席
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縁石に、先に人がいた。
約束は十時だった。湊が着いたのは九時半で、昨日より早く家を出たのは、昨日より早く着いておきたかったからだ。それでも、御堂さんの方が先だった。
昨日と同じ場所に、昨日と同じ座り方で座っていた。膝を揃えて、鞄を膝の上に載せて、背中をまっすぐにして。日陰は反対側の軒下にあるのに、そちらへは寄っていなかった。
「おはよ」と湊は言った。
御堂さんは立ち上がって、頭を下げた。声は出さなかった。出そうとした形が口のあたりに一度だけ残って、それから消えた。
湊は、二つ分あけて座った。あけるつもりはなかった。座ってから、あいたな、と思った。
九時五十分に宙が来た。炭酸の缶を何本か抱えていて、いつもなら着くなり一本ずつ配って回るのに、今日は自分の足元に並べただけだった。
その少し後に望が来て、いったん日陰に立ち、少し考えてから縁石の端に腰を下ろした。手袋は今日もしていた。
商店街の朝は、いつもどおりに動いていた。青果店の前で配送の台車が自分で向きを変え、隣の総菜屋の軒先で混雑予測の順番券の機械が、まだ誰も並んでいないのに一枚目を吐いた。誰も取りに行かなかった。紙は風で少し浮いて、それから機械の口に垂れたままになった。
雪は十時ちょうどに来た。来て、まっすぐに御堂さんの隣へ座った。昨日、座り直したのと同じ場所だった。ゼリーの袋を二本持っていて、一本を御堂さんの膝に置き、一本を自分で開けた。何も言わなかった。
透は、五分遅れて来た。
遅れて来る人ではない。
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透は鞄からクリアファイルを出して、縁石の上に置いた。中身は紙だった。端末ではなく、紙。昨日と同じで、今日も紙だった。
「先に、おれから」透は立ったままだった。「昨日の続きだ。決めることがある」
「座れば」と湊は言った。
透は少し黙ってから、いつもの場所に座った。座り方まで、いつもと同じだった。
「三つ言う」透は紙を一枚ずつ表に返した。「一。昨日の結果は変わらない。三つ配って、動いたのはCだけ。おれの作り方に穴があるなら、言ってくれ。昨日から今まで、誰も言ってない」
誰も言わなかった。
「二。栞に悪意はない。これはおれも同じ意見だ。ここは疑ってない。……悪意がないから、話し合いで止まらない。頼んで止まるものなら、昨日のうちに頼んでる」
三枚目の紙は、白紙だった。透は白紙のまま、それを一番上に置いた。
「三。だから、渡す物を止める。今日から、集まる場所と時間を栞に渡さない。次にどこへ行くかも、誰が何をやってるかも、渡さない。……渡さないっていうのは、輪の外にいてもらう、ってことだ」
御堂さんは動かなかった。膝の上のゼリーの袋にも、手をつけていなかった。
「いつまで」と湊は聞いた。
「分からない」
「分からないのに、決めるのか」
「分からないから、期限は書かない」透は白紙を指で押さえた。「書けないことを書かない。あの人から借りた作法だ」
あの人、が誰を指すかは、この場の全員が分かった。紙を持ち歩く人の作法だった。
「他の案も書いた」透はクリアファイルの奥から、もう一枚出した。細かい字で、上から順に線が引いてあった。「一。全員に嘘の予定を配って、本物を口頭だけにする。だめだ。口頭も、栞の耳がある場所では同じことになる。二。栞の前でだけ、決定を保留にする。だめだ。保留にしてる、って事実が渡る。三。栞に、こっちから全部先に話す。……だめだ。何が渡って何が渡らないかを、栞が決められない。決められないものを渡す係にするだけだ」
線は、全部の案に引いてあった。
「四つ目を、おれは書けなかった」
湊は、何か言おうとした。でも、と言いかけて、その先の形を探した。透の言っていることの、どこが違うのかは分かる気がした。分かる気がするだけで、それを言葉の順番にする方法が見つからない。探しているあいだに、透が次を言った。
「昨日、おれは謝った」透は続けた。「今も謝る。黙って試したのは、おれが悪い。それは変わらない。……その上で、切る。謝るのと切るのは、別の話だ」
湊は、御堂さんの方を見ないようにして、見た。見てから、見たことに意味がある気がして、目を戻した。
「切ったら」と湊は言った。「御堂さんは、一人であの声と一緒に居ることになる」
「なる」
「……いいのか、それで」
「よくない」透は即答した。「よくないけど、ここには六人いる。六人分の居場所と、六人分の弱いところがある」
透は白紙をどけて、その下の一枚を出した。それは湊も見たことのある紙だった。慧が持ってきた、書式の写しだ。欲しいものと、弱いところを、一人ずつ書く欄がある紙。
「これ、覚えてるだろ。一人ずつ書いて、関係から切り離す書式。書くのに要るのは、おれたちの中身だ。誰がどこにいて、誰が誰を庇うか。……分かってるのは、おれが栞に渡した場所と日時が、一度、向こうに届いたってことだけだ。どのくらいの頻度なのか、どこまで行くのか、渡した形のまま行くのかは、おれには確かめようがない」
「じゃあ」
「確かめようがないときは、いちばん悪い方で見積もる」透は湊を見なかった。「全部が、毎日、そのままの形で行ってる。そう思って組む。外れてたら、それでいい。外した分は、こっちが損するだけだ」
「……それは」
「一人でも埋まったら、戻ってこない」
蝉が、通りの向こうで鳴いていた。
「あのさ」と宙が言った。
声が明るかった。明るくしようとして明るくした声だった。
「これ、物語だと、あれだよ。裏切り者を輪に置いといたやつが、最後に一番おいしいとこ持ってくパターン。だから逆に安心っていうか、みどっちは味方の——」
宙は最後まで言った。
言い終わってから、宙の顔が止まった。誰も笑わなかった。笑わない時間が、思っていたより長く続いた。
「……ごめん」と宙は言った。「今の、なし。……なしにならないやつだ、これ」
誰も、なしにしていいとは言わなかった。宙は足元の缶を一本取って、開けずに、また置いた。
「僕は」と望が言った。「決める側には入りません」
誰も望に何かを求めてはいなかった。それでも望は、もう一度はっきり言った。
「入りません。ここへ来て、三日目なので。……ただ、席は立ちません」
言って、手袋の手を膝の上で組んだ。組んでから、動かなかった。
「雪」と透が言った。「あんたは」
雪は答えなかった。
答えないまま、御堂さんの隣から動かなかった。ゼリーを一口飲んで、袋を膝に戻して、それきりだった。
透は雪を三秒くらい見て、それから目を伏せた。
「……わかった」
御堂さんが、口を開いた。
開いて、閉じた。二度目も同じだった。何か、ちゃんと形になった言葉が、そこまで来ているように見えた。来ているのに、出てこなかった。出てこないものを、湊は初めて見た気がした。
「それに」と透が言った。「栞だって、離れた方が楽なんだよ。ここに座ってるあいだ中、自分が漏らしてるって思ってるんだぞ。おれなら耐えられない。あいつだって——」
湊の口が、先に動いた。
「……透は、人を、欄に入れるだろ。……いつも」
言ってから、聞こえた。
自分の声だと分かるのに、少しだけ遅れた。
透は、何も言い返さなかった。
紙を一枚ずつ揃えて、角を合わせて、クリアファイルに戻した。留め具の音がして、鞄の口の音がした。順番にした。そのあいだ、誰も何も言わなかった。
それから、透は立った。
立って、行った。振り返らなかった。
誰も追わなかった。
縁石が、一つ分あいた。あいたところに、日が当たっていた。
宙が半分だけ腰を浮かせて、それから座り直した。雪は動かなかった。望は膝の上で手を組んだままだった。
御堂さんが、三度目に口を開いた。
閉じた。
通りの向こうで、電器店の街頭ディスプレイが音を絞ったまま回っていた。夏の新曲の告知で、歌っているのは実在しない歌い手だった。誰も見ていなかった。
蝉が、鳴いていた。
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夜、慧から連絡が来た。
文面はいつもの硬い丁寧語だった。【本日、九条零から一枚届きました。宛先はわたしですが、そちらにも関わる内容ですので、写しを送ります。原本は紙です。写しには認証をつけました。本人は「照会ではない」と書いています。わたしの判断でも、これは照会ではありません】
湊は写しを開いた。罫のない白い紙だった。字は小さくて、真っ直ぐで、行の頭が全部揃っていた。
【報告。照会ではありません。
名簿の並び順を、別の角度から検算しています。目的は僕の再検証であって、あなたの依頼ではありません。
並びは、四つの基準の重なりで説明がつきます。上の三つは、決めた相手が分かりました。相手も、時期も、書式も残っています。
残る一つが古い。三つより下にあって、消されずに残っています。この一つだけ、決めた相手が見つかりません。
この層を作った主体を、僕は特定できていません。特定できていないことを、報告します。
九条零】
三度読んだ。三度目も分からなかった。
湊は慧に、【これ、急ぎの話ですか】とだけ返した。返事はすぐに来た。【分かりません。急ぎかどうかを判断するには、この一枚の外側が要ります。外側を、わたしはまだ持っていません】。それから少し間があって、もう一行来た。【そちらは、変わりありませんか】
湊は、返す言葉をしばらく探した。探して、【はい】と打った。打ってから、消して、また同じ二文字を打って、送った。
並び。基準。層。言葉はどれも知っているのに、繋げると意味が消えた。誰かが決めた順番の、いちばん下に、誰も決めていない一段がある——そう読める気がして、そう読んでいいのかが分からない。分からないものを分かったことにする書き方を、湊は持っていなかった。
分からないものは、棚に置く。前に、そう決めた。
湊は記録を開いて、書いた。
【並びの、いちばん下。誰も頼んでいない。=わからない】
【この人は、今日のことを知らない】
三行目を、書かなかった。書く形が、見つからなかった。
端末を閉じると、部屋が急に静かになった。窓の外で、隣の家の自動窓が湿度に合わせて自分で少し開いた。それだけの音がして、あとは何もなかった。
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【観察記録 ——相良慧】
八月五日。読み直し、四日目。父の発言が削除された学内会議の、出席簿の写しが出てきた。名前は残っている。発言の欄だけが、ない。
席を立つ、という記録の付け方について、考えています。出席簿は人を数えません。席を数えます。座っていた席は、その人が立った後も、しばらく席のままそこにある。空席と書くか、まだあの人の席と書くかで、次に書ける行が変わってしまう。
——わたしはまだ、どちらとも書けずにいます。
(ep049 了)




