正解の外
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誘いの文面は、囁きが組んだ。
昨夜、端末を持って迷っていたら、いつもの声が来た。声、と呼んでいいのかは分からない。耳で聞くのとは違う。考えの手前に、先に置かれている言葉。——明日、時間をもらえますか。話したいことが、あります。って、言った方がいいみたい。
栞はそのとおりに打って、送る前に、一度だけ指を止めた。この文面はわたしのだろうか。わたしが言いたかったことと、同じ形をしているだろうか。同じに見えた。同じに見える、ということしか、栞にはもう分からない。分からないまま、送ると決めたのは自分——のはずだった。はず、の部分を確かめる方法を、栞は十七年、持ったことがない。
朝、洗面所の鏡の前で、いつもの手順を踏んだ。髪を整える。制服ではない日の、正解の範囲の服を選ぶ。最後に、表情を確かめる。感じのいい、誰も困らせない顔。作っている、という自覚はもうない。作り方を覚えたのが早すぎて、素の顔の方を、しまった場所から出せなくなっているだけだ。
鏡のわたしは、今日も正解だった。
家を出るとき、母が「どちらへ?」と聞き、「友だちのところへ」と答えた。答えの前に、一拍。友だち、という言葉を使っていいのかを、誰かに確かめる一拍だった。確かめる先が自分なのか、自分でないのかは、いつものように分からなかった。母は「あら」とだけ言って、嬉しそうだった。娘に友だちの予定があることが、この家では小さな事件なのだ。
夏休みの朝の商店街は、シャッターの開く音で始まる。約束の縁石までは、歩いて二十分。
駅前の掲示板の前で、足が止まった。藁半紙が一枚、画鋲で留めてある。【取り立てが来たら、確認する順番】。読んだ覚えのない紙なのに、同じものを最近、別の場所でも見た。回覧板の隅。薬局のレジの横。紙が、増えている。誰かが困って、誰かが刷って、貼って回っている。
紙を見ると、先に組版を見てしまうのは、癖だった。字間が詰まりすぎている。手順の番号の頭が揃っていない。急いで刷った紙だ。急いで刷るだけの理由が、刷った人の側にあったのだ。頼まれてもいないのに、頭の中で一度、紙面を組み直した。余白をここに。番号をここに。組み終えてから、掲示板を離れた。
いい紙なのか、悪い紙なのかは、栞には分からなかった。分からないものが増えていく街を、栞は約束へ向かって歩いた。鞄の底で、スケッチブックの角が、歩くたびに小さく背中に当たった。
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縁石には、五人いた。
湊。透。雪。宙。それから、初めて見る、手袋の人。その人は少し離れた日陰に立っていて、会釈だけを寄越した。同席はするが、輪の中には入らない距離の取り方だった。誰も紹介をしなかった。紹介しないことに理由がありそうで、栞はいつもの癖で、聞かないことを選んだ。選んだのが自分か、囁きかは、考えないことにした。
「おはよ」と湊が言った。
「おはようございます」
一拍。いつもの一拍。誰も気に留めない、栞の呼吸の一部。
「みどっちも夏休みの宿題やった? 俺まだ白紙」と宙が言い、透が「誇るな」と言い、雪がゼリーの新しい銘柄を無言で一本、栞の隣の縁石に置いた。いつもの並びだった。栞は、隣に置かれたゼリーを受け取っていいのか、一拍だけ迷ってから、膝の上に載せた。冷たさが、布越しに脚へ届いた。
この数週間、湊は栞に、予定の細かいところを話さなくなった。用事、とだけ言う。前は曜日と場所まで言った。減った分の会話を、栞は正確に覚えている。覚えていて、二つの気持ちが同時にあることも分かっている。寂しい、が一つ。もう一つは、説明のつかない安心だった。話してもらえないと、囁きが組む返事も減る。減った分だけ、わたしの返事の割合が増える——気がする。気がする、止まりの算数を、栞は誰にも言ったことがない。
「それで」と栞は切り出した。「今日は、聞きたいことがあって、来ました」
言った方がいいみたい、の声は、今朝は静かだった。静かなときの言葉が自分のものなのかどうかも、本当は分からない。それでも言った。
「わたし、何か、間違えましたか」
聞いてから、気づいた。五人の誰も、驚いていない。目配せもしない。準備してきた話が、向こうの側にもあるのだ。それが分かる程度には、栞は人の間を読んで生きてきた。読めるのに、今日はその先が読めなかった。
湊の顔が動いた。違う、と言いかけた形だった。その前に、透が動いた。
透は鞄から、封筒を三つ出した。封がしてあって、封の上から日付と時刻が書いてある。
「先に、おれから話す」透の声は平らだった。「先々週、緊急のときの予備の集合場所を決めた。三カ所。全部、本当に使える場所だ。湊にA、雪にB、栞にC。場所と一緒に、下見の日時も一人ずつ別に伝えた。この日のこの時刻に、使えるかどうかおれが確かめに行く、って。——どの場所と、どの下見の日時を、誰に渡したか。その組み合わせは、配る前にこの紙へ書いて、封をした」
封筒が、縁石の上に並んだ。
「で、これが今週の記録」透は端末を開かず、印刷した紙を出した。「Cの場所に、栞に伝えた下見の日時にだけ、点検の作業車が入った。AとBの下見には、何も来てない。三つ配って、動いたのは一つ。栞にだけ話した、組み合わせの一つだ」
意味が、すぐには組み上がらなかった。
組み上がってからも、栞は動けなかった。身に覚えが、ない。Cの場所のことは、誰にも話していない。家族にも、友だちにも、誰にも。端末にも打っていない。書いてもいない。偶然、という言葉に掴まろうとして、栞は自分で手を離した。偶然が三つのうちの一つを、わたしに渡された一つだけを、日時まで揃えて選ぶ確率を、栞は暗算できてしまう。できてしまう頭が、今日ほど嫌になったことはなかった。
話していないのに——
思い当たって、しまった。
わたしの中には、聞いている側がいる。
返事の前の一拍。考えの手前に置かれる言葉。あれは、こちらへ何かを渡してくる側だとばかり思っていた。渡してくる者は、受け取ってもいるのではないか。わたしが聞いたことを。わたしが見たことを。わたしに話された、集合場所の住所を。
証拠は、何もない。仕組みも、何も分からない。それなのに、十七年分の一拍が、全部、裏返って見えた。
「……言っとくけど」透が続けた。「嘘は、ついてない。三カ所とも本物だし、今も使える。けど、試した。黙って、おまえを試した。それは謝る。悪かった」透は頭を下げなかった。代わりに、封筒の隣にもう一枚、紙を置いた。「試したことも、この紙に書いて、残す。検証したから許される、とは思ってない」
謝られている、と栞は思った。思ったまま、返事の形が見つからなかった。
口が、開いた。
言葉が、来ていた。いつもの速さで、いつもの正確さで。——わたしは何も知りません。心当たりがありません。何かの間違いだと思います。調べていただいて構いません。……最も損失の少ない、綺麗な説明。声はもう喉の形まで来ていて、あとは音にするだけだった。
栞は、音にしなかった。
音にしなかったのは、たぶん、生まれて初めてだった。
「——今のは」
自分の声が、震えているのが分かった。震えた声を人前に出すのも、初めてだった。
「今、言いかけたのは、わたしの言葉じゃないんです。……ずっと、そうでした。ずっと——どれがわたしの言葉だったのか、わからなくて」
誰も、何も言わなかった。
宙が口を開きかけて、閉じた。開きかけた形は、たぶん冗談だった。冗談で薄めていい場面かどうかを、宙なりに測って、やめたのだ。やめてくれたことと、言いかけてくれたことの、両方がありがたかった。
蝉の声だけが、通りの向こうで続いていた。栞は俯いて、自分の膝を見ていた。正解の座り方をした、自分の膝を。顔を上げられなかった。上げたときに作ってしまう表情が、また「正解の微笑」になるのが、分かっていたからだ。
隣で、音がした。
雪が、立ち上がって、座り直した音だった。さっきまで湊の隣にいた雪が、栞の隣に、ゼリーの袋を持ったまま座り直していた。何も言わなかった。何も聞かなかった。ただ、隣の縁石が、埋まった。
距離が、返事だった。
栞は、顔を上げないまま、もう一つだけ言った。これだけは、来ている言葉ではなく、探して、見つからなくて、それでも言う言葉だった。
「……調べて、ください。わたしを。わたしの中の、聞いている側を。——わたしには、わたしを確かめる方法が、ないので」
返事は、なかった。ただ、誰も目をそらさなかった。宙が一度だけ、小さく頷いた。日陰の手袋の人は、動かないまま、こちらを見ていた。動かないことが、あの人の作法らしかった。
囁きは、静かだった。この場の最適解を、あの声は組んでこなかった。組めないのか、組まないのか、それは分からないままだった。栞は、膝の上のゼリーの冷たさを、両手で確かめた。
「明日も、来てくれ」
湊が言った。それが今日の、湊の全部らしかった。責める言葉も、確かめる言葉も、その先の話も、今日は置かないと決めた顔だった。
透は、端末を閉じたまま、何も言わなかった。閉じた端末の上に手を置いて、通りの向こうを見ていた。
蝉が、鳴き続けていた。
(ep048 了)




