白い欄
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【観察記録 ——相良慧】
八月九日。読み直し、八日目。父の紙の束から、配線図が一枚と、備品番号が三つ。番号は三つとも、市街の東の共同研究棟の地下一階に落ちる。
廃止の書類を取り寄せた。廃止の理由の欄は埋まっている。決裁の日付も入っている。撤去の実施日の欄だけが、白い。
白い欄は、何も起こらなかったという意味ではありません。誰も書かなかった、という意味です。そして、書かれなかったものは、たいてい、まだそこにあります。
——今日、見に行きます。
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共同研究棟は、五階建てだった。
外壁の改修は途中で止まっていて、二階から上だけが新しい色をしている。入口の脇に看板が三つ並び、そのうち二つは、慧が調べた限りではもう存在しない会社のものだった。看板を外すのにも費用がかかる。慧はそれを、来る前から知っていた。
管理室は一階の奥にあった。窓口の台に立つと、天板が薄く光って、慧の顔と、腕の端末とを一秒で照らし合わせた。照合済み、と表示が出る。それから担当者が、下から紙の綴じ込みを出した。
「こちらに、お名前を」
鉛筆立てに、ペンが三本挿してあった。慧は一本を取って、受領簿に自分の名前を書いた。上の行には先週の日付があり、その上には先々月の日付があった。この建物では、機械が本人を確かめ、人が紙に名前を残す。順序が逆のようでいて、たぶん逆ではない。機械は本人を確かめられるが、その人が来たという事実は、機械の中では書き換えられる。
「相良、さん。……えっと、廃止研究室の、備品確認」担当者は端末を横目で見ながら言った。四十くらいの男性で、声は事務的だが、面倒がってはいなかった。「ご遺族の関係でしたよね。確認、走らせますね」
「お願いします」
「これ、有料の照会になっちゃうんですけど」
「承知しています」
証明書の真正性を有償で照らし合わせる手続きに、四十秒かかった。表示が緑に変わる。慧はその四十秒のあいだ、窓口の壁に貼られた避難経路図を見ていた。地下一階の部分は、他の階よりも線が少なかった。
「はい、通りました。鍵、お渡しします」担当者はキーボックスから物理鍵を一本抜いて、札のついたまま台に置いた。「B1の奥です。三つ目の扉。……あの、先に言っておくと、あそこ、電波入りませんよ」
「入りませんか」
「地下は全部だめです。躯体が厚くて。うちの保管の人らも、下に降りるときは紙持って降りてます」担当者は肩をすくめた。「二〇四九年ですけどね」
慧は礼を言って、鍵を受け取った。それから、聞くつもりだったことを聞いた。
「備品台帳に、大きな機器が一台、残っていることになっています。撤去済みですか」
「あー」担当者は端末を叩いた。「撤去、って書いてはあるんですよ。区分は撤去。……ただ、実施日が入ってないですね」
「入っていない」
「入ってないってことは、やってないってことなんで」担当者は画面から目を上げた。「たぶん、まだあります。重いやつは、だいたい残ってます。運ぶのに金がかかるので」
慧は、鍵の札の裏に部屋番号を書き写した。手が少し速くなっているのが、自分でわかった。
外へ出ると、通りの向かいで配送台車が自分で向きを変えて、路地へ入っていった。慧は腕時計を見た。針のある方の時計である。地下では、これしか時刻を確かめる方法がない。
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夕方、六時四十分に、二人が来た。
髪の短い方が、建物の裏の受電盤の位置を先に確かめていた。相沢湊、と慧は自分の頁で確認した。実際には確認するまでもなかったが、確認する手順を省かないことにしていた。
「電気は、来てます」湊が言った。「除湿機と同じ系統だそうです。……止まったら、下も止まりますけど」
「止まらない前提では動きません」
「はい」湊は素直に頷いた。それから、少し間を置いて聞いた。「あの。中で、何をするんですか」
「父の残した手順を、そのとおりに実行します」
「……それは、答えになってますか」
「なっていません」慧は認めた。「わたしにも、実行するまでは、何が起きるかわかりません。わかっていたら、あなたたちには頼みません」
湊は何か言いかけて、やめた。やめたことが顔に出る人だと、慧は思った。
もう一人が、階段の降り口に立って腕時計を見ていた。髪を襟足まで伸ばした方である。慧はその横顔を二秒ほど見て、それから自分の頁を開いた。頁の隅に、今朝の自分の字がある。
——見張りと時刻。日野透。伸びた髪。合わない服。
読んで、思い出した。思い出したというより、書いてあるものを採用した、という感覚に近い。慧はその感覚を、以前にも一度、記録している。
「戻ってこなかったときの手順を、先に決めてくれ」
透は、階段の方を向いたまま言った。
「戻ってこない、というのは」
「あんたが繋いだまま、こっちの声に返事しなくなることだ」透は振り返らなかった。「そうなったとき、おれが何をすればいいのかを、あんたが先に書け。おれは中身を知らない。知らないやつが、その場で決めていいことじゃない」
慧は紙を出した。地下では端末が使えないので、どのみち紙で持つつもりだった。三行を書くのに、二分かかった。
一、五分ごとに、わたしが右手を上げます。上がらなければ、外からケーブルを抜いてください。
二、わたしが「続けてください」と言っても、一が満たされていなければ抜いてください。
三、開始から四十五分で、理由の有無にかかわらず抜いてください。
透は受け取って、上から下まで読んだ。
「二つ目は、あんたが自分の言うことを聞くなって書いてあるな」
「はい」
「なんでだ」
「わたしが、続けたくなるからです」慧は言った。「危険を過小に見積もってはいません。見積もった上で、行きます。ですから、途中でわたしの判断が変わることも、見積もっておく必要があります」
透は紙を四つに折って、上着の内側に入れた。折り目をつけるとき、指の腹で一度、強く押した。
「三つ目は、おれが時計を見てりゃいい」
「お願いします」
部屋は、三つ目の扉の奥にあった。除湿機の音が廊下まで聞こえていて、扉を開けると、紙と埃と、乾いた金属の匂いがした。照明は入るのに二秒かかった。
壁際に、古い研究端末が据えてある。その天板に固定されて、開放型のコの字形のフレームが伏せてあった。両端の内側と、後ろ側の中央に、丸い接点が三つ。ヘルメットもなければ、覆いもない。針もない。慧はそれを、想像していたよりずっと事務的な形だと思った。
ケーブルは一本だった。端子の受け口が、端末側の下段に一つだけある。差し込み口は、この一つしか見当たらない。慧は自分の頁に、見当たらない、と書いた。ない、とは書かなかった。
慧は椅子を引いて、開く順序を先に紙へ書いた。一、研究記録。二、日誌。三、議事録の下書き。順序を決めておかなければ、あとで自分の読み方を検算できない。
「始めます」
湊が受電盤の前へ戻り、透が扉の内側に立った。慧は腕時計を見た。十九時二十分だった。
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ケーブルを手で挿した。フレームを下ろした。三つの接点が、皮膚に触れた。冷たくはなかった。
起動の順序は、父の筆跡どおりに踏んだ。番号の若い方から三つ、間に一度だけ、五を挟む。父はその五に、丸をつけていた。理由は書かれていない。慧は丸のとおりにした。
画面が、点いた。
最初に見えたのは、記録だった。
研究記録。実験の日誌。会議の議事録——それも、削除された下書きの方である。慧は身構えていた自分が、少し滑稽に思えた。ここにあるのは、読めるものだった。読めるどころか、読み慣れた形式である。父の書式だった。
慧は読んだ。科学者として読んだ。二〇四一年の三月、被験群の分割の基準を変えた記録がある。変えた理由の欄が、二行だけ空いている。二〇四一年の六月、その空欄を埋めた別紙が、参照として下についている。父の署名はない。父の署名がない、ということが、この頁では意味を持つ。
読める。読めてしまう。慧は、自分が怖がるべきなのはここだと思った。父の記録が読めるということは、父の読み方が、わたしの中に入っているということだ。
画面の上に、索引が出ている。
慧は次に、被験群の分割の基準を定めた原本を見たいと思った。目を上げると、索引の三番目にあった項目が、一番上に来ていた。
慧は手を止めた。
止めて、検算した。一回目。自分は先に索引を見て、それから読みたいものを思いついたのではないか。順序を取り違えている可能性がある。ただし、と自分に注をつける。順序を取り違えたのなら、開く順序を紙に書いておいた意味がない。紙には、一、研究記録。二、日誌。三、議事録。と書いてある。わたしは日誌を開くはずだった。
二回目。索引の並びを、上から五つ、声に出さずに読んだ。目を閉じて、次に読みたい項目を一つだけ決めた。目を開けた。それが、一番上にあった。
三回目。今度は、読みたくないものを決めた。二〇四三年の、父の勤務記録である。読みたくない、と決めた。索引の一番上には、二〇四三年の勤務記録があった。
読みたくない、も、次に必要とする項目のうちなのですね。慧は頭の中でそう言い足して、言い足した自分の但し書きの多さに気づいた。感情が上がっているときの、自分の癖である。癖が出ているということは、いま自分は落ち着いていない。落ち着いていない人間の三回の検算は、三回とも同じ誤りを繰り返し得る。ただし、三回とも同じ結果が出たことは、それ自体は事実として記録できる。
慧は、声に出さずに一つだけ問うた。
——誰が、並べていますか。
索引が、消えた。
画面に、一行だけが残った。項目でも、見出しでもない、ただの一行だった。
——頁を、めくる音がしましたね。
慧は、右手を上げなかった。
上げなければならない時刻だということは、わかっていた。わかっていて、上げなかったのではない。上げるための手続きが、自分の中で一段遅れているのが、遠くから見えていた。だから、上げないことを選んだ。自分の判断で止められるうちに、止める。
三つの中断条件のうち、一つ目を、慧は自分で使った。
外で、椅子の脚が鳴った。
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接点が離れた。フレームが上がって、天井の照明が、さっきと同じ明るさでそこにあった。
透が、ケーブルの端を持って立っていた。抜いた方の端である。もう一方の手には、四つ折りの紙があった。
「十九時四十一分だ」透は時計を見たまま言った。「二十一分。上げなかったのは一回だけだが、一回で抜けって書いてあった」
「書きました」
「じゃあ、合ってる」
湊が扉のところから入ってきて、少し離れた位置で止まった。慧の顔を、正面から見ないようにしているのがわかった。
「……熱、ないですか」
「ありません」
「どこか、切れたりとか」
「していません」慧は自分の手を裏返して、指を一本ずつ動かした。「今朝からの記憶も、抜けていません。宿を出た時刻も、受領簿に書いた自分の字も、あなたたちが来た時刻も、言えます」
何も起きていなかった。発熱も、外傷も、欠落もない。二十一分のあいだに慧の体に起きたことは、椅子に座っていたこと以外に、一つもない。
湊が、口を開いた。開いてから、言葉を探しているようだった。
「中に、誰かいましたか」
湊がその聞き方をしたことを、慧は覚えておこうと思った。中に何がありましたか、でも、何が見えましたか、でもなかった。
「わかりません」
「わからない、っていうのは」
「わからない、ということです」慧は言った。「わたしに検証できたのは、索引の並び順が、わたしの都合に合わせて変わったところまでです。並べ替えたのが誰か、あるいは何かは、確かめていません。確かめる手順を、まだ持っていません」
湊は、それ以上聞かなかった。棚に置く、という顔をした。慧はその表情を、以前どこかで見た気がしたが、思い当たらなかった。
透が、四つ折りの紙を差し出した。
「返す」
「持っていてください」慧は言った。「明日以降も、同じ紙を使います。わたしが持っていると、わたしが書き換えられます」
透は手を止めて、紙を上着に戻した。何も言わなかった。
慧は、装置の寸法を紙に写した。フレームの幅、接点の間隔、端子の形。それから、端末の型番と、据え付けの脚が床に打ってある位置。写しながら、これは物証だと思った。ここに、こういう機械が、こうして残っている。それだけが、今日確かめられたことである。その先に誰かがいるかどうかは、この紙には書けない。
鍵を返したのは、八時前だった。受領簿の返却の欄に、慧は自分の名前をもう一度書いた。
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宿へ戻って、慧は父のノートを開いた。開いて、閉じた。
索引の並びが読み手に合わせて変わる、という現象を検証するには、比較の対象が要る。わたし自身の記録が、読み手に合わせて並べ替えられる形になっていなければ、比べられない。綴じた紙は、こちらが手で入れ替えないかぎり、書いた順のままである。自分から順序を変える紙を、わたしは見たことがない。
慧は、机の端に寄せてあった研究用の端末を引き寄せて、電源を入れた。八日分の記録を、頭から打ち直すことにした。打ち直しながら、これは検証の準備であって、それ以上の意味はない、と自分に注をつけた。注をつけたこと自体も、記録に残した。
零への報告は、まだしていない。何を報告するかが、決まっていない。
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【観察記録 R-053 ——相良慧】
八月九日。十九時二十分、接続。十九時四十一分、切断。二十一分。発熱なし、外傷なし、記憶の欠落なし。身体の異常は、確認できる範囲で皆無。
読めるものは、記録でした。読めない形で置かれていたら、わたしは今日、引き返したと思います。読めたので、読みました。それが手順として正しかったかどうかは、今は判定を保留します。
八月九日の欄に、書けることは書きました。三行目は、まだ白いままです。
——今日わかったのは、白い欄には、あとから誰かが書き足せる、ということだけです。
(ep053 了)




