積み荷
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【観察記録 ——相良慧】
日曜。晴れ。移動なし。
白い欄から始める仕事の、最初の行を書きました。読み直しの手順です。一行目、原本と写しを分ける。二行目、書かれた順ではなく、書かれなかった欄の順に読む。三行目が、まだありません。三行目には、読み終えたあとのわたしの置き場所を書くつもりでいます。置き場所は、読み終える前に決めるものではない気もしています。
今日は、話す仕事が先です。順番は、決めてあります。
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日曜の図書館は、開館と同時に人が入る。望が取っておいてくれた会議室は、その流れから壁を一枚挟んだ、いちばん奥の部屋だった。
望の「避難」は、今日で終わりだった。雪の組んだ鍵の受け渡しが逆の順でほどかれて、誰の名前も出ない部屋は、また誰の名前も出ない部屋に戻った。数日ぶりに自分の鍵を持った望は、それを机の端に置き、置いた位置を一度だけ直した。
「では、始めます」と慧が言った。「長くはしません。今日は、皆さんの頭の中の地図と、わたしの地図の、ずれている場所だけを合わせます。ずれは、三つ見つけてあります」
紙が三枚、机に並んだ。画面ではなく、紙。この人はいつもそうだ。
「一つ目。あの人の『保留』についてです」
「あー、それな」宙が身を乗り出した。「結局あの銀髪、仲間になったってことだろ? ラスボスが味方になる回、俺、嫌いじゃない」
「違います」
慧の返事は、一拍もなかった。
「保留は、終わりでも和解でもありません。再検証が成立するまでの、停止です。再開の条件は日付ではなく検証で、それを決めるのは向こうです。わたしたちにも、同じ条件で決める権利があります。それだけの取り決めです」
「僕も、対象に含まれています」と望が言った。手袋の指を組んだまま、事務の声だった。「外れた、とは、あの紙のどこにも書いていないので」
「ええ……」宙の声が小さくなって、小さくなった自分の声に、宙は黙った。
湊も、黙っていた。保留、という言葉を、どこかで安全と読み替えていたのは、宙だけじゃない。俺もだ。停まっている車と、停めてある車は違う。違う、という言い方で合っているのかは分からないが、たぶんそういうことだった。
「二つ目。回収の、やり方についてです」
「黒いバンで夜に来るやつだろ」と宙。「映画で見た」
「記録の上では、逆です」慧は二枚目の紙を向けた。「一人ずつ、欲しいものと弱いところを記録して、本人が選んだ形で、関係から切り離す。書式があります。夜のバンより、静かで、たぶん、ずっと効きます」
湊は自分の記録の一行を思い出した。【一人ずつ、欲しいものと引き換えに(書式がある)】。
「……合ってた、のか。俺の」
「合っていました」慧は頷いた。「うれしくない一致ですが、一致は一致です。あなたの三行は、わたしの三枚と、ほとんど同じことを言っています」
「三つ目は」慧はそこで、三枚目の紙を裏返したまま、少しのあいだ手を置いた。「わたしの間違いです」
誰も口を挟まなかった。
「わたしのノートは、観測の記録でした。それは今も正しい。ただ、同時に——あの人がリストの順番を選ぶ材料に、なっていました。わたしは記録を、読まれない前提で書いていました。読まれない記録は、ありません。今日から、控えの綴じ方と置き場所を変えます。訂正は、以上です」
訂正した欄は、自分の欄。雪が何も言わずに、机の上の三枚目を、表に返した。表には、新しい綴じ方の目次だけが書いてあった。誰も感想を言わなかったことが、たぶんいちばん正しい返事だった。
間違いを自分の欄に書ける人の順番で、共有は終わった。時計を見ると、始めてから二十分しか経っていなかった。
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窓が、鳴った。
音は一拍遅れて来た。鈍い、床から腹に上がってくる音。会議室の窓の外、二筋向こうで、灰色の粉が薄く立ち上がっていた。
最初に立ったのは、雪だった。
現場は、解体準備中の空きビルだった。足場と防塵幕で囲われた三階建ての、角の一画だけが、内側へ畳まれるみたいに潰れている。潰れた側の足場の三階に、作業員が二人、取り残されていた。梯子段が崩落側で、降り口がない。
自動警報が鳴っていた。「立ち入りをお控えください。現在、安全確認中です」崩れたあとも、同じ文を等間隔で繰り返す。安全確認中、の声だけが現場でいちばん落ち着いていて、いちばん役に立っていなかった。
望は走らなかった。走らない代わりに、図書館へ取って返して、職員の腕章をつけて出てきた。勤め先の名前は、こういうとき人を動かす。「図書館です。こちらの歩道へ。館内で待てます」丁寧語のまま、規制線の代わりになっていた。慧は野次馬の外周に立って、紙に短く書きつけていた。観測に来た人の立ち方は、こういうときも変わらないらしかった。
役は、決めなくても回った。
宙が野次馬の前に立って、声を通した。「下がって! 撮るなら下がって撮れ、そこ、順番!」怒鳴っているのに、人が動く順番だけは整っていた。透は端末を出して、時刻、崩れた位置、逃げた作業員の証言を、短い行で刻んでいく。雪は、地上へ滑り降りて足を挫いた一人のそばに膝をついて、触る前に「触るよ」と言った。触ってから、靴紐を解かずに足首ごと固定して、隣で腰を浮かせた同僚に「立たせない。運ぶなら板」とだけ言った。それから潰れた角を一度見上げて、「この幕の内側、まだ鳴ってる。全員、外へ」と言った。鳴ってる、が何の音かは聞き返されなかった。雪が言うなら鳴っているのだ、という顔で、作業員たちは幕の外へ下がった。
湊は、現場の年嵩の作業員をつかまえた。
「今日、中に何人入ってたか、数えられる人いますか。入場の記録でも、頭数でも」
「き、記録……朝礼が、六人」
「六人。外に四人、上に二人。——六人、合ってます。中は無人」
言いながら、自分の声が思ったより通ることに気づいた。数える仕事なら、できる。名づける仕事より、先に。
消防はドローンが先に着いた。旋回して、熱と人数を読んでいく。人が乗った車輛は四分遅れで着いて、湊は年嵩の人と一緒に、六人の名前と居場所を隊員へ渡した。足場の二人は梯子車で降ろされた。打撲と、骨折の疑いがひとつ。担架の上で片方が「悪い、心配かけた」と手を挙げ、野次馬から拍手が起きた。
拍手のいくらかは、応急の間じゅう膝をついていた雪にも飛んだ。年嵩の作業員が「姉ちゃん、手際よかったなあ。看護師さん?」と聞き、雪は「違う」とだけ答えて、困った角度の会釈をした。褒められたときの雪は、いつも受け取り方を知らない。知らないまま、受け取ってはいるらしいことが、耳の赤さで分かった。
死んだ人は、いない。
人が散り始めたとき、湊はそれに気づいた。
立ち去っていく水位の群れは、どれも似たような形をしている。冷めていく野次馬の熱。遅刻の焦り。よその不幸を見たあとの、うっすらした安堵。その中に一つだけ、違う形があった。熱くも焦ってもいない。畳んで、仕舞う形。仕事帰りの——いや、違う。仕事を、終えた形。
振り返ったときには、背中しか見えなかった。背中は角を曲がって、顔は最後まで見えなかった。
名づけられない違和感を、湊は名づけないまま、覚えておくことにした。
透は解散までずっと、潰れたビルを見上げていた。
「……同じ建物の柱なのに」帰り道、透は端末の写真を並べた。「潰れてる方と、潰れてない方の差が、説明つかない。解体工事の届出は公開だから、添付の図面を見てきた。同じ規格の柱だ。それが片方だけ、紙みたいに畳まれてる。——重さが、そこだけ違ったみたいだ」
「重さ、って」
「わかんね。だから、そう書いとく」透は【説明つかない差】とだけ打った。「わかんないことは、わかんないって書く。誰かさんの流儀」
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三日後の縁石は、いつもの並びだった。雪のゼリーが新しい銘柄になっていて、宙が「当たりか外れか」を聞き、雪が「普通」と答え、宙が「普通が一番情報量ねえんだよ」と嘆いた。その並びの真ん中で、透が端末を全員に向けた。
「二件目。昨日の夕方、川向こうの区画。空きビルの搬入口の庇が潰れた。けが人なし——で、ここからな」
画面には、公開記録の切り抜きが並んでいた。一件目のビルも、二件目のビルも、解体か立ち退きの交渉が長引いて、掲示板や近隣報道で揉めていた物件だった。潰れて困る人の反対側に、潰れてくれると話が早く進む人がいる。そういう並びだった。
「三日で二件。同じ壊れ方。揉めてる建物だけ」透は端末を伏せた。「事故じゃない。注文だ」
「注文って、誰の」と宙が言った。「黒幕? 組織? それとも——」
「わかんね。わかんないから、そこは書かない」透は画面を消したままにした。「書くのは、並びだけ。並びは嘘つかない」
「……警察に、言うか?」と湊は言った。言ってから、何をどう言うのかを考えて、続きが細くなった。潰れ方が変です、揉めてる建物ばかりです。それは向こうも数えられる並びだ。俺たちにしか数えられないものは、まだ何もない。
「言うなら、匿名の情報提供。並びの分だけ」透が先に整理した。「写しは作らない。集めて持ってたら、おれたちが揉め事の名簿屋になる。それは、やらない」
名簿、という言葉に、全員が一瞬だけ静かになった。名簿で人を訪ね歩いた人と、その順番を選んだ人のことを、この数日で知ったばかりだった。持ち方を間違えた紙がどうなるかも。
注文、という言葉の座りの悪さは、結局、誰も直せなかった。直せないまま、湊は夜の記録に二行書いた。
【潰れたのは二件とも、潰れると助かる人がいる建物】
【人混みに、仕事を終えた形の水位。顔は見ていない】
二行目を書くかどうかは、少し迷った。証拠にならないものを書くのは、記録を薄めるような気がしたからだ。迷って、書いた。埋まらない行を消さないのが、俺たちのやり方だ。
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【観察記録 ——続き】
夜。手順の三行目は、まだ書いていません。
代わりに、今日の共有の控えを、新しい綴じ方で綴じました。訂正が一箇所。訂正した欄は、わたしの欄でした。他人の記録を読み直す前に、自分の記録の読み直し方をひとつ覚えた、ということにしておきます。
今日の頁は、以上です。
(ep043 了)




