死ねない子
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夜の九時半。透との「作戦会議」の帰り道だった。
会議、と言っても、コンビニ裏の縁石で牛乳とゼリーを並べて、追われる側の生活術を一時間、透に講義されただけだ。カメラの位置は端末の地図に落とすこと。同じ経路を三日続けないこと。それから——マーカーを付けられた透と、顔を見られた湊が、一緒にいるのが得策かどうか。
「得策じゃないだろうな」透はあっさり言った。「でも、やめる気ないんだろ」
「うん」
「じゃあ会議終わり。次の議題、逃げ方」
透の講義は具体的で、身も蓋もなかった。追っ手は人間と記録の二段構えで来る。人間は九十秒で透を忘れるが、記録は忘れない。だから危ないのは、人間の目より機械の目。カメラの位置、ドローンの航路、配送車の走行ログ。「機械の目のない道」を三本、透はもう地図に引いていた。逃げ方の講義をする十六歳の声が、あまりに手慣れていて、湊は途中から相槌の打ち方を見失った。
「あと、これ。持ってて」
別れ際、透は自分の予備端末を押しつけてきた。記録のバックアップ機だという。おれに何かあったら、それが「おれがいた」の控えだから——と、なんでもない声で言った。
「なんで俺に」
「あんたは、おれを覚えてるから。記録の置き場所として、世界一安全だろ」
返す理屈が思いつかないうちに、じゃあな、と背中が離れていく。手の中の小さな端末が、預かったものの重さより、ずっと重かった。
結論の出ないまま解散して、湊は夜道をひとりで歩いていた。帰り道は、透に教わったばかりの「機械の目のない道」を選んだ。講義の復習のつもりだったし、そうでもしないと、教わったことが本当だと思えなかったからだ。カメラの死角は、思っていたより暗くて、静かだった。頭上を配達ドローンが低く流れ、無人配送車が青いマーカーライトを点けて交差点を曲がっていく。誰も運転していない車の群れは、夜だと少しだけ、街そのものが勝手に生きているように見える。
それは、一瞬だった。
路地の陰から、細い影が車道へ出た。
黒いロングの髪。小さな背中。配送車の自動ブレーキが甲高く鳴いて——間に合わなかった。鈍い音がして、影が舞って、アスファルトに落ちた。
「——っ!」
湊は駆け出していた。配送車は規定通りに停止し、ハザードを点滅させ、合成音声が『事故を検知しました。救急要請を送信します』と繰り返している。
少女が、倒れていた。
中学生くらいだ。右腕が、あり得ない方向に曲がっている。湊は救急の型通りの言葉——大丈夫ですか、動かないで——を頭の中で組み立てながら、膝をつこうとして。
気づいた。
流れて、こない。
人が倒れていたら、痛みや恐怖や、何かしらの水位がこちらへ押し寄せてくるはずだった。教室で泣くクラスメイトからでさえ流れてきたものが、目の前で車に撥ねられた少女から、ほとんど何も来ない。湖面みたいに静かだった。それが、悲鳴よりも怖かった。
少女が、身じろぎをした。
うずくまるように体を丸め、数秒、じっと痛みをやり過ごす——歯を食いしばる横顔は、確かに痛がっていた。それから彼女は、周りに誰もいないと思ったのだろう、慣れた手つきで自分の右腕を掴み、引いた。
枝を戻すような、乾いた音がした。
骨が鳴りながら、収まっていく。あり得ない角度が、見ている前で、ただの細い腕に戻っていく。少女は立ち上がり、制服の埃を払って、歩き出そうとして——湊と、目が合った。
「…………見た?」
「……見た」
「そう」少女は、少しだけ目を伏せた。「別に、いい」
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別にいいわけがないだろ、と思ったが、言葉が続かなかった。
合成音声が救急の到着予定を告げている。少女はそれを聞いて、初めて焦ったように周囲を見た。逃げ出す気配だった。
「待って。……怪我、その」
「治ったから」少女は事務的に言った。「救急、来る前に行く。記録に残ると、面倒だから」
その言い方が、透とまったく同じ文法をしていることに、湊は気づいた。記録に残ると面倒。追われる側の生活術。
少女は歩き出しかけて、足を止めた。アスファルトの上に、駆け出した弾みで湊のポケットから飛んだ端末——透から預かったばかりの、あの記録のバックアップ機——が落ちていた。画面に細い罅が入っている。
少女はそれを拾った。
自分の腕は枝みたいに扱ったくせに、端末は、割れ物を扱うように両手で持った。埃を払い、罅を確かめ、湊に差し出す。
「……割れた。ごめんなさい」
「え、いや、それ君のせいじゃ——」
「中身、大事なやつでしょ。持ち方でわかる」
どういう理屈だ、と思ったけれど、たぶん当たっていた。湊は端末を受け取りながら、目の前の少女の輪郭を、初めてちゃんと見た。前髪の下の目は静かで、生気が薄くて、なのに、他人の持ち物の傷だけを気にしている。
遠くで、車のライトが曲がってきた。救急車ではない。黒い、灯りを絞った車だった。
「——走れ」
低い声が、背後から降った。
振り返ると、あの大男が立っていた。黒作業着。白いメッシュの傷痕。弦だ。
「配送車の事故ログは、じき処理班が拾う。撥ねられて立って歩いたガキの映像なんぞ、あいつらの大好物だ」
「あんた、なんで——」
「質問はあとにしろ。三本目の路地、カメラが死んでる。抜けたら川沿いへ」
弦は湊たちを見ずに、黒い車の方へ向き直った。まるで、通り道を塞ぐだけの置物になるみたいに。
「あんた、この前も」湊は言った。「なんで、俺たちを」
「質問はあとにしろっつったろ」
弦は振り返らなかった。ただ、手袋をした左手が、一度だけ握り込まれるのが見えた。
「行け、ガキども。……次は、轢かれる前に呼べ」
少女がわずかに目を見開いた。湊はその腕を——さっきまで折れていた方ではない腕を——掴んで、走った。
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三本目の路地は、本当にカメラが死んでいた。
川沿いに出る手前で、黒い車のライトが並走する通りをゆっくり流れてきた。隠れる場所がない。湊は迷って、迷っている時間がないことだけ分かって、少女の手首と、自分の意識の奥の「開いたままの扉」を同時に掴んだ。
灯りが、開く。
世界の輪郭が一枚ずれる。あの静かな感覚。ただし今夜は、扉の向こうが軋んでいた。借り物の力は、透が使うときのように呼吸をしてくれない。三十秒、いや、もっと短い——切れる、と本能で分かった。
車がライトを揺らして、通り過ぎていく。
角を曲がって消えた瞬間、湊は膝から力が抜けて、ガードレールに掴まった。視界の端がちかちかして、胃の底が氷みたいに冷えている。空腹が、殴るように来た。
「……あなた、いま」少女が湊を見ていた。「消えた。わたしたち」
「……借り物、なんだ。うまく説明できないけど」
「そう」少女はそれ以上聞かなかった。詮索しない癖も、追われる側の文法だった。
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川沿いの遊歩道で、透と合流した。連絡を受けて走ってきた透は、湊の顔色と、見知らぬ少女と、罅の入った自分の端末を順番に見て、状況の八割を諦めた顔をした。
「……で、誰?」
「白石雪」少女は言った。それから、付け足すように。「たぶん、あなたたちと同じ側」
透は雪をしばらく眺めた。雪も透を眺めた。忘れられる少年と、死ねない少女は、初対面の挨拶の代わりに、互いの「面倒の種類」を測っているようだった。
「……おれの予備機、拾ってくれたって?」
「割った。ごめんなさい」
「割れたのは画面だ。中身は生きてる。なら謝るのはそっちじゃなくて——」透は言いかけて、やめて、ゼリーを一本、雪に放った。雪は反射で受け取った。両手で。「——腹、減ってるだろ。撥ねられたんなら」
「別に」
「減ってないなら返せ」
「……減ってる」
雪は小さく言って、ゼリーの封を切った。湊は二人のやり取りを眺めながら、ガードレールにもたれて、笑ってしまった。追われる者の文法を話す人間が、今夜、一人増えた。良くない事態のはずなのに、胸の中のどこかが、勝手に「よかった」と言っていた。
「白石さんは、その——」
「雪でいい」
「……帰る場所、あるの」
雪は答えなかった。答えない、が答えだった。透が湊を見た。湊は透を見た。二人とも、聞かなかったことにはしない、という顔をしていた。
「……明日」透が言った。「同じ場所に、おれたちいるから。駅前のコンビニの、裏の縁石」
予定を、他人に分ける。透の記録に、また新しい行が増える音が、聞こえた気がした。
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帰り道、頭上でドローンの羽音がした。
配達の航路にしては低い。湊が見上げると、機体は一度旋回して、夜空へ高度を上げた。去り際、通信の混線みたいなノイズが、切れ切れに落ちてきた。
『——認……対象を再認定。コード——「空白」……追跡は継続——』
空白。
誰のことかは、分からないはずだった。なのに湊は、自分の左手首の古い痕が、またかすかに熱を持つのを感じていた。
玄関の灯りは点いていた。台所から、遥が「ごはんは?」と聞いて、湊は「食う」と答えた。食卓につくと、いつもより一品多かった。何も聞かれなかった。何も聞かれないことが、今夜はすこし、痛かった。
部屋に戻って、湊は端末を開いた。透への画面に、指が勝手に打っていた。『なあ、もし俺が——』
そこで止まった。もし俺が、の続きは、いくつもあって、どれも打てなかった。湊は一文字ずつ消して、画面を閉じた。
かわりに、誰にも同期されないローカルのメモを開いて、三つだけ書いた。
【空白。左手首。母さんに聞く】
何をどう調べるのかは、決まっていなかった。決まっていないまま、消さずに残した。
布団に入ってから、湊は天井に向かって、声に出さずに数えた。透。雪。あの傷だらけの男。それから——鏡の奥の、まだ名前を知らない灯り。
数えるものが、増えていく。
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【観察記録 ——続き】
今日の移動中、考えていたことの続きです。
観測対象が一つなら、それは点です。二つなら、線。三つなら——面になる。面には内側が生まれます。互いを観測し合う者たちの内側は、外からの観測を弾き始める。
観測対象たちが、互いを観測し始めた。系はもう、孤立していません。
これは観察記録として書いています。ただの比喩として読み流してくれて構いません。わたし自身、何の話をしているのか、まだ分かっていないのですから。
(ep006 了)




