枚目はいらないだろ」
「紙のほうが人が来るらしいですよ」
店主は笑って、結局受け取って、レジの脇に置いた。置いた場所は、端末の画面のすぐ横だった。
配り終えたのは、六時前だった。
商店街の外れの、信号のところで宙と別れた。宙は駅のほうへ行った。行きながら振り返って、何か大きい声で言ったが、車の音で半分しか届かなかった。届いた半分は「じゃあな」だった。
信号が赤だった。雪は立っていた。
紙は全部配り終えていて、手には何も持っていなかった。誰とも喋っていなかった。何もしていなかった。
——ごめん。
雪は、横を見た。誰もいなかった。
声のことを、雪は誰にも言っていない。言うほどのものではないからだ。
声は、雪の知らないことを言わない。傘、いる。そっちじゃない。もう出たほうがいい。どれも、雪がその一秒前か二秒前に思っていたことだった。先に来ることはあっても、外から来ることはなかった。雪の声で、雪の中で、雪の知っていることだけを言う。
だから、自分の声だと思ってきた。思うというより、区別する必要がなかった。
いまのは、雪の声だった。同じ高さで、同じ短さだった。いつもどおりだった。
いつもどおりでないのは、中身だった。
雪は、いま自分が謝る理由を数えた。折った紙の数は合っていた。麦茶は宙が二本目をもらった。文庫は——文庫は、わからない。でも、わからないことは、悪いことではない。悪くないことに、人は謝らない。
信号が青になった。
三十歩ほど歩いたところで、もう一度来た。
——ごめん。
同じ言い方で、同じ長さだった。
知らないことを言わない声が、雪の持っていない理由を持ってきていた。
雪は歩く速さを変えなかった。変えたら、何かを認めることになる気がした。何を認めることになるのかは、わからなかった。
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部屋に入って、雪は棚のほうを見なかった。
見ないでいるのは、思っていたより簡単だった。目のはしに棚の高さは入っている。入っているところに、何かの背表紙があるかどうかまでは、見なければ分からない。分からないままにしておく方法を、雪は昔から知っている。自分の分は数に入れない、というのはそういう方法だった。
鞄を床に置いて、袖を肘までまくって、手を洗った。洗いながら、袖のまくり方も誰かのだったらどうしよう、と一瞬だけ思った。思っただけで終わりにした。
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夜になっても、部屋の電気は点けたままにしてあった。
いつだったか、湊が雑談の途中で一度だけ言ったことがある。夕方の公園で、小さい子が家の古い端末に名前を付けて呼んでいた、という話だった。うちの子、と呼んでいたらしい。
「名前で呼ぶと、間が変わる気がしたんだよな。……気のせいかもしれないけど」
湊はそう言って、すぐ別の話に移った。仮説にもならない、と自分で言っていた。雪は覚えていた。覚えていた理由は、そのときにはなかった。
雪のエージェントに、名前はない。名前を付けている人は、雪の周りに一人もいない。呼ぶときは「ねえ」で足りるし、たいてい呼ぶ前に向こうが出てくる。
机の上に、祭りの案内の余りが一枚あった。裏が白い。
雪はペンを持った。
ゆき、と書いて、消した。それでは同じものになる。もうひとり、と書いて、消した。それは名前ではない。
雪に似ていて、雪ではないもの。遠すぎず、重なりもしないもの。
みぞれ、と書いた。
書いた字を、少しのあいだ見ていた。雨と雪の、どちらでもない日に降るもの。天気予報では、たいてい雪のほうに数えられる。数えられるだけで、雪ではない。
いい、と思ったわけではなかった。ほかに思いつかなかったのでもなかった。ただ、これ以上考えると、考えたぶんだけ期待になる気がした。
「みぞれ」
声に出した。自分の声が、思っていたより小さかった。
何も起きなかった。
何が起きると思っていたのかを、雪は自分でも言えなかった。返事ではない。返事が来たら、それはそれで困る。困るというより、そこから先の手順を、雪は一つも持っていない。
「みぞれ」
二度目は、少しだけ大きくした。
部屋の音は変わらなかった。冷蔵庫の音と、外の道の音。窓の外で、自転車が一台通った。
三度目は、名前だけでは足りない気がした。だから、続けた。
「みぞれ。……もう、いいから。謝らなくて」
——ごめん。
三度目の途中だった。雪の言葉に重ならず、ほんの少しだけ先に来た。
雪は口を閉じた。閉じてから、しばらく机の木目を見ていた。
「……やっぱり、そういうのじゃないんだ」
落胆ではなかった。当たった、と思っただけだった。
効く方法があるなら、とっくに誰かが使っている。自分にだけ都合よく効くものが世の中にあると思うほうが、変なのだ。
予想が当たるのは、いつも少し楽だった。落ちる先が思っていたところと同じなら、慌てなくて済む。慌てないでいられるあいだは、まだ、いろいろなことができる。
雪は、そのいろいろなことの中身を数えなかった。
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紙を四つに折った。
折り方は、また同じだった。角を合わせて、親指の腹で二度こする。二度目はなでるように。
ゴミ箱に入れた。
電気を消して、布団に入って、目を閉じた。
十分くらい経ってから、起きた。
ゴミ箱の中はほとんど空で、紙はいちばん上にあった。ほかに何も捨てていなかったから、探すまでもなかった。
開いて、皺を伸ばした。伸びなかった。伸びない皺の上に、みぞれ、と書いてある。
雪は、それをポケットに入れた。
何のために入れたのかは、考えなかった。考えないことなら、雪はいくらでもできる。
電気を消した。
(ep056 了)




