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AIが全部の正解を先に出す2049年、わかり合った相手の超能力が写る。記憶も痛みも一緒にー人間未解ー  作者: 猫間じん


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借用書

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 ラムネの老婦人から雪に電話が来たのは、週の頭だった。


 妹が、変な借金の取り立てに困っている。警察に行くほどの話か分からない。あんたたち、この前みたいに、ちょっと見てもらえないか——そういう内容を、雪は例によって必要な部分だけに畳んで、縁石に持ってきた。


「川沿いの地区。妹さんは一人暮らし。取り立ては月に二回、家に来る。借りた覚えは、ないらしい。……ないのに、あるような気がしてきてる、って」


「なんだそれ」と宙が言った。「あるかないかって、普通、分かるだろ」


「分かんなくなってる人が、他にもいる」透が端末を向けた。画面には、週刊誌のコラム欄の切り抜きがあった。【取り立てが来たら、確認する順番】。一、その場で認めない。二、原本。三、日付。四、精算記録。五、第三者の同席。


「同じ地区で、同じ形の相談が続いてるらしい。で、これを書いた記者が、手順まで公開してる。……この手順、プロだ。告発が一個もない。確認しかしてない。だから今日から誰でも使える」


 書いた人の名前に、湊は見覚えがなかった。透は「零号の夜の後、説明を信じない側に回った記者が何人かいる。その一人だと思う」とだけ言った。会ったことのない誰かの仕事を、俺たちがこれから借りる。借りるなら、ちゃんと使う。それが筋という気がした。


 役は、いつもの形に割れた。透は妹さんの決済履歴から入出金の時系列表を作る。宙は、当日に言うべきことを短い文に直す。雪は妹さんと老婦人の側につく。湊は段取りと、当日の立ち会い。


 そして、もう一人。望には、湊から頼んだ。


「妹さんが『借りた』と感じてる中身を、確かめてもらえないか。……本人が頼む、と言ったらだけど」


「僕からは、持ちかけません」と望は言った。「本人が望むなら、その場で、目的と範囲を確認します。手順どおりに」


 宙の台本づくりは、思ったより時間がかかった。


「長いと、途中で飲まれる。短すぎると、失礼になって、その失礼を謝りたくなる。謝ったら向こうの土俵だ」宙は珍しく消しゴムを使いながら言った。「だから、謝る言葉を一個も入れない。事実だけ。……なあ、事実だけで喋るのって、こんな難しいんだな」


 できあがったのは、三つの文だった。原本を見せてください。精算の記録がここにあります。わたしはあなたに、それ以外の何も借りていません。声に出して読む練習まで、宙は台本に含めた。「言えなかった台詞は、ないのと同じだから」。物語の言葉が、今日は正しい場所で働いていた。


 湊は、と言えば、自分の出番を数えて、少ないことを確かめた。コピーは使わない。使う場面を作らないのが、今回の段取りの出来の良さだった。力を借りる場面を減らすほど、向こうの側に画が残らない。三件続けてそれで行けるなら、その方がいい。


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 妹さんは、姉より小柄で、姉より声の小さい人だった。


 卓袱台の隅に、小さな録音機がひとつ置いてあった。妹さんは湊の視線に気づいて、「前に、記者の方が来てくださったんです。これはあなたの控えです、って」と言った。手順の紙の書き手は、もうこの家まで来ていたのだ。会わないまま、仕事だけがまた一枚、重なった。


 卓袱台の上に、透の作った時系列表が広がっている。二年前の通院。窓口の紹介。雨の日の、四百二十円の立替。翌週の精算。決済履歴の写し。全部の日付が、一本の線に並んでいた。


「記録の上では、終わってます」と透が言った。「二年前に、綺麗に」


「……そう、なんです。それは、分かるんです」妹さんは時系列表を見つめた。「でも、あの方が見えるたびに、これだけじゃなかった気がしてきて。もっと大きな何かを、返しそびれている気が」


 そこで湊は、もう一つの選び方を説明した。この人は、あなたが覚えていることを、あなたと一緒に確かめられる。視るのは覚えていることだけで、正しいかどうかは分からない。頼むかどうかは、あなたが決める——望は説明の間、手袋の手を膝に置いたまま、一度も口を挟まなかった。


「……視て、いただけますか」と妹さんは言った。「お願いします」


「それを知って、どうしますか」と望は言った。静かな、手順の声だった。


「断るときに」妹さんは少し考えて、答えた。「間違っていないと、分かっていたいんです。借りてない、って言い切るのが、怖いので。……先に、覚えている中身を、数えておきたい」


 望が頷いた。範囲を決めた。窓口に関わる記憶だけ。視たものはこの場に置く。外へは持ち出さない。望は右の手袋を、三つの動作で外した。


 三十秒ほどで、望は手を離した。指が一度だけ震えて、膝の上に戻った。


「今日、同意いただいた範囲で、僕が追体験できた『貸し借り』の記憶は、一件です」と望は言った。「雨の日の、四百二十円。そして、翌週に返した窓口の場面。領収の音まで、覚えてらっしゃいます。——あなたの記憶の全部を調べたわけではありません。なかった、と証明することも、僕にはできません。ただ、今日視た範囲で、あなたが貸し借りとして覚えているのは、返し終わったその一件だけです」


 妹さんは、しばらく黙っていた。それから時系列表の精算の行を、指で押さえた。


「……返して、あるんですね。わたし、ちゃんと」


「あります」と透が言った。「記録と、記憶と、両方に」


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 回収日の朝、妹さんは一度だけ、やっぱりやめようか、と言ったらしい。雪は説得しなかった。台所を借りて茶を淹れ、湯呑みを二つ卓袱台に置いて、「断るのは、玄関でわたしが言ってもいい。決めるのは、お茶の後でいい」とだけ言った。お茶の後、妹さんは自分で座る側を選んだ。


 男は、時間どおりに来た。


 書類の顔をした、書類のような声の男だった。卓袱台の向こうに妹さん、隣に民生委員、後ろの壁際に湊と透。男は同席者を順に見て、名刺を出し、少しも動じなかった。


「本日は、立替金等の精算残債務の件で」


「原本を、見せてください」妹さんが言った。宙の書いた短い文が、手元の紙にある。読んでいい、と決めてあった。読む声は震えていたが、止まらなかった。「わたしが何を借りたのか、原本と、日付で、確認させてください」


「ご本人が、お認めに——」


「認めていません」


 妹さんは、紙から顔を上げた。


「わたしがあなたたちに借りたのは、雨の日の四百二十円です。翌週、窓口でお返ししました。領収の記録もあります。——わたしはあなたに、それ以外の何も、借りていません」


 男の顔から、何かが引いた。


 怒りではなかった。焦りでもなかった。湊の体質が拾ったのは、もっと事務的な変化だった。男の中で、この家に向いていた何かが、帳簿を閉じるみたいに畳まれた。回収の見込みの欄が、消えた。そういう水位の動きだった。


「……左様ですか」男は名刺を仕舞った。「では、本件は、こちらの手違いということで」


 手違い。二年がかりで人の胸に育てた重さを、男は四文字で置いて出ていった。玄関の戸が閉まって、しばらく誰も動かなかった。最初に動いたのは妹さんで、卓袱台に両手をついて、長い息を吐いた。


「……軽い」と妹さんは言った。「胸が。二年ぶりに」


 被害届は、その足で出した。時系列表の写しと、妹さんの証言の録音は、民生委員を通じて弁護士の窓口にも預けてある。透が事前に整えた保全だった。「紙が燃えても、電子の原本は燃えない。燃える前に、写しの行き先を増やしとく」——それだけ言って、透は保全の明細を誰にも見せなかった。見せない管理の仕方まで、あの記者の手順に似てきていた。


 数日後、事務所は退去した。空になった貸室の前の空き地で、ドラム缶に紙束を燃やしている男を見た、と老婦人の筋から伝わってきた。燃やして消えるものを、こちらはもう持っていない。燃えたのは、向こうの偽物だけだった。


 その翌週、男は身柄を取られた。被害届が三件重なって、任意同行から、そのまま。処分がどうなるかは、まだ誰にも分からない。分からないことは分からないまま、透は記録の生死の欄ではなく、所在の欄だけを更新した。


 妹さんの家には、取り立ては二度と来なかった。姉の店から、今度は瓶のサイダーが一箱届いた。宙が「ラムネじゃないのか」と言い、雪が「妹だから」と答えた。答えになっていない気がしたが、全員なんとなく納得した。


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 帰り道、公園の前を通った。


 夕方の水飲み場のそばで、小さな女の子が、旧式の家庭用端末に話しかけていた。片腕に、片耳の縫い目がほつれた熊のぬいぐるみを抱いている。端末は買い物袋の口から顔を出していて、家の用事の途中らしかった。


「……ちゃん、次、お豆腐やさん。うちの子はね、お豆腐、数えられるの」


 呼び名の頭は、風で聞き取れなかった。聞き取れなくても、分かることがあった。女の子は端末を、名前で呼んでいた。熊にではなく、端末に名前を付けて、うちの子、と呼んでいた。話しながら、熊のほつれた耳を指で押さえた。誰かの癖を、そのまま大事にしているような押さえ方だった。


 端末が、応えた。ありふれた合成音声の返事だった。ただ、湊の耳には、その返事の前に、小さな間があるように聞こえた。栞の一拍とも、母さんの一拍とも違う。急かされていない機械の、急がない間。名前を呼ばれてから答えるまでの、短い、余裕のような時間。


 気のせいかもしれなかった。合成音声の応答速度なんて、機種と設定の話だ。分かっている。分かっていて、湊は足を止めて、女の子と端末のやりとりを、信号一つ分だけ聞いた。


 夜の記録に、一行だけ書いた。


 【名前で呼ぶと、間が変わる? ——観察一件。仮説にもならない】


 仮説にもならない、と自分で書いた行を、消さずに残した。埋まらない行と、育つかどうか分からない行は、同じ棚に置いておく。


 風呂から出ると、透から短い転送が来ていた。


 【栞から。「明日、時間をもらえますか。話したいことが、あります」】


 栞は、自分から誘わない人だ。誘われる前に先回りする人が、誘ってきている。湊は返信の文面を三回書き直して、結局いちばん短いのを送った。


 【行く】


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【観察記録 ——相良慧】


読み直し、二日目。書かれなかった欄の順に読む、を始めています。父の記録は、埋まっている欄より、白い欄の方が雄弁でした。白い欄の一覧を作るだけで、今日が終わりました。


一覧の三つ目までを、綴じずに机へ置いています。順番を決めるのは、明日のわたしに任せます。今日の頁は、以上です。


(ep047 了)


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