予備
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【観察記録 ——相良慧】
八月七日。読み直し、六日目。父の紙の束は、二つが手つかずのまま。
父のノートは、章の終わりに必ず白紙が一枚ある。予備、と呼んでいたのを覚えています。何を書くための予備なのかは、聞いたことがありません。
順番を決めかねています。決めかねていること自体を書き留めるのは、準備ではなく、こわがっている記録なのだと思います。
——わたしはこれから、読む側になります。読む側は、読まれる側でもあります。
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訓練のある日は、点呼が一時間早い。
六時五十分。名前を呼ばれて、返事をして、そのまま装備の部屋へ移る。八月の朝は、わたしにとっていちばん働きにくい時間帯だ。窓が明るい分だけ、余計なものが見える。ゴーグルは屋内でも外さない。
装備の棚は、手首の生体照合で開く。触れた記録は残る。誰が、何時に、どの棚を開けたか。開けたのに何も出さなかった場合も残る。残るということは、あとで読む人がいるということだ。
棚の前で、わたしは数えた。人が四人。棚が六本。出口が二つ。数えるのは癖で、数えているものは、たぶん癖ごとに違う。わたしが数えるのは、光るかもしれないものの居場所だ。
扉が開いて、楯岡隊長が入ってきた。
入ってきた瞬間に、隊長の目が動いた。奥の棚。手前の机。壁際に立っている三人。それから、いま自分が入ってきた扉と、その反対側の非常口。順番はいつも同じで、いつも速い。人より先に扉を見ている、と思ったことがあったが、違う。人を見てから扉を見ている。人が通るところを見ているのだ。
わたしが数えているのは、光るかもしれないものの居場所で、隊長が数えているのは、通れるところだ。
「おはようございます」
「おはようございます。装備点検、始めます」
隊長は端末を出さない。棚の一覧はいつでも開けるはずだが、開いているところを見たことがない。ゴーグルの状態。予備の電池。水筒。手袋。一点ずつ、目で見て、手で持ち上げて、置く。
間宮くんは、絶縁手袋を二組出した。規定は一組だ。二組目は本人が自分で買ったもので、いつからか点検の列に並ぶようになっていた。隊長はそれを咎めない。持ち上げて、置く。それだけだ。
間宮くんが、床に片膝をついた。
編上靴の紐が、片方だけ緩んでいた。結び直そうとして、途中で手が止まる。緩んでいたのではなくて、ほつれていた。紐の先の金具の下が、繊維の束になって割れている。間宮くんはそれを二本の指でまとめて、まとめたまま穴に通そうとして、また止まった。
隊長は、それを見た。
見て、何も言わなかった。机の引き出しを開けて、白い靴紐を一本出して、机の端に置いた。置いて、次の棚へ行った。
誰のものだとも、使えとも、言わなかった。
間宮くんは、置かれた紐と隊長の背中を交互に見て、それから、わたしの方を見た。目で何か聞かれた気がしたが、何を聞かれたのかは分からなかったので、わたしは黙っていた。
「……先輩。これ」
「……使ってください」
「はい」
間宮くんは紐を取って、両手で持ったまま、少しの間、持っていた。それから鞄に入れた。今すぐ替えないところが、この人らしい。
予備、というのは、いつか切れることに先に名前をつけておく物だ。隊長は、切れるより先に置く。置かれた側は、自分の紐がいつ切れるかを、置かれるまで知らない。
これは指揮官の癖だ。わたしはそう記録することにした。癖なら、意味を考えなくていい。
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午前は訓練場だった。
わたしの訓練は、いつもと同じ。決められた位置で三十分静止し、決められた区画を走査し続ける。区画には誰もいない。誰もいないことを確かめ続けるのが訓練で、確かめ続けられる時間の長さが、記録される。
十二分あたりで、一度、集中が切れた。
切れた理由ははっきりしている。区画の奥の、いま何もない一角を見ていて、もしここに光がひとつあったら、と考えたからだ。光があったら、わたしは報告する。報告したら、たぶん今日のうちに人が行く。行った先で、その人は、明日どこにいるのだろう。
そこまで考えて、区画が普通の見え方に戻った。
戻ってしまえば、あとは十秒ほどかけて集中を組み直すしかない。組み直して、また走査を続けた。終わったとき、現実の視界はいつもどおり暗く沈んでいた。椅子で待つ。回復時間が計られる。
教官役の隊員が、時間を読み上げた。前回より四十秒長い。維持の記録の方も、途中で一度切れた分だけ短くなっている。
隊長は、記録の板を受け取って、二つの数字を見た。
見て、そのまま次へ渡した。渡す前に、一度だけ、こちらを見た。
何も言われなかった。四十秒は、たぶん誤差の範囲だ。範囲の中にある数字に、隊長はいちいち触れない。ただ、隊長が読んでいるのは数字だけではない。それはこの二週間で分かってきた。分かってきたことを、わたしはまだ、どこにも書いていない。
間宮くんの方は、制圧の訓練だった。
導体の板を敷いた区画に、訓練用の的が四体。ゴーグル越しの視界で、間宮くんが強く光る。的が跳ねて、倒れる。焦げた匂いがして、換気が自動で強くなった。
終わったあと、間宮くんは指先を擦り合わせていた。
擦り合わせるのは癖で、癖には長さがある。六月に見たときは、訓練のあとで十数える間くらいだった。今日は、三十を数えても終わらなかった。数えたのはわたしの癖で、数えて何になるのかは、今日も分からない。
訓練の終わりに、隊長が言った。
「明滅。訓練後の感覚の記録を、今日の分まで出してください」
「はい。——復唱します。訓練後の感覚の記録を、本日分まで提出します」
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感覚の記録は、端末の様式で出す。
項目は指ごとに分かれていて、決められた強さの刺激を当てて、感じたかどうかを段階で答える。数値はその場で自動で入る。人が書くのは、いちばん下の備考欄だけだ。
備考欄には、打ち始めると候補が出る。ほとんどの隊員はそこから選ぶ。「特記事項なし」「訓練後のため一時的な低下と思われる」「経過観察を希望」。候補は、たいてい、当たり障りのないところに落ちるようにできている。
間宮くんは、候補を使わない。いつも自分で打つ。
「先輩。これ、様式、これで合ってますか」
差し出された画面を、わたしは見た。
数値は、前回より落ちていた。左の薬指と小指が、二段。右の人差し指が一段。落ちた値が、落ちたまま入っている。この人は数字を直さない。直さないことが、この人のいちばん整っているところだ。
備考欄には、四文字だけあった。
——慣れました。
前回と同じ四文字だった。前回も、たしか同じだった。
わたしは、画面をもう少しだけ見ていた。合っています、と言えばそれで終わる。終わって、この記録は上がっていく。上がった先で誰かが読む。読んだ結果、この人が来月どこにいるのかを、わたしはたぶん、この場で少し考えた。
考えてから返事をするようになって、返事が遅くなった。遅くなったことには、自分で気づいている。
「……様式は、合っています」
「よかった。ありがとうございます」
間宮くんが提出に触れる前に、隊長が横に来ていた。
足音はしていた。していたのに、わたしは気づかなかった。走査をしていない時間のわたしは、たぶん、思っているより見えていない。
「見せてください」
間宮くんが画面を向けた。隊長は数値の列を上から下まで見て、それから、いちばん下で目を止めた。止めたまま、少し黙った。
「数字は、正確です」
「はい」
「……『慣れました』は、記録ではありません。次からは、何が、どう変わったかを書いてください」
声は上がらなかった。命令の形もしていなかった。ただ、書いてください、で文が終わっていた。
「——復唱します。備考欄には、何が、どう変わったかを書く。数字は、正確に出す。以上です」
「はい」
復唱は正確だった。この人の復唱はいつも正確だ。正確な復唱と、正確な備考が同じものかどうかは、今日の分では分からない。
隊長は、画面から目を離さずに続けた。
「明滅。わたしは、あなたの指の感覚を、あなたより先に知っていたいんです」
「……はい」
「先に知れば、外す判断が早くできます。遅く知ると、外すのが間に合わなくなります」
外す、という言葉に、間宮くんの肩が一度上がって、下りた。
「外れたく、ないので」
「知っています」隊長は端末の縁を指で揃えた。「だから、書いてくださいと言っています」
それだけ言って、隊長は次の列へ行った。行った先で、別の隊員の水筒の残りを確かめている声が聞こえた。
間宮くんは、備考欄を消して、しばらく空欄のまま置いていた。それから何も打たずに、様式を保存だけして閉じた。明日出すつもりなのだと思う。指先はまた擦り合わせていた。
隊長は、うるさい。
装備にも、睡眠にも、水分にも、指先にもうるさい。何にうるさいのかを、わたしは今日まで、規律という言葉でまとめて置いていた。まとめて置いておくと、考えなくて済むからだ。
今日、置き場所からはみ出した。
隊長がうるさいのは、新人が死なないことについて、である。それも、なんとなくではなく、指の何段目まで具体的にうるさい。
言葉にしてみると、当たり前のことだった。当たり前のことを、二週間、言葉にしていなかった。
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夕方の点呼で、装備を返した。
ゴーグルの状態。予備の電池。水筒の残り。隊長は今朝と同じ順で確かめて、「以上です」と言った。以上です、のあとの二秒がある。今日は、誰も何も言わなかった。
装備の部屋を出るとき、机の端を見た。
朝の白い紐は、なくなっていた。
廊下の先で、間宮くんが屈んで靴を直していた。左の編上靴の紐だけが新しい。白い紐は、まだ真っ直ぐで、通したばかりの穴のところで少し引っかかっていた。右の方は、朝のままだ。まだ切れていない。
切れていない方の紐を、わたしはしばらく見ていた。
見つける前に、見つけたあとのことを考えるようになったのが、いつからなのかは思い出せない。思い出せないものは、たいてい六月にある。六月のことを考えると、洗濯物の角のことになるので、わたしは廊下の窓の外を見た。
空が高い。明るい。窓の外の電線を数えようとして、この廊下の窓からは電線が見えないことに、数え始めてから気づいた。
「先輩、お疲れさまでした」
「……お疲れさまでした」
間宮くんが立ち上がって、二、三歩、歩いて、また止まった。
「あの、紐。ありがとうございました」
「わたしは、何もしていません」
「はい。……でも、先輩が使ってくださいって言ったので、使えたので」
そう言って、今度こそ行った。歩き方が、朝より少しだけ静かだった。新しい紐の方は、まだ音がしない。
明日の予定は、もう届いている。定期確認が二件。走査の範囲は、どちらも指定済みだ。範囲の指定がある走査は、楽だ。
楽なはずのものが、前ほど楽ではなくなっていることは、報告する欄がない。
(ep051 了)




