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AIが全部の正解を先に出す2049年、わかり合った相手の超能力が写る。記憶も痛みも一緒にー人間未解ー  作者: 猫間じん


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わたしの線

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 入稿は、月に二度ある。


 金曜の十時。栞は九時五十分に印刷所の受付へ着いた。早く着くのは癖で、癖の理由を考えたことはない。


 受付の脇には、見本帳の端末が立っている。触れると一分で百案が出る。教材の挿し絵も、薬局の掲示も、商店会の福引きの札も、たいていはあの端末の中から選ばれて、そのまま刷られる。栞の描く紙が置かれるのは、その隣の、狭い方の棚だった。


 受付の人は今日も同じ人で、今日も名前を聞かなかった。


「三点、お預かりします」


 差し出された取次票には、地区の記号と、受付番号と、受付日の欄しかない。名前を書く欄が、ない。最初にこの票を見たとき、栞は少しだけ息がしやすくなった。名前を要求しない紙が、この世にあるのだと思った。


 栞は原画を出した。手のひらより少し大きい紙が三枚。人の手と、鞄と、階段の手すり。描いている途中の紙を撮った記録も一緒に出す。人の手で描いたことを示すには、描き上がりだけでは足りない。途中と、消した跡と、紙そのものが要る。


「今回も、修正指示は出ていませんね」


「はい」


「珍しいんですよ、ほんとに」受付の人は笑った。「みなさん一度は直させたがるので」


 直させたいと思ったことがないわけではない。ただ、直させる言い方を、栞は組み立てられたためしがない。組み立てようとすると、先に別の言葉が来る。——このままでいいです、って言った方がいいみたい。


 今朝は、その声が多かった。


 家を出るときから、一つずつ先回りしてきていた。傘は要らない。改札は右。受付の人には先に会釈を。どれも合っていた。合っているのに、いつもより多い、と思った。多い、と思ったこと自体が、栞には新しかった。


 昨日のことを、栞は正確に覚えている。


 縁石の上で、日野くんが三つのことを順番に言って、三つ目のところで、栞は輪の外に置かれた。栞は何も言わなかった。言えなかったのではなくて、言うべき言葉なら、いくらでも来ていた。全員が納得する形の言葉が、口の手前まで、三度来た。三度とも、飲み込んだ。あれを音にしたら、たぶんその場は収まったのだと思う。収まったものが、誰の言葉で収まったのかを、栞はもう考えないではいられない。


 受付の人が控えを出してくれた。番号だけの、小さな紙。


 振り向いたら、待合の椅子に人がいた。


---


 五十代くらいの男の人だった。作業着ではなく、上着でもない。薄い長袖のシャツを、袖口まできちんと留めている。膝の上に鞄を置いて、両手をその上に重ねて座っていた。栞が振り向くまで、こちらを見ていなかったのだと分かる座り方だった。


 耳が、裸だった。


「御堂栞さんですね」


 名前を呼ばれて、栞は反射で会釈をした。会釈をしてから、ここでは名前を出さない場所だったはずだ、と気づいた。


「柏木といいます」男の人は立ち上がって、頭を下げた。深すぎない、慣れた下げ方だった。「初めまして、ではありません。あなたは覚えていないと思いますが」


 言葉が、来た。——初めまして、と言った方がいいみたい。


 栞は、言わなかった。


「……どちら様、でしょうか」


「昔、生活のご相談を受ける仕事をしていました。今は、別のことをしています」柏木さんは、それだけ言った。「少しだけ、お時間をいただけますか。外の、明るいところで結構です」


 断る言い方も、来ていた。予定があります、家の者が待っています、また今度に。どれも角が立たない。栞はそのどれも使わずに、「はい」と言った。使わなかった理由を、あとで探すことになるのは分かっていた。


 印刷所の前の通りは、昼前の光が真上から落ちていた。柏木さんは日陰へは行かず、電柱の脇に立った。人通りのある方だった。逃げ道をふさがない立ち方だ、と栞は思った。思ってから、そういう見方を自分がすることに、少し驚いた。


「単刀直入に申します」柏木さんは鞄を開けた。「あなたの中の声を、止められます」


 栞の指が、鞄の紐を掴んだ。


 鞄から出てきたのは、弁当箱ほどの黒い箱だった。目盛りも、表示も、光るところもない。柏木さんはそれを両手で持ったまま、栞の方へは向けなかった。


「電源は入れません。今日は、見ていただくだけです」


「……それは」


「あなたが、返事の前に一拍おく理由を、私は知っています。中身は知りません。仕組みも分かりません」柏木さんは箱を鞄へ戻した。「ただ、止まることは分かっています。実際に止まった方を、何人か見ています」


 通りの向こうで、配送の台車が自分で向きを変えた。誰も見ていなかった。


「条件を申し上げます。お金はいただきません。一度、三十分ほど止めます。その間、あなたにやっていただきたいのは、何かを選ぶことです。何でも構いません。昼に何を食べるか、でも。……止まっている間に選んだものが、あなたのものです」


 止まっている間に。


「見返りは一つだけです。同じことで困っている方に、この方法があると伝えてください。それだけです」


 栞は、黙っていた。


 欲しかった。


 十七年、これだけが欲しかった。欲しい、という形の気持ちを持つこと自体が、栞にはあまりない。それが今、はっきりある。


 そして、声が来た。


 ——受けなさい。


 いつもの速さで、いつもの位置に。考えの手前に、先に置かれた。


 栞は、そこで初めて、引っかかった。


「……あの。ひとつだけ、いいですか」


「どうぞ」


「……人と話しているときの答えは、たぶん、わたしが得をする方じゃなかったんです」栞は自分の声を聞きながら喋っていた。「母が嬉しくなる方。先生が困らない方。相手が、続けやすい方。……そっちを、選んでいたんじゃないですか」


 柏木さんは、答えなかった。答えられない顔だった。知らない、と正直に書いてある顔だった。


 栞は、続きを自分で止めた。


「……でも、道を教えてくるときのは、違う気がします」


 右の改札。この電車。この角を曲がる。あれは誰が続けやすい方でもない。誰が嬉しくなる方でもない。何のための最適だったのかを、栞は説明できない。説明できないところまで来たので、そこで止めた。


 それから、栞は、内側へ一度だけ聞いた。


 ——これは、わたしのための答えなんですか。


 返事は、なかった。


 十七年で、初めて聞いた。初めて聞いて、初めて、返ってこなかった。


---


 柏木さんは、栞が黙っている間、急かさなかった。


「……お断りします」


 言ってから、栞は自分でも少し驚いた。断る言い方を組み立てた覚えがない。組み立てる前に、口が動いていた。


「理由を、伺っても」


「怖いから、ではありません」栞は言った。「柏木さんが悪い人だから、でもありません。……たぶん、そうじゃないと思います」


「はい」


「止まっている間に、わたしが何かを選べたとして」栞は一度、息を吸った。「……それは、あなたが止めてくれたから選べたんですよね。……それだと、確かめられないんです。わたしが選んだのか、止まったから選べただけなのか」


 スイッチが、相手の手にある。


 箱の側面に、押すところがあるのを栞は見ていた。あの箱を持っている人が、いつ入れるか、いつ切るかを決める。その間に自分が選んだものを、自分のものだと言う方法が、栞にはない。


 昨日、縁石の上で、日野くんは封をした紙を三つ並べていた。三つ配って、動いたのは一つだった。あれは、あとから確かめられる形をしていた。確かめられる形にしてから配ったから、確かめられたのだ。


 栞は、それを昨日、自分に向けられた側で見た。見たものが、今日、自分の手の中にあった。


「……確かめられない方法は、要りません」


 柏木さんは、しばらく黙っていた。それから、鞄の口を閉めた。


「わかりました」


 怒った顔ではなかった。落胆した顔でもなかった。予想の範囲だ、という顔だった。それが、栞には少しだけ怖かった。


「一つだけ、申し上げてもいいですか」柏木さんは鞄を提げ直した。「あなたを印刷所へ紹介したのは、私です。……十四のときに」


 栞は、意味が分からなかった。


 紹介、という言葉が、頭の中でどこにも嵌まらなかった。栞が絵を描き始めたのは、母が「知り合いの紹介」だと言った小冊子の仕事からで、それは母が持ってきた話で、栞が自分で決めた一つ目のことだ。決めた、と栞は思っている。思っているものの端を、今、知らない人が持っていた。


「あの——」


「今日は、これで失礼します」柏木さんは頭を下げた。さっきと同じ角度だった。「よくお考えになったと思います。本当に」


 背を向けて、二歩歩いてから、振り返らずに言った。


「次にお会いするときは、あなたが決める前に止めます」


 栞は、動けなかった。


「溺れている人に、泳ぎたいか聞く人はいませんから」


 それだけ言って、柏木さんは通りを歩いていった。走りもせず、急ぎもせず、耳を裸にしたまま、人の間を普通に歩いて、角を曲がって見えなくなった。


 栞は、しばらくその角を見ていた。


---


 帰り道、栞はイヤーカフの案内を切った。切っても、道は分かった。


 あなたの中の声、と柏木さんは言った。


 外から名前をつけられたのは、初めてだった。中の、声。あの一拍のことを、栞はずっと、自分の一部の形の悪いところだと思ってきた。悪いところに名前がつくと、輪郭が出る。輪郭が出ると、隣に何が並ぶのかが見えてしまう。


 夢だと思っていたものが三つ、並んだ。


 炎の色をした通りと、日付の入った幕。人の背中と、その向こうの手。それから、空白の欄。三つとも、夜に来た。三つとも、目が覚めてからも消えなかった。だから紙に描いた。描いて、裏に三行書いた。書いたものを、誰にも見せたことがない。


 あれも、わたしから漏れたものかもしれない。


 そう思ったのが精一杯だった。三枚が何なのかも、なぜ来たのかも、どこから来たのかも、栞には分からない。分からないものを、分かったふりで畳んでおく方法は、もう使わないと決めた。決めたのは、たぶん今朝の十時半くらいだ。


 鞄の底で、スケッチブックの角が、歩くたびに背中に当たった。


 栞は、端末を出した。


 相沢くんへの文面を、囁きは組まなかった。組んでこないのは初めてで、だから栞は、自分で打つのに七分かかった。


【御堂です。お渡ししたいものがあります。日野くんに、渡したいです】


 打ち直しは四回した。四回目に送った。


 返事は、二分で来た。場所が書いてあった。縁石ではなかった。


---


 駅の反対側の、古い歩道橋の下だった。栞が一度も連れて行かれたことのない場所で、それが答えだった。渡さないと決めたものは、渡されていない。


 三人いた。相沢くんと、白石さんと、日野くん。手袋の人はいなかった。


 日野くんが来ているとは思わなかった。


「来るとは、思いませんでした」


「渡す物は止めた」日野くんは言った。「受け取る物は、止めてない」


 声は昨日と同じ平らさだった。目は合わなかった。相沢くんが何か言いかけて、やめた。やめたのが分かる顔だった。


 栞は鞄を開けた。


 手のひらより少し大きい、表紙の角が丸くなった帳面。ゴムで留めてある。鉛筆の粉で、表紙の下の方が灰色になっている。


 差し出す相手を、栞は昨日のうちに決めていた。


「日野くんに」と栞は言った。


 三人の間の空気が、少しだけ動いた。


「……なんで、おれ」


「調べてください、って言ったのは、わたしなので」栞は帳面を両手で持ったまま言った。「調べる人は、あなたです」


「……中身は」


「絵が三枚です。それだけです」栞は、そこで一度、息を継いだ。「絵の裏に、三行ずつ書いてあります。日付と、場所と、見えたものを三つ」


 言ってしまってから、栞は自分の手が少し冷たくなっているのに気づいた。三行のことを、誰かに向かって声に出したのは初めてだった。


 日野くんは、栞の顔を見た。昨日から今日で、初めて目が合った。


 それから、受け取った。


 開かなかった。ゴムも外さなかった。そのまま鞄に入れて、口を閉めた。


「明日、読む」


「はい」


「今日は読まない」日野くんは鞄の紐を握り直した。「今日読んだら、たぶん、読み方を間違える」


 それ以上は言わなかった。栞も聞かなかった。


 白石さんが、栞の隣に立った。いつのまにか、と思うくらい静かな立ち方だった。


「わたしが、日付の側を見る」


「……日付」


「裏に、書いてあるって言った」白石さんは前髪の向こうから、栞ではなく、日野くんの鞄を見ていた。「日付なら、合ってるか合ってないか、外から確かめられる。絵は、わたしには分からない」


 栞は、返事の形を探した。探しているうちに、白石さんがゼリーの袋を一本、栞の手に押しつけた。それで終わりらしかった。


 相沢くんが端末を開いた。何かを短く打っている。打ち終わって、閉じた。


「記録、つけとく」


「……はい」


「意味は、まだ分かんない」相沢くんは言った。「分かんないやつも、書いとくことにしてる」


 柏木さん、と言いかけて、栞は口を閉じた。


 今日渡すと決めたのは三枚で、それは昨日のうちに決めたことだった。あの人のことは、まだ一つも自分の言葉になっていない。ならないものを先に置いたら、置いた先で、勝手に形がつく。


 ——今日は、言わない。


 昨日、三度飲み込んだときとは違った。飲み込んだのではなくて、置いた。


 それから、四人はそこで別れた。仲直りの言葉は誰も言わなかった。日野くんは先に行った。相沢くんは歩道橋の階段の下で一度だけ振り返って、何か言おうとして、結局「じゃあ」とだけ言った。


 栞は歩道橋の下から出て、日の当たる側へ歩いた。


 今日、二つのことをした。


 一つは、断ったこと。もう一つは、開いたこと。どちらも、先に来る言葉を使わずにやった。合っていたかどうかは分からない。分からないままでいい方法があるのだと、栞は今日初めて知った。確かめられる形にしておけば、分からないまま持って歩ける。


 角を曲がるとき、栞は改札の方角を、自分で選んだ。声は何も言わなかった。言わなかったのか、言ったのに聞かなかったのか、それも確かめようがない。確かめようがないことを、今日はそのまま置いておくことにした。


 背中に、何も当たらなかった。


(ep050 了)


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