灰の帳簿
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【観察記録 ——相良慧】
観測者は、観測対象に何を負うのでしょう。
わたしは旅先で人の話を聞くたび、相手の人生に小さな足跡を残していきます。質問はただの音ではない。「あなたのことを調べている者がいる」という事実そのものが、相手の世界を少しだけ変えてしまう。観測は、無害ではありません。
それでもわたしは聞いて回る。説明の義務が、遠慮より重いと信じているからです。
——では、逆の仕事をする人間は、何を負うのでしょう。人の世界から、足跡を消して回る仕事をする人間は。
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篠田要の仕事は、いつも他人の「昨日」から始まる。
午前十時、花屋の店先。エプロン姿の女性店主は、要が差し出した水道局の身分証を疑いもしなかった。凍結事件から六日。彼女は数少ない「まだ鮮明な目撃者」だった。防犯用の私設カメラが古い型で、共有網に繋がっておらず、検索の洪水が届いていなかったせいだ。
「それで、映像はこちらに?」
「ええ、消さずに取ってあります。だって、あれ、絶対に冷凍設備の事故なんかじゃ——」
「拝見します」
要は端末を受け取り、映像を確認し、原本を業務端末へ移してから、店主の端末の中身を空にした。それから、返却の端末を手渡すときに、彼女の手首の内側に二本の指で触れた。
三秒。それで足りる。
女性店主の目の焦点が、ほんの少し緩んだ。要は静かに言った。
「点検は終わりました。ご協力ありがとうございます。あなたは今日、誰にも会っていない。……いい人生を」
消せるのは、直近の数時間だけだ。六日前の夜、彼女がこの目で見た氷の街——あの記憶そのものには、要の指は届かない。届かなくて、いい。それが機関のやり方だった。証拠だけを回収し、今日の来訪だけを消す。あとは、外の洪水が仕事をする。フェイクだ、寒波だ、冷凍事故だ。証拠を失った記憶は、他人の説明に囲まれて、数週間で自分を疑い始める。人の記憶は、上書きに弱い。
消すのではない。信じられなくするのだ。要はときどき、自分の指より世間の方がよほど残酷な装置だと思う。
店を出て、角を二つ曲がってから、要は手帳を開いた。同じ規格で揃えられた黒い手帳の、今月の頁。正の字の四画目に、一画を足す。
五人目。凍結事件の後始末としては、これで最後だ。正の字が数えているのは消した記憶の数ではなく、触れた人生の数だった。そこは間違えないように付けている。
手帳を仕舞い、眼鏡を拭く。拭く必要のない眼鏡を拭くのは、仕事の前後の癖だった。レンズを磨いている数秒だけ、自分が何の職業の人間なのか、考えずに済む。
昼、移動の車内で、痕跡処理の部署から定型の連絡が入った。合成音声が事務的に読み上げる。凍結事件、関連投稿の希釈率九割超。実映像の検索到達率、営業日三日で百万分の一以下。「本件は、都市伝説として処理可能な段階へ移行しました」。
都市伝説として処理する。消すのではなく、嘘の山に埋めて、笑い話に変える。要が人の記憶に触れる係なら、あちらは世界の記録に触れる係だった。二つで一組。表と裏。どちらが表なのかは、考えたことがない。
連絡の末尾に、付記が一行あった。「未希釈の私設記録一件、灰番にて処理済みの由、確認」。花屋の彼女のことだ。処理済み。三文字で終わる一日もある。要は返信の定型文を選び、車窓の外の、何も知らない街を眺めた。
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午後、要は市外の収容施設にいた。
地下三階。白い廊下は病院に似て、病院より静かだった。面会窓の向こうに、あの消防士が寝かされている。頬は削げ、それでも顔だけが赤黒く火照って、額の冷却パッチが数分おきに交換されていた。
「体温、まだ三十九度台です。点滴を倍量入れても脱水が追いつかない」
担当の技官が、記録板を要に渡した。数値の羅列の最後に、見慣れない項目が赤で囲ってある。
——浸食値、六二。
「先週の定期検査では五七だったんですよ。暴走の一晩で五も跳ねた。限界超過でも、上限ぎりぎりの進行です」
「その数値は、何を数えているのですか」
尋ねると、技官は一瞬、値踏みするように要を見た。
「……灰番さんでも、聞かされてないんですね」
「私の職掌は後始末です。中身は知らされません」
「なら、私の口からは。すみません。ただ——」技官は面会窓の向こうへ目をやった。「百に届いたらどうなるか、私も知らないんです。知ってるのは、届かせるなってことだけで」
「本人の容態は」
「熱と脱水は峠を越えます。問題はそっちの数字でして。記憶の混線なら、三〇を超えた頃から起こり得ます。六〇を超えれば、人格への影響や、存在しない声まで警戒域です。だから尋問は早い方がいいと、上は言っています」
要は記録板をめくった。事件の被害報告。街区の凍結。物損。負傷者なし——ただし、地表の話だ。頁の後半に、地下の報告が続いていた。
第三水道幹線、広域で沸騰。逃げ場を失った蒸気が保守用通路に噴出し、点検作業員二名が火傷。配管の被覆は溶断。「奪われた熱」は消えたのではなく、彼の掌から、地面の下へ、押し込まれ続けていた。
地上を凍らせた男は、地下で街を茹でていた。
面会窓の向こうで、消防士の唇が動いた。音声は拾えない。だが要には読めた。何百人もの目撃者の口元を読んできた男には、読めてしまった。
——もえないで。もう、もえないで。
調書の経歴欄には、黒く伏せられた行がいくつもあった。要に開示された情報だけでは、男が何を失い、なぜ火を拒むようになったのかまでは分からない。分からないままにしておけ、と黒い行は言っていた。
要は記録板を技官に返した。
「尋問には反対です。容態の安定を待つべきだと、私から上へ具申します」
「……灰番さんが、ですか」
「命令の根拠を確認するだけです。従うかどうかは、その後です」
技官は肩をすくめて、それ以上聞かなかった。
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帰宅は十九時過ぎだった。
玄関の灯りは点いていた。廊下の奥から、小さな声が聞こえる。要は靴を揃えながら、その声に耳を澄まさないよう努めた。努めて、失敗した。
「——だから、泣かないの。ね。あたしがきいてるから、だいじょうぶ」
居間の隅で、芽衣がぬいぐるみを膝に載せて、話しかけていた。古い熊のぬいぐるみだ。片耳の縫い目がほつれて、芽衣はそこを自分の指で押さえている。まるで、耳を塞いでやっているみたいに。
「ただいま、芽衣」
「おかえり、パパ」
芽衣は顔を上げ、要の顔をじっと見た。この子の癖だ。人の顔を長く見てから、返事をする。十歳の子どもに見つめられて目を逸らしたくなる夜は、仕事が重かった日だと、要は知っている。今日は、逸らしたくなった。
夕食は炒飯だった。芽衣は自分のプリンを半分に切って、大きい方を自分の皿に、小さい方を要の皿に置いた。
「半分あげる。大きい方はあたしね」
「知っています。……いえ、怒ってはいません。ありがとうございます」
「パパ、家でまで敬語」
「癖です」
芽衣の誕生日が近かった。要は昼休みにカタログを三十分眺めて、結局、去年と同じ結論に近づきつつある。実用的な文房具。防犯ブザー付きの通学バッグ。子ども向け学習端末の上位機。——去年、学習端末を渡したときの芽衣の顔を思い出す。ありがとう、と言った。言ってから、三秒だけ黙った。あの三秒の意味を、要は一年かけてもまだ解読できていない。書類なら三秒で読めるのに。
「芽衣。誕生日ですが、何か——」
「ひみつ」
食い気味に言われた。「言ったら、つまんないもん。パパが考えて」
それがいちばん難しいのだと、要は言わなかった。
芽衣は笑って、それから、ぬいぐるみを椅子の上に座らせ直した。学校の話をした。縫い目のほつれの話をした。靴紐がまたほどけた話をした。要は相槌を打ちながら、この食卓と午前の花屋が同じ一日の中にあることを、いつものように、考えないことにした。
考えないことにする、が、この数年でずいぶん上手くなった。
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夢を見た。
知らない花屋の店先で、知らない常連客と笑っている夢だ。店の名前も、客の名前も、夢の中の「私」は全部知っている。腰の高さの棚に春の鉢が並んで、奥のバケツで切り花が水を吸っていて、私はあの日、店の前の通りが白く凍っていくのを、確かにこの目で——
要は暗い寝室で目を開けた。
午前三時。隣室の芽衣の寝息は規則正しい。要は起き上がり、台所で水を飲んだ。家族が起きる前の静かな台所は、彼がこの家でいちばん好きな場所で、いちばん、ひとりで責められる場所だった。
消した記憶は、消えない。要の中に、澱のように溜まっていく。他人の昨日が、夢の形で、毎晩少しずつ返済を求めてくる。手帳の正の字は、だから帳簿なのだ。借りた覚えのある借金だけは、踏み倒したくなかった。
水を飲み干したとき、廊下の床が小さく鳴った。
「パパ」
芽衣が立っていた。ぬいぐるみを胸に抱いて、寝癖のついた頭で、じっと要を見上げている。
「どうしました。お手洗いですか」
「ちがう」
芽衣は首を振った。それから、なんでもないことを報告する子どもの声で、言った。
「ねえ、パパ。帰ってきてから、知らない人がずっと泣いてるね」
台所の空気が、一度で冷えた。
「……芽衣。今日、パパの仕事の話をしましたか」
「してない」
「誰かから、聞きましたか」
「聞いてない。パパのそばから聞こえるの」
芽衣は、ぬいぐるみの耳のほつれを指で押さえた。
「もえないで、って、ずっと泣いてる。……パパ、その人のこと、いじめないであげてね」
要は答えられなかった。
娘は今日、家から一歩も出ていない。学校は創立記念日で休みだった。仕事の話もしていない。誰からも聞いていない。
それでも要が帰宅してから、芽衣には何かが聞こえ始めた。市外の地下三階で、音にもならない言葉を繰り返していた男。その声を、要自身がここへ持ち帰ったとでもいうように。
「……芽衣。それは、誰の声ですか」
「わかんない。知らない人」芽衣は、少し困った顔をした。それから、ぬいぐるみを抱き直して、小さくあくびをした。「もう寝る。パパも寝なよ。パパ、夜、ぜんぜん寝てないでしょ」
廊下の奥に消えていく小さな背中を、要は台所から動けないまま、見送った。
手帳の正の字が、頭の中で音を立てた気がした。数え間違えている。ずっと、何か大きなものを、数え落としている——その予感だけがあって、形にならなかった。
(ep003 了)




