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AIが全部の正解を先に出す2049年、わかり合った相手の超能力が写る。記憶も痛みも一緒にー人間未解ー  作者: 猫間じん


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回収

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【観察記録 ——相良慧】


「理解」という語の定義について、書きかけて、消した文があります。


——理解とは、相手の欲求を、相手自身の言葉より先に言い当てられることである。


消した理由は二つ。第一に、検証方法がありません。第二に、これは理解の定義ではなく、傲慢の定義かもしれないからです。他人の内側を先回りして言い当てる行為が祝福になるのか暴力になるのか、わたしはまだ、区別の条件を書けずにいます。


たぶん、言い当てられた側の顔を見るまで、誰にも書けないのだと思います。


---


 三日目の駐車場には、先客がいた。


 いつもの縁石に透が座っている。それはいい。その透が、端末の画面をこちらに向けて掲げているのが、いつもと違った。


『予定 4/15 夕方、同じ場所(三日目)』


「……増えてきたな、予定」


「だろ」


 湊が隣に座ると、透は満足そうに端末を引っ込めて、ゼリーの封を切った。過去形だけだった記録に、未来の行が三つ増えている。それを毎晩眺めてから寝るのだと、透は昨日、聞いてもいないのに白状した。


「あと、これ。母さんが多めに持たせた」


 湊は紙包みを差し出した。コロッケが三つ。友達と食べな、とだけ言って、遥は中身も相手も聞かなかった。ここ数日、湊の弁当のおかずが少しずつ増えているのと、たぶん同じ現象だった。


「……あんたの母さん、おれのこと知らないだろ」


「知らないよ。でも、息子の牛乳の減りが早いことは知ってる」


 透は紙包みを両手で受け取って、しばらく黙っていた。それから「温かいうちに食う」と言って、本当にすぐ食べ始めた。誰かが自分のために温度を気にした食べ物は久しぶりなのだと、言わなくても、伝わってしまった。伝わってしまうのが、湊の体質だった。


 閉店後のコンビニの裏手は静かで、搬入口のシャッターに夕陽が鈍く映っていた。配達ドローンが頭上を二機、川の方へ流れていく。いつも通りの、誰にも数えられていない夕方だった。


「——日野透だな」


 声は、搬入口の陰から来た。


 透が、ゼリーを取り落とした。


 大きな男だった。黒の作業着。短髪に白いメッシュ状の傷痕。左手にだけ手袋をして、その左手を、なぜか体の後ろに置いている。男は出入口と、湊と、透の位置を順番に見て——怪我人を探すみたいな目つきだった——それから、手元の端末に視線を落とした。画面にちらりと、透の顔写真が見えた。


「誰……」透の声が掠れていた。「なんで、名前」


 湊は遅れて気づいた。透にとって、名前を呼ばれることそのものが異常事態なのだ。誰も彼を覚えていられない世界で、初対面の男が、名前から入ってきた。


「回収だ」男は言った。「痛くはしねえ。荷物があるなら持て」


---


 透は走った。


 当然そうなると分かっていた、という顔で、男は追った。体格差は残酷だった。裏路地二本目で追いつかれ、透は襟首を掴まれて壁際に押さえ込まれた。乱暴さはなかった。手慣れて、正確で、だからこそ怖かった。


「暴れんな。手続きだ」


「離せ……! あんた、どうせ九十秒でおれを忘れる! みんなそうだ! 忘れて、それで——」


「忘れねえよ」


 男は端末を掲げた。画面の中で、透の顔写真の横に、赤いマーカーが点滅している。


「俺は忘れる。だが記録は忘れねえからな。九十秒ごとに、こいつが俺に思い出させる。ガキどもを追う仕事ってのは、そういうふうにできてんだ」


 ガキ「ども」。


 その一文字に、湊の足が勝手に前へ出た。


「その人を離してください」


 男が振り向いた。今初めて湊を認識した、というより、今まで勘定に入れていなかったものが動いた、という目だった。


「関係ないガキは帰れ。こいつのことはどうせ——」


「日野透くん。十六歳。三日前にそこのコンビニで会って、昨日も一昨日も話しました。ゼリーばっかり飲むし、記録魔だし、別れ際の挨拶が長い。……ちゃんと覚えてます。九十秒どころか、三日間ずっと」


 男の動きが、止まった。


 端末を見る。湊を見る。もう一度、端末を見る。照合するものが何もないと気づいて、男はゆっくりと透から手を離した。


「……坊主、こいつを覚えてんのか。素で」


「素で、の意味は分かりませんけど。覚えてます」


「機材は。網膜表示か、耳の記録か」


「何も」


 男は長いこと湊を見ていた。それから、思い当たったように目を細めた。


「——坊主、あの氷の晩のガキか。矢印無視して前に出た」


 襟首を掴んで引き戻された感触が、蘇った。あの夜の目出し帽の一団。あの腕の力。目の前の男の、体の後ろに隠した左手。


 男が端末に指をかけた。報告、という動作だと、なぜか分かった。指は、画面の上で止まっていた。数秒。長い数秒だった。男は何も打たずに端末を下ろし、舌打ちをした。


「……ガキが二人とも、夜歩きしてんじゃねえ」


---


「逃げるぞ」


 湊が透の腕を引いた、その時だった。


「どこへだよ!」


 透が腕を振り払った。目の縁が赤かった。


「どこ行ったって同じだろ! 追う側は記録で覚えてる、匿ってくれる奴は九十秒で忘れる! おれを覚えてるのは機械と、追っかけてくる連中だけだ! ずっとそうだった、これからもそうだ、あんただって——」


 あんただって、いつか。


 言葉にならなかった続きが、言葉より先に、胸へ刺さった。


 忘れられるのが怖い。信じたいのに、信じたあとで失うのが怖い。先に突き放してしまえば傷つかずに済むのに、それでも透は、この場から完全には走り去れずにいる。


 矛盾した願いが、透の全部を引き裂いていた。中身は分からない。湊に感じ取れるのは、いつも水位だけだ。それでも、この水位の高さが指すものは、ひとつしか思いつかなかった。


「……透くんはさ」


 湊は、自分の声が震えているのに気づいた。


「見られたくないんじゃない。……覚えていてほしいんだろ。ずっと、誰かに」


 透の顔が、歪んだ。


 怒りの形に歪んで、それから、堪えるのに失敗した。十六歳の顔から順番に何かが剥がれ落ちて、最後に残ったのは、もっとずっと幼い、迷子の顔だった。透は何か言おうとして、言えなくて、ただ一度、頷いた。


 湊は、差し出された訳でもない透の手を、掴んだ。


 目の奥で、灯りが開いた。


 その瞬間、堤防が決壊した。


 透の十六年が流れ込んでくる。食卓で母親が浮かべた「知らない子」への愛想笑い。九十秒ずつ、無限にやり直される初対面。別れの挨拶を遺言みたいに言い切る癖がついた日。記録、記録、記録——存在の証明を自分ひとりで背負い続けた、途方もない夜の数。水位だけだったものに、初めて、中身があった。


 音が変わった。世界の輪郭が一枚ずれるような、静かな感覚だった。夕闇の路地で、湊は自分と透の周りだけ、空気の色が薄くなるのを見た——気がした。数メートル先で男がこちらを向いたまま、瞬きを増やし、それから、誰もいない路地を見る目になった。


 視線が、素通りしていく。


 湊は透の手を掴んだまま、壁際を静かに歩いた。男の真横を通った。男は気づかなかった。端末が透の位置を示して点滅し、男はそれを見て、顔を上げ、また端末を見た。記録と認識の間で、大男が立ち尽くしていた。


---


 二本先の路地で、限界が来た。


 湊は膝をついて、吐いた。


 夕食も昼食も全部戻して、それでも収まらなくて、胃の底から震えが込み上げてきた。寒い。腹の底が抜けたみたいに減っている。そして、それよりも——


「おい、ミナト!? 大丈夫か、なあ」


 流れ込んだものが、消えてくれなかった。


 透の九十秒が、まだ体の中にある。誰にも覚えられない朝の、歯磨きの味までする。湊は路地の壁に手をついて、声を殺すのに失敗した。


「……こんなの」


 涙が勝手に落ちた。


「こんなの、ずっと独りで背負ってたのかよ……っ」


 透は、立ち尽くしていた。


「な……んで、あんたが泣くんだよ」


「わかんない……ごめん、これ、たぶんすぐ止まる……」


「謝るなよ。余計わかんねえだろ」


 透はしゃがみ込んで、湊の背中を、慣れない手つきで叩いた。それから自分のバッグを漁って、最後の一本のゼリーを差し出した。


「……食え。腹減ってんだろ、それ」


 なんで分かるんだ、と聞く力もなくて、湊は受け取った。甘すぎる味が、今は少しだけありがたかった。


---


 通りへ戻る角で、透が湊の袖を引いた。


 搬入口の前に、あの男が立っていた。こちらには気づいていない。男は端末を耳に当てて、低い声で話していた。夜の静けさが、声を運んでくる。


「——こちら回収担当。対象は消失。……ああ、消失だ。以上」


 端末を切る。男はしばらく、誰もいない駐車場を眺めていた。それから、体の後ろの左手をようやく前に戻し、手袋の指先を一度だけ握り込んで、夜の方へ歩き去った。


 消失。報告は、それだけだった。湊が覚えていたことも、目の前で二人が消えたことも、あの男は言わなかった。


「……なあ、ミナト」


 透が小さく言った。


「今の、何した?」


「わかんない」


 湊は、自分の手のひらを見た。街灯の下で、指先がまだ薄く痺れていた。目の奥の灯りは、もう静かだ。けれど確かに、そこに、開いたままの扉がある。


「わかんないけど……たぶん俺、透くんの側に来た」


 透は何か言いかけて、口を閉じた。かわりに端末を出して、打ち込んで、画面をこちらに向けた。今日の日付の下に、新しい行が一つ。


『予定 明日、同じ場所。逃げ方を考える』


「……逃げるの、おれだけの問題じゃなくなった。あんた、あいつに顔を見られてる」


「うん」


「なのに、なんか、悪い気がしてない。おれ、最低かな」


「最低じゃないよ」


 湊は立ち上がって、膝の砂を払った。体の底はまだ薄ら寒くて、透の九十秒の残響は、胸の奥で小さく続いている。怖くないと言えば嘘になる。それでも、路地の出口へ歩き出す足は、思っていたより軽かった。


 帰り道、湊は夜空を見上げた。配達ドローンの航行灯が、星より低いところを流れていく。あの高さから見下ろしたら、今夜の自分たちはどう記録されているのだろう、と思った。


【観察記録 ——続き】


理解の定義を、まだ書けずにいます。


ただ、今日、書き加えた仮説がひとつ。理解が成立した瞬間、それは理解した側の中に、消えない重さを残すのではないか。相手の一部を引き受けるという形で。


だとすれば理解とは、知ることではなく、持つことです。


……論文には書けない文章ですね。今夜はここまでにします。


(ep004 了)


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