順番の象
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六時十二分。夜のあいだに細かい家事は尽きて、凪は居間の椅子で朝を待っていた。
夜勤明けの翌日でも、体のどこかはまだ病棟の時間で動いている。廊下を歩く速さの心拍。点滴の残量を目で測る癖。それらが日常の速さに戻るまで、だいたい半日かかる。今日は、その半日を動物園で使う予定だった。
湯を沸かしに台所へ立つと、陽太がもう起きていた。
テーブルの上に、リュックの中身が几帳面に並んでいる。水筒。タオル。ばんそうこう。動物の図鑑の、象の頁に付箋。並べ終えた陽太は、椅子に座って、両手を膝に置いて待っていた。
「……手伝うのに。呼んでよ」
「おかあさん、休みの日は、ゆっくりする係」陽太は真面目な顔で言った。「休めるときに休むのがいいって、いつも言ってる」
言っている。確かに、いつも言っている。六歳の記憶力は、こちらの都合のいいところだけを忘れてくれない。
朝ごはんは、二人で座って食べた。座って食べるのは、久しぶりだった気がする。病棟では立ったまま済ませるし、家でも、洗濯機と冷蔵庫の間で何かをつまんでいるうちに食事が終わっていることが多い。今日は、座った。陽太が味噌汁の豆腐を数えて、「三つある。おかあさんのは?」と聞いた。三つあった。同じで、陽太は満足そうだった。
出がけに洗濯機を回した。帰って干せば、夜のうちに乾く。休みの日の家事は、こういう置き方をする。玄関で陽太は自分で靴を履き、履いてから「ばんそうこう、持った」と申告した。持ち物の点呼は、いつからか陽太の係になっている。
バス停までの道は、手をつないだ。信号で止まるたび、陽太は「順番」と言った。車の順番、歩く人の順番。世界の待ち時間を、この子は全部順番で数える。
八時四十分のバスに乗った。窓側は陽太。これは順番ではなく、固定の席だ。
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動物園の入口で、端末が混雑予測の順番券を配っていた。象の放飼場は、今日いちばんの混雑予想。入場のときに引いた券には【象・十時二十分の回・待ち時間目安三十分】と出た。
「三十分、待つよ」と陽太は言った。聞かれる前に言った。「順番だから」
順番だから。陽太の言葉の中で、いちばん出番の多いやつだ。保育園の滑り台で覚えてきて、それからずっと使っている。誰に教わったのかは知らない。教わったところを見たことがないのに、いつの間にか身についているものが、子どもにはたくさんある。
列は、日なたと日陰を縫って折り返していた。凪は列の先を目で測った。三十分は、たぶん正確だ。こういう予測は最近、外れない。外れないことに慣れると、待つことの中身が変わる。昔の三十分はいつ終わるか分からない三十分で、今の三十分は、終わりの見えている三十分だ。どちらが楽かは、案外分からない。
前に並んだ家族の、下の子の靴が脱げかけていた。かかとが半分出ている。声をかけるかどうか迷っているうちに、その子の親が気づいて直した。凪は自分の目が、休みの日でも人の足元と顔色を拾ってしまうのを知っている。職業の目は、着替えても脱げない。
列が進んで、止まった。進んで、止まった。
十分を過ぎたあたりで、日なたの暖かさが効いてきた。眠くはならない。眠くならない体でも、暖かさで注意の輪は狭くなる。陽太の頭のつむじだけを見ている時間が、いつの間にか続いていた——
「おかあさん」
陽太の声で、輪が元の広さに戻った。陽太はこちらを見上げて、それから列の先を指差した。寝かけている、と思われたらしい。
「寝ていいよ。順番、おかあさんの分も見とく」
「……ありがと。でも立って寝ると、転ぶから」
「じゃあ、転ばないくらい寝て」
難しい注文だった。難しい注文をされたのが、なんだかおかしくて、それで足りた。
象は、大きかった。
図鑑で毎晩見ているはずの陽太が、柵の前で完全に止まった。止まって、しばらく何も言わなかった。象は水場のそばで耳を動かして、鼻で自分の背中に砂をかけていた。飼育員の説明放送が、象の名前と年齢を言った。陽太は聞いていなかった。見る方に全部使っていた。
「……におい、する」やっと出てきた感想が、それだった。
「するね」
「テレビは、しない」
「しないね」
匂いのする方が本物、という基準を、陽太はたぶん今日覚えた。覚えたことは、図鑑の付箋のところに帰ったら書き足すのだろう。あの図鑑の余白は、陽太の字で少しずつ埋まっていっている。
「ねえ、象の鼻って、なんで長いの」
柵を離れてから、陽太が聞いた。
「……なんでだろうね」
看護学校で習わなかったことは、だいたい答えられない。陽太は少し考えて、「じゃあ、図鑑」と言った。端末に聞けば三秒で答えの出る問いを、この子は紙の図鑑まで取っておく。取っておいた問いの分だけ、夜の図鑑の時間が長くなる。それでいいと思っている。
キリンの前で、場内放送が迷子を告げた。青いシャツの男の子。凪の目が反射で周囲を掃いて、青いシャツを二人数えたところで、放送が「保護者の方と会えました」と言い直した。肩から力が抜ける。職業の耳も、着替えても脱げない。隣で陽太が「見つかったって」と訳してくれた。
昼は、売店の隣のベンチで食べた。持ってきたおにぎりと、売店で買った揚げ物がひとつ。陽太が「はんぶんこ」と言うので半分にしたら、大きい方をこちらへ寄越した。病院の売店のパンより、ずっとおいしかった。座って、噛んで、飲み込む。それだけのことを、今日は最初から最後まで座ってやった。
食後に、ソーダ味の氷菓をひとつ買って半分にした。はんぶんこの精度は、陽太の方が高い。食べ終わった陽太の舌が青くなっていて、見せてくるので見たら、思ったより青くて、二人で少し笑った。
午後、小さい動物の館を回った。陽太はモルモットの列にも「順番だから」と並び、膝に載せたモルモットの重さに、息を止めるみたいにして耐えていた。降ろすときに「重かった」と言った。誇らしそうだった。
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三時前、日陰のベンチで陽太の電池が切れかけた。まぶたが下りてきて、本人だけが気づいていない。
「五分、寝な。荷物と順番は、見といてあげる」
「……おひるね、するの、ぼく?」陽太は不服そうだった。いつか、おかあさんの仕事にはおひるねがあってずるい、と言った子だ。「おかあさんが、寝れば」
「今日はあんたの番。順番だから」
順番だから、を借りると、陽太は弱い。五分と言って、七分寝た。七分のあいだ、凪はベンチの背に腕を伸ばして、寝顔と、通っていく家族連れと、遠くの象の方角を、順番に見て過ごした。何も起きない時間を、起きないまま見ている。それが今日の、いちばん贅沢な仕事だった。
陽太が起きた頃、端末が短く鳴った。
病棟の同僚からだった。業務ではなく、雑談の便り。【昨日の崩れかけたビルの件、結局うちには一人も来ませんでした。あと、先週の忘れ物、ロッカーに入れてあります】。報せと忘れ物が同じ行に並ぶ、同僚らしい文面だった。
一人も、来なかった。
崩れかけた建物があって、そこから誰も運ばれてこない。病院の中では、それがいちばん良い報せの形をしている。何が起きて、誰が何をしたのかは知らない。知らないままでいい報せというものが、世の中には少しだけある。
凪は【よかった。忘れ物ありがとう】とだけ返して、端末を仕舞った。
「だれ?」
「病院の人。いいことがあったって」
「ふうん」陽太は麦茶を両手で持ったまま、象の方角を見た。「もっかい、見にいく?」
「行こうか」
二回目の象は、券が要らなかった。夕方の放飼場は空いていて、象は日陰で尻尾を振っていた。陽太は柵に顎を載せて、長いこと見ていた。朝の回で言えなかったことを、今度はぽつぽつ言った。耳が動くこと。まつ毛が長いこと。足の裏が丸いこと。観察の報告を、凪は全部「ほんとだ」で受けた。全部、ほんとだった。長いこと見るだけの時間が、今日はあった。
出口の手前の売店で、陽太は象のシールを一枚選んだ。図鑑の付箋の頁に貼る分だという。それから棚の前でしばらく迷って、絵はがきを一枚足した。
「これは、おかあさんの」
「わたしの?」
「冷蔵庫に貼るやつ。うち、動物いないから」
冷蔵庫に象が一頭増えることが決まった。会計のとき、陽太は背伸びして自分で端末に読み取らせ、決済音が鳴ると満足そうに頷いた。買い物の順番も、いつの間にか覚えている。
閉園前の音楽が流れ始めた園内を、ゆっくり歩いて出た。門のところで陽太が一度振り返り、「また来る」と宣言した。予定は聞かれなかった。宣言だけが置かれた。それでいいと思った。
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帰りのバスは、座れた。
窓側に座った陽太は、三つ目の停留所までは象の話をしていて、四つ目で言葉が減って、五つ目で凪の腕に頭を預けて眠った。
眠った子どもは、重くなる。起きているときより、確かに重い。腕にかかるその重さを、凪は測るともなく測った。夜勤の朝、仮眠室から出るときの体の重さとも、点滴の袋の重さとも違う。生きて、遊んで、使い切って眠った子どもの重さだ。
今日は、いい重さだった。
バスの自動アナウンスが、次の停留所を告げた。降りるまで、あと四つ。帰ったら洗濯物を干して、風呂を沸かして、図鑑の時間になる。象の頁が、今夜は長い。
凪は窓の外の夕方を見ながら、その四つ分を、ゆっくり使うことにした。
(ep045 了)




