今日の分
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日曜の昼に呼ばれたのは、縁石ではなかった。
商店街の外れの児童公園で、透は先に来ていた。ベンチには座らず、砂場の縁のブロックに鞄を置いて、その上に紙を並べていた。今日も紙だった。
「読んだ」
湊がまだ何も言わないうちに、透はそう言った。
「昨日」
「……どうだった」
「今日のが先だ」透は紙の角を揃えた。「昨日のは、揃えてから出す」
それだけだった。湊は続きの聞き方を探して、見つからなかったので、透から一つ分あけたところに腰を下ろした。あけるつもりは、今日もなかった。
雪と宙と望が、五分のうちに順に来た。五人だった。六人ではなかった。
「川向こうの相談所に、同じ相談が三件来てる」透は一枚目を表に返した。「先月からだ。全部、家族からの相談。うち一件は、行方不明者届が出てる」
「行方不明」と宙が言った。「事件?」
「届が出てるだけだ。本人は生きてる。毎晩、同じ場所にいる」透は二枚目を出した。手書きの地図だった。「商店街の裏。空き店舗の脇の、通り抜けの用がない私有通路。一区画だけ、夕方から夜まで、祭りになるらしい」
「祭り」
「相談者の言葉だ。おれの言葉じゃない」
地図には、路地の入口と出口に印がついていた。湊は自分の端末で同じ場所を出した。案内は路地を通らなかった。表通りを最短で抜ける道が出て、裏へは一度も曲がらせない。地図の上では、そこはただの通路で、通り抜ける用のない場所ということになっている。
「相談者は、四十代の男性の奥さん」透は三枚目を伏せたまま言った。「三か月前から、夜に帰らなくなった。会社は行ってる。金だけ落ちてる。一日に三千円から五千円。……最初は、女か酒だと思ったって書いてある」
「違ったの」と宙が聞いた。
「飲み物と、氷菓と、乾き物だ。屋台の値段だ」透は指で紙を押さえた。「奥さんが一度、迎えに行った。旦那さんは怒らなかった。にこにこして、明日帰るから、って言ったらしい。それで奥さんは帰った。帰ってから、怖くなったって」
誰も、すぐには何も言わなかった。
「もう一つある」透は三枚目をやっと表に返した。「相談所の人が聞き取った分だ。常連のうち二人が、春に一度、通うのをやめかけてる。金が続かなくなったからだ。……そのとき、店の側が無料の日を作ってる。二人とも、それで戻ってる」
「……それ」と湊は言った。
「そうだ」
言い方が、いつもの平らさだった。責める形をしていなかった。責める形をしていないことが、かえって残った。
「役を割る」透は四枚目を出した。「今日は壊さない。今日は測る」
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路地は、六時を過ぎてから明るくなった。
明るくなった、と湊は思った。実際に明るくなったわけではない。空き店舗の軒先に折りたたみの台が一つ出て、その上に保冷箱が二つ載って、缶と、袋の氷菓と、透明な袋に入った乾き物が並んだ。裸電球が一つ点いた。それだけだった。
台の内側に立った人が、日和さんだった。三十くらいに見えた。髪を後ろで一つに束ねて、白いタオルを首にかけて、そこにいた。
椅子は四つしかない。人は十四人いた。数えたのは望だった。
入口から二歩のところで、湊は足を止めた。
機嫌が、良かった。
理由がなかった。理由がないことは分かる。分かるのに、良かった。夏の夕方の、風の少しある路地に立って、誰かがビールを開ける音がして、それが全部いい感じに見える。そう見える自分の方を、湊はうまく疑えなかった。
「一度出て」と、耳の中で雪の声がした。
湊は三歩下がった。路地の外へ出た。
落ちなかった。ただ、平らになった。さっきまで路地の中でいい感じに見えていたものが、いい感じでもなんでもない、ただの夕方に戻った。それだけだった。
平らな方が本物だと、なぜ言えるのかが、湊には分からなかった。
最初に試したのは、雪だった。
雪は台の前まで行って、缶を一本買って、その場で開けた。開けるときに、缶の縁で指の腹を切った。わざとだった。
「おい」と湊は言った。
血が出て、すぐに止まって、止まった線も消えた。
「……別に、いい」路地から出てきた雪は、指を見もしないで言った。「一回分」
湊は、それ以上言わなかった。言わなかったことを、後で書いておこうと思った。
「痛い」と雪は続けた。「……でも、中では、気分がよかった。痛いのに」
「痛みでは切れない」透が書いた。
次は宙だった。宙は椅子の一つに座っている中年の男の隣にしゃがんで、五分ほど何か喋って、戻ってきた。戻ってきた顔が、いつもより硬かった。
「通じてないわけじゃない」宙は言った。「配られてるんですよ、って言ったら、知ってるよ、って返ってきた。知ってるよ、それがいいんじゃない、って」
「言葉では切れない」
「……なあ、透氏」宙は缶を握った。「あの人、俺の話、ちゃんと聞いてた。ちゃんと聞いて、ちゃんと嬉しそうだった。あれ、どっちなんだよ」
望が、宙の隣に立った。
「僕も、入口の近くの人に一度だけ聞きました」望は手袋の指先を片方ずつ引き直した。「今日は楽しいですか、と。楽しい、と返ってきました。……——それは、あなたの言葉ですか、と続けるつもりでした。やめました」
「なんで」と宙が聞いた。
「聞いても、路地は消えないので」
透は答えなかった。答えないで、次の行に線を引いた。
三つ目は透自身だった。透は台の前に立って、日和さんに何か注文して、そのまま二分待った。日和さんは途中で一度、透の顔を見て、それから手元へ目を戻した。二度目に顔を上げたとき、日和さんの目は、透の上を通り過ぎて、後ろの誰かのところへ行った。
透は路地から出てきて、鼻の下を親指で拭った。
「忘れられた」
「消えなかったのか」と湊は聞いた。
「消えない。おれが誰だか分からなくなっても、おれの機嫌はいいままだった」透は書いた。「認識では切れない」
三本、線が引かれた。
「壊す前に、線を測る」透は新しい紙を出した。「範囲を出す。宙と望、交互に、入口から一歩ずつだ。切り替わったところで手を挙げろ。ミナトは秒を取れ」
宙が入って、七歩目で手を挙げた。望が入って、七歩目で手を挙げた。宙が反対側から入って、六歩目。日和さんが台の位置を半歩ずらしたとき、線も半歩動いた。
「術者中心」透は書いた。「一区画。だいたい二十メートル」
二十分後、日和さんが台の奥へ引っ込んだ。奥は空き店舗の勝手口で、外からは見えない。
「三分」と湊が言った。
三分の間、路地の中の十四人は、誰も日和さんを見ていなかった。それでも椅子の男は笑っていたし、立ち飲みの二人は肩を叩き合っていたし、いちばん奥の若い女は、缶を持ったまま宙を眺めていた。
「見えなくても、消えない」透が書いた。「視認は要らない」
日和さんが戻ってきて、また台の内側に立った。
それから、口論があった。
釣り銭の話だった。常連らしい男が、千円札を出して、返ってきた額が違うと言った。日和さんは違わないと言った。二往復で終わる程度の、小さな言い合いだった。
その二往復の間に、路地の中の全員の顔から、同時に何かが引いた。
椅子の男が笑うのをやめた。立ち飲みの二人が黙った。奥の若い女が、缶を台に置いた。誰も口論を見ていなかった。見ていないのに、下がった。
湊は入口の外にいて、それを見た。人が十四人、示し合わせもせずに、同じ秒で機嫌を失くすところを見た。
そして、路地は消えなかった。
「消えてない」と宙が小さく言った。「下がっただけだ」
日和さんは口論を切り上げて、奥へ引っ込んだ。四十秒くらいだった。戻ってきたとき、何かを口の中で転がしていた。飴か、それに近いものだった。
顔から、下がった分が戻った。
路地の中の十四人の顔からも、同じ秒で、戻った。
「……あ」と宙が言った。「上げ直した」
湊も、そこは読めた。読めたのはそこまでだった。上げ直さないと下がる。上げ直せば戻る。日和さんという人がどういう人かは、湊には分からない。分からないまま、そこだけが見えた。
「落ちても、場は消えなかった」透が言った。紙から目を上げていた。「落ちることと、切ることは、別の操作だ」
誰も、すぐには何も言わなかった。
「本人は、たぶん、それを知らない」透は続けた。「知ってたら、あんな口論のしかたはしない」
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待つ時間ができた。透が相談所と警察の窓口へ連絡を回している間、湊は路地の入口から十歩離れた電柱の下に立っていた。
昼のうちに、透から一つ渡されていた。依存客の入口を辿った先だ。
半年前の、三十秒の映像だった。生身の配信者が、路地を通りかかって撮っただけの切り抜き。裸電球と、折りたたみの台と、笑っている四人が映っている。「なんかここ、お祭りっぽくないですか?」と声が入って、それで終わる。撮った本人は、その場に入っていない。
再生数が、湊の知っている単位ではなかった。
半年前のものが、今も新しい顔で流れてくる。沈まない。消えない。コメントの新しい方に、この動画で知って通ってます、が三つ並んでいた。いちばん新しいのは、四日前だった。
湊の端末が、短く震えた。
推薦の通知だった。湊はその配信者を登録していない。していないのに、上がってきた。
開くと、朝の路地だった。
同じ場所を、シャッターの閉まっている時間に撮っていた。台はない。電球も点いていない。空き店舗の錆びた金具と、通路の隅の、誰かが置いていった段ボールが一つ。三十秒、それだけだった。
最後に、声が入った。
【ここには、なんにもないです】
それで終わりだった。説明も、次回予告もなかった。
湊は、もう一度頭から見た。二度目も、同じ長さの、何もない朝だった。
この人は、こっちのことを何も知らない。知らないまま、自分の出したもので人が送られていたことに、どこかで気づいた。気づいて、消せなかったか、消さないことにしたかで、代わりにこれを出した。
それが分かる気がした。分かる気がするだけで、それを誰かに向かって言う形が、湊には見つからなかった。
湊は記録を開いて、一行だけ書いた。
【消せない人が、別のものを出した。=わからない】
書いてから、端末を閉じた。
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九時前に、湊は路地の中へ入った。
入った瞬間に、また機嫌が良くなった。良くなったまま、湊は台の前まで行った。良くなったままでいい、と決めていた。決めておかないと、たぶん問いの形が変わる。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
日和さんは氷菓の袋を並べる手を止めなかった。「注文なら聞くけど」
「今日、店を開ける前に、何をしましたか」
手が、止まった。
「……なんで」
「順番があるなら、教えてほしいんです」
日和さんは湊を見た。見て、少し考えて、それから答えた。答え方が正確だった。
「甘いもん食べる。饅頭か、なきゃ飴。それから、決まった曲を一回かける。同じやつ。……で、鍵を開けるんだけど、開ける順番も決まってる。勝手口の下の錠を先に外して、シャッターは後」
「それ、毎日やってるんですね」
「……やらないと、開けられないので」
路地の裸電球が、風で少し揺れた。十四人分の笑い声が、後ろで続いていた。
「今日、下がったでしょう」と湊は言った。「釣り銭のとき」
日和さんの顔が動いた。「見てたの」
「後ろの人たちも、同じときに下がりました。……でも、路地は消えませんでした」
「そりゃあ、」日和さんは言いかけて、言葉を探した。「……そりゃあ、消したら困るでしょう」
「消えなかったんです」湊は言った。「消さなかったんじゃなくて。あなたが下がっても、消えなかった」
日和さんは黙った。
「落ちるのと、切るのは、別です」
言ってから、湊は自分の声を聞いた。断定していた。断定する言い方を、湊はあまり持っていない。持っていないものが、今日は先に出た。
「……なに言ってんの」
日和さんは笑った。笑い方が、さっきまでと違った。
「あんた、知らないでしょ。わたしが手を離したら、この人ら全員、いっぺんに沈むんだから。そういうもんなの。十何年やってんの、わたし」
「沈みません」
「沈むの」
「切ってみないと、分からないと思います」
日和さんは、湊を見た。長かった。
それから、台の縁に手をついた。ついた手が、少し重そうだった。日和さんは今日、朝から立っていて、口論を一つして、飴を一つ食べて、まだここに立っている。
「……もういいわ」
日和さんは首のタオルを外した。
「疲れた。今日は、もう閉店です」
路地から、明るさが消えた。
電球は点いたままだった。消えたのはそれではなかった。
椅子の男が、缶を持ったまま、自分の手元を見た。立ち飲みの二人が、途中まで言いかけていた話をやめた。奥の若い女が、あ、と小さく言った。
それだけだった。
誰も倒れなかった。誰も泣かなかった。十四人が、順に、自分の顔に戻っただけだった。戻った顔は、どれも疲れていた。疲れているのが、たぶん普通だった。
一人が「じゃあまた」と言って、路地から出ていった。二人目が続いた。三人目は、台の上に空き缶を戻してから出ていった。
日和さんは、それを最後まで見ていた。
見て、それから、口を閉じた。
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罪の名前が、なかった。
透が言うには、この件で切れる書類は三つしかなかった。家族からの相談と事情聴取。行方不明者届の取り下げ。商店会が、軒先の使用の黙認を打ち切る通知。三つ目は民事だ。検挙も、行政処分も、被害届も出ない。通ってしまった人たちは、相談窓口へ繋ぐ。それだけだった。
湊たちは何も触らなかった。台も、保冷箱も、電球も、そのままだった。
深夜、公園のベンチで、透は端末の書式を開いていた。今日の分の記録を残す欄が並んでいる。事案の類型。被害。加害。処分。
透は、しばらく打たなかった。
「……これ、どの欄に入れるんだ」
誰も答えなかった。
透は、打たなかった。端末を閉じて、鞄に入れた。
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帰り道、自販機の前で宙が止まった。
缶を一本買って、取り出し口に手を入れて、二本出てきた。
宙は両手に一本ずつ持って、それを順番に見て、真顔で言った。
「……レアドロップだ」
雪が、先に噴き出した。
雪が声を出して笑うところを、湊は初めて見たかもしれなかった。望が口元を手袋で押さえて、押さえきれずに肩を揺らした。宙が「いや笑うとこ? ここ笑うとこ?」と言って、それでまた駄目になった。
それから、透が笑った。
声は出ていなかった。息だけだった。缶の一本を宙から受け取って、開けて、飲みながら、まだ少し笑っていた。
湊は、それを見た。
見て、何も言わなかった。言わないでおくことに、今日は自信があった。
路地の方から、風が来た。何の匂いもしなかった。理由もなかった。それでも湊は、いま自分の機嫌がいいことを、自分のものだと思った。思っていい理由は、たぶんどこにもない。
ないまま、湊は缶を開けた。
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【観察記録 ——相良慧】
八月八日。読み直し、七日目。父のノートの用語の索引を、わたしの側で作り直しました。定義の書かれていない語が十一。そのうち三つは、父自身が後の頁で違う意味に使い直しています。
配られた機嫌と、自分の機嫌を、人は見分けられるのか。
——見分けられない、という前提で設計されたものが、この街には多すぎます。
(ep052 了)




