わたしの線
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入稿は、月に二度ある。
金曜の十時。栞は九時五十分に印刷所の受付へ着いた。早く着くのは癖で、癖の理由を考えたことはない。
受付の脇には、見本帳の端末が立っている。触れると一分で百案が出る。教材の挿し絵も、薬局の掲示も、商店会の福引きの札も、たいていはあの端末の中から選ばれて、そのまま刷られる。栞の描く紙が置かれるのは、その隣の、狭い方の棚だった。
受付の人は今日も同じ人で、今日も名前を聞かなかった。
「三点、お預かりします」
差し出された取次票には、地区の記号と、受付番号と、受付日の欄しかない。名前を書く欄が、ない。最初にこの票を見たとき、栞は少しだけ息がしやすくなった。名前を要求しない紙が、この世にあるのだと思った。
栞は原画を出した。手のひらより少し大きい紙が三枚。人の手と、鞄と、階段の手すり。描いている途中の紙を撮った記録も一緒に出す。人の手で描いたことを示すには、描き上がりだけでは足りない。途中と、消した跡と、紙そのものが要る。
「今回も、修正指示は出ていませんね」
「はい」
「珍しいんですよ、ほんとに」受付の人は笑った。「みなさん一度は直させたがるので」
直させたいと思ったことがないわけではない。ただ、直させる言い方を、栞は組み立てられたためしがない。組み立てようとすると、先に別の言葉が来る。——このままでいいです、って言った方がいいみたい。
今朝は、その声が多かった。
家を出るときから、一つずつ先回りしてきていた。傘は要らない。改札は右。受付の人には先に会釈を。どれも合っていた。合っているのに、いつもより多い、と思った。多い、と思ったこと自体が、栞には新しかった。
昨日のことを、栞は正確に覚えている。
縁石の上で、日野くんが三つのことを順番に言って、三つ目のところで、栞は輪の外に置かれた。栞は何も言わなかった。言えなかったのではなくて、言うべき言葉なら、いくらでも来ていた。全員が納得する形の言葉が、口の手前まで、三度来た。三度とも、飲み込んだ。あれを音にしたら、たぶんその場は収まったのだと思う。収まったものが、誰の言葉で収まったのかを、栞はもう考えないではいられない。
受付の人が控えを出してくれた。番号だけの、小さな紙。
振り向いたら、待合の椅子に人がいた。
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五十代くらいの男の人だった。作業着ではなく、上着でもない。薄い長袖のシャツを、袖口まできちんと留めている。膝の上に鞄を置いて、両手をその上に重ねて座っていた。栞が振り向くまで、こちらを見ていなかったのだと分かる座り方だった。
耳が、裸だった。
「御堂栞さんですね」
名前を呼ばれて、栞は反射で会釈をした。会釈をしてから、ここでは名前を出さない場所だったはずだ、と気づいた。
「柏木といいます」男の人は立ち上がって、頭を下げた。深すぎない、慣れた下げ方だった。「初めまして、ではありません。あなたは覚えていないと思いますが」
言葉が、来た。——初めまして、と言った方がいいみたい。
栞は、言わなかった。
「……どちら様、でしょうか」
「昔、生活のご相談を受ける仕事をしていました。今は、別のことをしています」柏木さんは、それだけ言った。「少しだけ、お時間をいただけますか。外の、明るいところで結構です」
断る言い方も、来ていた。予定があります、家の者が待っています、また今度に。どれも角が立たない。栞はそのどれも使わずに、「はい」と言った。使わなかった理由を、あとで探すことになるのは分かっていた。
印刷所の前の通りは、昼前の光が真上から落ちていた。柏木さんは日陰へは行かず、電柱の脇に立った。人通りのある方だった。逃げ道をふさがない立ち方だ、と栞は思った。思ってから、そういう見方を自分がすることに、少し驚いた。
「単刀直入に申します」柏木さんは鞄を開けた。「あなたの中の声を、止められます」
栞の指が、鞄の紐を掴んだ。
鞄から出てきたのは、弁当箱ほどの黒い箱だった。目盛りも、表示も、光るところもない。柏木さんはそれを両手で持ったまま、栞の方へは向けなかった。
「電源は入れません。今日は、見ていただくだけです」
「……それは」
「あなたが、返事の前に一拍おく理由を、私は知っています。中身は知りません。仕組みも分かりません」柏木さんは箱を鞄へ戻した。「ただ、止まることは分かっています。実際に止まった方を、何人か見ています」
通りの向こうで、配送の台車が自分で向きを変えた。誰も見ていなかった。
「条件を申し上げます。お金はいただきません。一度、三十分ほど止めます。その間、あなたにやっていただきたいのは、何かを選ぶことです。何でも構いません。昼に何を食べるか、でも。……止まっている間に選んだものが、あなたのものです」
止まっている間に。
「見返りは一つだけです。同じことで困っている方に、この方法があると伝えてください。それだけです」
栞は、黙っていた。
欲しかった。
十七年、これだけが欲しかった。欲しい、という形の気持ちを持つこと自体が、栞にはあまりない。それが今、はっきりある。
そして、声が来た。
——受けなさい。
いつもの速さで、いつもの位置に。考えの手前に、先に置かれた。
栞は、そこで初めて、引っかかった。
「……あの。ひとつだけ、いいですか」
「どうぞ」
「……人と話しているときの答えは、たぶん、わたしが得をする方じゃなかったんです」栞は自分の声を聞きながら喋っていた。「母が嬉しくなる方。先生が困らない方。相手が、続けやすい方。……そっちを、選んでいたんじゃないですか」
柏木さんは、答えなかった。答えられない顔だった。知らない、と正直に書いてある顔だった。
栞は、続きを自分で止めた。
「……でも、道を教えてくるときのは、違う気がします」
右の改札。この電車。この角を曲がる。あれは誰が続けやすい方でもない。誰が嬉しくなる方でもない。何のための最適だったのかを、栞は説明できない。説明できないところまで来たので、そこで止めた。
それから、栞は、内側へ一度だけ聞いた。
——これは、わたしのための答えなんですか。
返事は、なかった。
十七年で、初めて聞いた。初めて聞いて、初めて、返ってこなかった。
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柏木さんは、栞が黙っている間、急かさなかった。
「……お断りします」
言ってから、栞は自分でも少し驚いた。断る言い方を組み立てた覚えがない。組み立てる前に、口が動いていた。
「理由を、伺っても」
「怖いから、ではありません」栞は言った。「柏木さんが悪い人だから、でもありません。……たぶん、そうじゃないと思います」
「はい」
「止まっている間に、わたしが何かを選べたとして」栞は一度、息を吸った。「……それは、あなたが止めてくれたから選べたんですよね。……それだと、確かめられないんです。わたしが選んだのか、止まったから選べただけなのか」
スイッチが、相手の手にある。
箱の側面に、押すところがあるのを栞は見ていた。あの箱を持っている人が、いつ入れるか、いつ切るかを決める。その間に自分が選んだものを、自分のものだと言う方法が、栞にはない。
昨日、縁石の上で、日野くんは封をした紙を三つ並べていた。三つ配って、動いたのは一つだった。あれは、あとから確かめられる形をしていた。確かめられる形にしてから配ったから、確かめられたのだ。
栞は、それを昨日、自分に向けられた側で見た。見たものが、今日、自分の手の中にあった。
「……確かめられない方法は、要りません」
柏木さんは、しばらく黙っていた。それから、鞄の口を閉めた。
「わかりました」
怒った顔ではなかった。落胆した顔でもなかった。予想の範囲だ、という顔だった。それが、栞には少しだけ怖かった。
「一つだけ、申し上げてもいいですか」柏木さんは鞄を提げ直した。「あなたを印刷所へ紹介したのは、私です。……十四のときに」
栞は、意味が分からなかった。
紹介、という言葉が、頭の中でどこにも嵌まらなかった。栞が絵を描き始めたのは、母が「知り合いの紹介」だと言った小冊子の仕事からで、それは母が持ってきた話で、栞が自分で決めた一つ目のことだ。決めた、と栞は思っている。思っているものの端を、今、知らない人が持っていた。
「あの——」
「今日は、これで失礼します」柏木さんは頭を下げた。さっきと同じ角度だった。「よくお考えになったと思います。本当に」
背を向けて、二歩歩いてから、振り返らずに言った。
「次にお会いするときは、あなたが決める前に止めます」
栞は、動けなかった。
「溺れている人に、泳ぎたいか聞く人はいませんから」
それだけ言って、柏木さんは通りを歩いていった。走りもせず、急ぎもせず、耳を裸にしたまま、人の間を普通に歩いて、角を曲がって見えなくなった。
栞は、しばらくその角を見ていた。
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帰り道、栞はイヤーカフの案内を切った。切っても、道は分かった。
あなたの中の声、と柏木さんは言った。
外から名前をつけられたのは、初めてだった。中の、声。あの一拍のことを、栞はずっと、自分の一部の形の悪いところだと思ってきた。悪いところに名前がつくと、輪郭が出る。輪郭が出ると、隣に何が並ぶのかが見えてしまう。
夢だと思っていたものが三つ、並んだ。
炎の色をした通りと、日付の入った幕。人の背中と、その向こうの手。それから、空白の欄。三つとも、夜に来た。三つとも、目が覚めてからも消えなかった。だから紙に描いた。描いて、裏に三行書いた。書いたものを、誰にも見せたことがない。
あれも、わたしから漏れたものかもしれない。
そう思ったのが精一杯だった。三枚が何なのかも、なぜ来たのかも、どこから来たのかも、栞には分からない。分からないものを、分かったふりで畳んでおく方法は、もう使わないと決めた。決めたのは、たぶん今朝の十時半くらいだ。
鞄の底で、スケッチブックの角が、歩くたびに背中に当たった。
栞は、端末を出した。
相沢くんへの文面を、囁きは組まなかった。組んでこないのは初めてで、だから栞は、自分で打つのに七分かかった。
【御堂です。お渡ししたいものがあります。日野くんに、渡したいです】
打ち直しは四回した。四回目に送った。
返事は、二分で来た。場所が書いてあった。縁石ではなかった。
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駅の反対側の、古い歩道橋の下だった。栞が一度も連れて行かれたことのない場所で、それが答えだった。渡さないと決めたものは、渡されていない。
三人いた。相沢くんと、白石さんと、日野くん。手袋の人はいなかった。
日野くんが来ているとは思わなかった。
「来るとは、思いませんでした」
「渡す物は止めた」日野くんは言った。「受け取る物は、止めてない」
声は昨日と同じ平らさだった。目は合わなかった。相沢くんが何か言いかけて、やめた。やめたのが分かる顔だった。
栞は鞄を開けた。
手のひらより少し大きい、表紙の角が丸くなった帳面。ゴムで留めてある。鉛筆の粉で、表紙の下の方が灰色になっている。
差し出す相手を、栞は昨日のうちに決めていた。
「日野くんに」と栞は言った。
三人の間の空気が、少しだけ動いた。
「……なんで、おれ」
「調べてください、って言ったのは、わたしなので」栞は帳面を両手で持ったまま言った。「調べる人は、あなたです」
「……中身は」
「絵が三枚です。それだけです」栞は、そこで一度、息を継いだ。「絵の裏に、三行ずつ書いてあります。日付と、場所と、見えたものを三つ」
言ってしまってから、栞は自分の手が少し冷たくなっているのに気づいた。三行のことを、誰かに向かって声に出したのは初めてだった。
日野くんは、栞の顔を見た。昨日から今日で、初めて目が合った。
それから、受け取った。
開かなかった。ゴムも外さなかった。そのまま鞄に入れて、口を閉めた。
「明日、読む」
「はい」
「今日は読まない」日野くんは鞄の紐を握り直した。「今日読んだら、たぶん、読み方を間違える」
それ以上は言わなかった。栞も聞かなかった。
白石さんが、栞の隣に立った。いつのまにか、と思うくらい静かな立ち方だった。
「わたしが、日付の側を見る」
「……日付」
「裏に、書いてあるって言った」白石さんは前髪の向こうから、栞ではなく、日野くんの鞄を見ていた。「日付なら、合ってるか合ってないか、外から確かめられる。絵は、わたしには分からない」
栞は、返事の形を探した。探しているうちに、白石さんがゼリーの袋を一本、栞の手に押しつけた。それで終わりらしかった。
相沢くんが端末を開いた。何かを短く打っている。打ち終わって、閉じた。
「記録、つけとく」
「……はい」
「意味は、まだ分かんない」相沢くんは言った。「分かんないやつも、書いとくことにしてる」
柏木さん、と言いかけて、栞は口を閉じた。
今日渡すと決めたのは三枚で、それは昨日のうちに決めたことだった。あの人のことは、まだ一つも自分の言葉になっていない。ならないものを先に置いたら、置いた先で、勝手に形がつく。
——今日は、言わない。
昨日、三度飲み込んだときとは違った。飲み込んだのではなくて、置いた。
それから、四人はそこで別れた。仲直りの言葉は誰も言わなかった。日野くんは先に行った。相沢くんは歩道橋の階段の下で一度だけ振り返って、何か言おうとして、結局「じゃあ」とだけ言った。
栞は歩道橋の下から出て、日の当たる側へ歩いた。
今日、二つのことをした。
一つは、断ったこと。もう一つは、開いたこと。どちらも、先に来る言葉を使わずにやった。合っていたかどうかは分からない。分からないままでいい方法があるのだと、栞は今日初めて知った。確かめられる形にしておけば、分からないまま持って歩ける。
角を曲がるとき、栞は改札の方角を、自分で選んだ。声は何も言わなかった。言わなかったのか、言ったのに聞かなかったのか、それも確かめようがない。確かめようがないことを、今日はそのまま置いておくことにした。
背中に、何も当たらなかった。
(ep050 了)




