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AIが全部の正解を先に出す2049年、わかり合った相手の超能力が写る。記憶も痛みも一緒にー人間未解ー  作者: 猫間じん


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今日の分

---


 日曜の昼に呼ばれたのは、縁石ではなかった。


 商店街の外れの児童公園で、透は先に来ていた。ベンチには座らず、砂場の縁のブロックに鞄を置いて、その上に紙を並べていた。今日も紙だった。


「読んだ」


 湊がまだ何も言わないうちに、透はそう言った。


「昨日」


「……どうだった」


「今日のが先だ」透は紙の角を揃えた。「昨日のは、揃えてから出す」


 それだけだった。湊は続きの聞き方を探して、見つからなかったので、透から一つ分あけたところに腰を下ろした。あけるつもりは、今日もなかった。


 雪と宙と望が、五分のうちに順に来た。五人だった。六人ではなかった。


「川向こうの相談所に、同じ相談が三件来てる」透は一枚目を表に返した。「先月からだ。全部、家族からの相談。うち一件は、行方不明者届が出てる」


「行方不明」と宙が言った。「事件?」


「届が出てるだけだ。本人は生きてる。毎晩、同じ場所にいる」透は二枚目を出した。手書きの地図だった。「商店街の裏。空き店舗の脇の、通り抜けの用がない私有通路。一区画だけ、夕方から夜まで、祭りになるらしい」


「祭り」


「相談者の言葉だ。おれの言葉じゃない」


 地図には、路地の入口と出口に印がついていた。湊は自分の端末で同じ場所を出した。案内は路地を通らなかった。表通りを最短で抜ける道が出て、裏へは一度も曲がらせない。地図の上では、そこはただの通路で、通り抜ける用のない場所ということになっている。


「相談者は、四十代の男性の奥さん」透は三枚目を伏せたまま言った。「三か月前から、夜に帰らなくなった。会社は行ってる。金だけ落ちてる。一日に三千円から五千円。……最初は、女か酒だと思ったって書いてある」


「違ったの」と宙が聞いた。


「飲み物と、氷菓と、乾き物だ。屋台の値段だ」透は指で紙を押さえた。「奥さんが一度、迎えに行った。旦那さんは怒らなかった。にこにこして、明日帰るから、って言ったらしい。それで奥さんは帰った。帰ってから、怖くなったって」


 誰も、すぐには何も言わなかった。


「もう一つある」透は三枚目をやっと表に返した。「相談所の人が聞き取った分だ。常連のうち二人が、春に一度、通うのをやめかけてる。金が続かなくなったからだ。……そのとき、店の側が無料の日を作ってる。二人とも、それで戻ってる」


「……それ」と湊は言った。


「そうだ」


 言い方が、いつもの平らさだった。責める形をしていなかった。責める形をしていないことが、かえって残った。


「役を割る」透は四枚目を出した。「今日は壊さない。今日は測る」


---


 路地は、六時を過ぎてから明るくなった。


 明るくなった、と湊は思った。実際に明るくなったわけではない。空き店舗の軒先に折りたたみの台が一つ出て、その上に保冷箱が二つ載って、缶と、袋の氷菓と、透明な袋に入った乾き物が並んだ。裸電球が一つ点いた。それだけだった。


 台の内側に立った人が、日和さんだった。三十くらいに見えた。髪を後ろで一つに束ねて、白いタオルを首にかけて、そこにいた。


 椅子は四つしかない。人は十四人いた。数えたのは望だった。


 入口から二歩のところで、湊は足を止めた。


 機嫌が、良かった。


 理由がなかった。理由がないことは分かる。分かるのに、良かった。夏の夕方の、風の少しある路地に立って、誰かがビールを開ける音がして、それが全部いい感じに見える。そう見える自分の方を、湊はうまく疑えなかった。


「一度出て」と、耳の中で雪の声がした。


 湊は三歩下がった。路地の外へ出た。


 落ちなかった。ただ、平らになった。さっきまで路地の中でいい感じに見えていたものが、いい感じでもなんでもない、ただの夕方に戻った。それだけだった。


 平らな方が本物だと、なぜ言えるのかが、湊には分からなかった。


 最初に試したのは、雪だった。


 雪は台の前まで行って、缶を一本買って、その場で開けた。開けるときに、缶の縁で指の腹を切った。わざとだった。


「おい」と湊は言った。


 血が出て、すぐに止まって、止まった線も消えた。


「……別に、いい」路地から出てきた雪は、指を見もしないで言った。「一回分」


 湊は、それ以上言わなかった。言わなかったことを、後で書いておこうと思った。


「痛い」と雪は続けた。「……でも、中では、気分がよかった。痛いのに」


「痛みでは切れない」透が書いた。


 次は宙だった。宙は椅子の一つに座っている中年の男の隣にしゃがんで、五分ほど何か喋って、戻ってきた。戻ってきた顔が、いつもより硬かった。


「通じてないわけじゃない」宙は言った。「配られてるんですよ、って言ったら、知ってるよ、って返ってきた。知ってるよ、それがいいんじゃない、って」


「言葉では切れない」


「……なあ、透氏」宙は缶を握った。「あの人、俺の話、ちゃんと聞いてた。ちゃんと聞いて、ちゃんと嬉しそうだった。あれ、どっちなんだよ」


 望が、宙の隣に立った。


「僕も、入口の近くの人に一度だけ聞きました」望は手袋の指先を片方ずつ引き直した。「今日は楽しいですか、と。楽しい、と返ってきました。……——それは、あなたの言葉ですか、と続けるつもりでした。やめました」


「なんで」と宙が聞いた。


「聞いても、路地は消えないので」


 透は答えなかった。答えないで、次の行に線を引いた。


 三つ目は透自身だった。透は台の前に立って、日和さんに何か注文して、そのまま二分待った。日和さんは途中で一度、透の顔を見て、それから手元へ目を戻した。二度目に顔を上げたとき、日和さんの目は、透の上を通り過ぎて、後ろの誰かのところへ行った。


 透は路地から出てきて、鼻の下を親指で拭った。


「忘れられた」


「消えなかったのか」と湊は聞いた。


「消えない。おれが誰だか分からなくなっても、おれの機嫌はいいままだった」透は書いた。「認識では切れない」


 三本、線が引かれた。


「壊す前に、線を測る」透は新しい紙を出した。「範囲を出す。宙と望、交互に、入口から一歩ずつだ。切り替わったところで手を挙げろ。ミナトは秒を取れ」


 宙が入って、七歩目で手を挙げた。望が入って、七歩目で手を挙げた。宙が反対側から入って、六歩目。日和さんが台の位置を半歩ずらしたとき、線も半歩動いた。


「術者中心」透は書いた。「一区画。だいたい二十メートル」


 二十分後、日和さんが台の奥へ引っ込んだ。奥は空き店舗の勝手口で、外からは見えない。


「三分」と湊が言った。


 三分の間、路地の中の十四人は、誰も日和さんを見ていなかった。それでも椅子の男は笑っていたし、立ち飲みの二人は肩を叩き合っていたし、いちばん奥の若い女は、缶を持ったまま宙を眺めていた。


「見えなくても、消えない」透が書いた。「視認は要らない」


 日和さんが戻ってきて、また台の内側に立った。


 それから、口論があった。


 釣り銭の話だった。常連らしい男が、千円札を出して、返ってきた額が違うと言った。日和さんは違わないと言った。二往復で終わる程度の、小さな言い合いだった。


 その二往復の間に、路地の中の全員の顔から、同時に何かが引いた。


 椅子の男が笑うのをやめた。立ち飲みの二人が黙った。奥の若い女が、缶を台に置いた。誰も口論を見ていなかった。見ていないのに、下がった。


 湊は入口の外にいて、それを見た。人が十四人、示し合わせもせずに、同じ秒で機嫌を失くすところを見た。


 そして、路地は消えなかった。


「消えてない」と宙が小さく言った。「下がっただけだ」


 日和さんは口論を切り上げて、奥へ引っ込んだ。四十秒くらいだった。戻ってきたとき、何かを口の中で転がしていた。飴か、それに近いものだった。


 顔から、下がった分が戻った。


 路地の中の十四人の顔からも、同じ秒で、戻った。


「……あ」と宙が言った。「上げ直した」


 湊も、そこは読めた。読めたのはそこまでだった。上げ直さないと下がる。上げ直せば戻る。日和さんという人がどういう人かは、湊には分からない。分からないまま、そこだけが見えた。


「落ちても、場は消えなかった」透が言った。紙から目を上げていた。「落ちることと、切ることは、別の操作だ」


 誰も、すぐには何も言わなかった。


「本人は、たぶん、それを知らない」透は続けた。「知ってたら、あんな口論のしかたはしない」


---


 待つ時間ができた。透が相談所と警察の窓口へ連絡を回している間、湊は路地の入口から十歩離れた電柱の下に立っていた。


 昼のうちに、透から一つ渡されていた。依存客の入口を辿った先だ。


 半年前の、三十秒の映像だった。生身の配信者が、路地を通りかかって撮っただけの切り抜き。裸電球と、折りたたみの台と、笑っている四人が映っている。「なんかここ、お祭りっぽくないですか?」と声が入って、それで終わる。撮った本人は、その場に入っていない。


 再生数が、湊の知っている単位ではなかった。


 半年前のものが、今も新しい顔で流れてくる。沈まない。消えない。コメントの新しい方に、この動画で知って通ってます、が三つ並んでいた。いちばん新しいのは、四日前だった。


 湊の端末が、短く震えた。


 推薦の通知だった。湊はその配信者を登録していない。していないのに、上がってきた。


 開くと、朝の路地だった。


 同じ場所を、シャッターの閉まっている時間に撮っていた。台はない。電球も点いていない。空き店舗の錆びた金具と、通路の隅の、誰かが置いていった段ボールが一つ。三十秒、それだけだった。


 最後に、声が入った。


【ここには、なんにもないです】


 それで終わりだった。説明も、次回予告もなかった。


 湊は、もう一度頭から見た。二度目も、同じ長さの、何もない朝だった。


 この人は、こっちのことを何も知らない。知らないまま、自分の出したもので人が送られていたことに、どこかで気づいた。気づいて、消せなかったか、消さないことにしたかで、代わりにこれを出した。


 それが分かる気がした。分かる気がするだけで、それを誰かに向かって言う形が、湊には見つからなかった。


 湊は記録を開いて、一行だけ書いた。


【消せない人が、別のものを出した。=わからない】


 書いてから、端末を閉じた。


---


 九時前に、湊は路地の中へ入った。


 入った瞬間に、また機嫌が良くなった。良くなったまま、湊は台の前まで行った。良くなったままでいい、と決めていた。決めておかないと、たぶん問いの形が変わる。


「一つだけ、聞いてもいいですか」


 日和さんは氷菓の袋を並べる手を止めなかった。「注文なら聞くけど」


「今日、店を開ける前に、何をしましたか」


 手が、止まった。


「……なんで」


「順番があるなら、教えてほしいんです」


 日和さんは湊を見た。見て、少し考えて、それから答えた。答え方が正確だった。


「甘いもん食べる。饅頭か、なきゃ飴。それから、決まった曲を一回かける。同じやつ。……で、鍵を開けるんだけど、開ける順番も決まってる。勝手口の下の錠を先に外して、シャッターは後」


「それ、毎日やってるんですね」


「……やらないと、開けられないので」


 路地の裸電球が、風で少し揺れた。十四人分の笑い声が、後ろで続いていた。


「今日、下がったでしょう」と湊は言った。「釣り銭のとき」


 日和さんの顔が動いた。「見てたの」


「後ろの人たちも、同じときに下がりました。……でも、路地は消えませんでした」


「そりゃあ、」日和さんは言いかけて、言葉を探した。「……そりゃあ、消したら困るでしょう」


「消えなかったんです」湊は言った。「消さなかったんじゃなくて。あなたが下がっても、消えなかった」


 日和さんは黙った。


「落ちるのと、切るのは、別です」


 言ってから、湊は自分の声を聞いた。断定していた。断定する言い方を、湊はあまり持っていない。持っていないものが、今日は先に出た。


「……なに言ってんの」


 日和さんは笑った。笑い方が、さっきまでと違った。


「あんた、知らないでしょ。わたしが手を離したら、この人ら全員、いっぺんに沈むんだから。そういうもんなの。十何年やってんの、わたし」


「沈みません」


「沈むの」


「切ってみないと、分からないと思います」


 日和さんは、湊を見た。長かった。


 それから、台の縁に手をついた。ついた手が、少し重そうだった。日和さんは今日、朝から立っていて、口論を一つして、飴を一つ食べて、まだここに立っている。


「……もういいわ」


 日和さんは首のタオルを外した。


「疲れた。今日は、もう閉店です」


 路地から、明るさが消えた。


 電球は点いたままだった。消えたのはそれではなかった。


 椅子の男が、缶を持ったまま、自分の手元を見た。立ち飲みの二人が、途中まで言いかけていた話をやめた。奥の若い女が、あ、と小さく言った。


 それだけだった。


 誰も倒れなかった。誰も泣かなかった。十四人が、順に、自分の顔に戻っただけだった。戻った顔は、どれも疲れていた。疲れているのが、たぶん普通だった。


 一人が「じゃあまた」と言って、路地から出ていった。二人目が続いた。三人目は、台の上に空き缶を戻してから出ていった。


 日和さんは、それを最後まで見ていた。


 見て、それから、口を閉じた。


---


 罪の名前が、なかった。


 透が言うには、この件で切れる書類は三つしかなかった。家族からの相談と事情聴取。行方不明者届の取り下げ。商店会が、軒先の使用の黙認を打ち切る通知。三つ目は民事だ。検挙も、行政処分も、被害届も出ない。通ってしまった人たちは、相談窓口へ繋ぐ。それだけだった。


 湊たちは何も触らなかった。台も、保冷箱も、電球も、そのままだった。


 深夜、公園のベンチで、透は端末の書式を開いていた。今日の分の記録を残す欄が並んでいる。事案の類型。被害。加害。処分。


 透は、しばらく打たなかった。


「……これ、どの欄に入れるんだ」


 誰も答えなかった。


 透は、打たなかった。端末を閉じて、鞄に入れた。


---


 帰り道、自販機の前で宙が止まった。


 缶を一本買って、取り出し口に手を入れて、二本出てきた。


 宙は両手に一本ずつ持って、それを順番に見て、真顔で言った。


「……レアドロップだ」


 雪が、先に噴き出した。


 雪が声を出して笑うところを、湊は初めて見たかもしれなかった。望が口元を手袋で押さえて、押さえきれずに肩を揺らした。宙が「いや笑うとこ? ここ笑うとこ?」と言って、それでまた駄目になった。


 それから、透が笑った。


 声は出ていなかった。息だけだった。缶の一本を宙から受け取って、開けて、飲みながら、まだ少し笑っていた。


 湊は、それを見た。


 見て、何も言わなかった。言わないでおくことに、今日は自信があった。


 路地の方から、風が来た。何の匂いもしなかった。理由もなかった。それでも湊は、いま自分の機嫌がいいことを、自分のものだと思った。思っていい理由は、たぶんどこにもない。


 ないまま、湊は缶を開けた。


---


【観察記録 ——相良慧】


 八月八日。読み直し、七日目。父のノートの用語の索引を、わたしの側で作り直しました。定義の書かれていない語が十一。そのうち三つは、父自身が後の頁で違う意味に使い直しています。


 配られた機嫌と、自分の機嫌を、人は見分けられるのか。


 ——見分けられない、という前提で設計されたものが、この街には多すぎます。


(ep052 了)


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