↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
AIが全部の正解を先に出す2049年、わかり合った相手の超能力が写る。記憶も痛みも一緒にー人間未解ー  作者: 猫間じん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/78

灰の帳簿

---


【観察記録 ——相良慧】


観測者は、観測対象に何を負うのでしょう。


わたしは旅先で人の話を聞くたび、相手の人生に小さな足跡を残していきます。質問はただの音ではない。「あなたのことを調べている者がいる」という事実そのものが、相手の世界を少しだけ変えてしまう。観測は、無害ではありません。


それでもわたしは聞いて回る。説明の義務が、遠慮より重いと信じているからです。


——では、逆の仕事をする人間は、何を負うのでしょう。人の世界から、足跡を消して回る仕事をする人間は。


---


 篠田要の仕事は、いつも他人の「昨日」から始まる。


 午前十時、花屋の店先。エプロン姿の女性店主は、要が差し出した水道局の身分証を疑いもしなかった。凍結事件から六日。彼女は数少ない「まだ鮮明な目撃者」だった。防犯用の私設カメラが古い型で、共有網に繋がっておらず、検索の洪水が届いていなかったせいだ。


「それで、映像はこちらに?」


「ええ、消さずに取ってあります。だって、あれ、絶対に冷凍設備の事故なんかじゃ——」


「拝見します」


 要は端末を受け取り、映像を確認し、原本を業務端末へ移してから、店主の端末の中身を空にした。それから、返却の端末を手渡すときに、彼女の手首の内側に二本の指で触れた。


 三秒。それで足りる。


 女性店主の目の焦点が、ほんの少し緩んだ。要は静かに言った。


「点検は終わりました。ご協力ありがとうございます。あなたは今日、誰にも会っていない。……いい人生を」


 消せるのは、直近の数時間だけだ。六日前の夜、彼女がこの目で見た氷の街——あの記憶そのものには、要の指は届かない。届かなくて、いい。それが機関のやり方だった。証拠だけを回収し、今日の来訪だけを消す。あとは、外の洪水が仕事をする。フェイクだ、寒波だ、冷凍事故だ。証拠を失った記憶は、他人の説明に囲まれて、数週間で自分を疑い始める。人の記憶は、上書きに弱い。


 消すのではない。信じられなくするのだ。要はときどき、自分の指より世間の方がよほど残酷な装置だと思う。


 店を出て、角を二つ曲がってから、要は手帳を開いた。同じ規格で揃えられた黒い手帳の、今月の頁。正の字の四画目に、一画を足す。


 五人目。凍結事件の後始末としては、これで最後だ。正の字が数えているのは消した記憶の数ではなく、触れた人生の数だった。そこは間違えないように付けている。


 手帳を仕舞い、眼鏡を拭く。拭く必要のない眼鏡を拭くのは、仕事の前後の癖だった。レンズを磨いている数秒だけ、自分が何の職業の人間なのか、考えずに済む。


 昼、移動の車内で、痕跡処理の部署から定型の連絡が入った。合成音声が事務的に読み上げる。凍結事件、関連投稿の希釈率九割超。実映像の検索到達率、営業日三日で百万分の一以下。「本件は、都市伝説として処理可能な段階へ移行しました」。


 都市伝説として処理する。消すのではなく、嘘の山に埋めて、笑い話に変える。要が人の記憶に触れる係なら、あちらは世界の記録に触れる係だった。二つで一組。表と裏。どちらが表なのかは、考えたことがない。


 連絡の末尾に、付記が一行あった。「未希釈の私設記録一件、灰番にて処理済みの由、確認」。花屋の彼女のことだ。処理済み。三文字で終わる一日もある。要は返信の定型文を選び、車窓の外の、何も知らない街を眺めた。


---


 午後、要は市外の収容施設にいた。


 地下三階。白い廊下は病院に似て、病院より静かだった。面会窓の向こうに、あの消防士が寝かされている。頬は削げ、それでも顔だけが赤黒く火照って、額の冷却パッチが数分おきに交換されていた。


「体温、まだ三十九度台です。点滴を倍量入れても脱水が追いつかない」


 担当の技官が、記録板を要に渡した。数値の羅列の最後に、見慣れない項目が赤で囲ってある。


 ——浸食値、六二。


「先週の定期検査では五七だったんですよ。暴走の一晩で五も跳ねた。限界超過でも、上限ぎりぎりの進行です」


「その数値は、何を数えているのですか」


 尋ねると、技官は一瞬、値踏みするように要を見た。


「……灰番さんでも、聞かされてないんですね」


「私の職掌は後始末です。中身は知らされません」


「なら、私の口からは。すみません。ただ——」技官は面会窓の向こうへ目をやった。「百に届いたらどうなるか、私も知らないんです。知ってるのは、届かせるなってことだけで」


「本人の容態は」


「熱と脱水は峠を越えます。問題はそっちの数字でして。記憶の混線なら、三〇を超えた頃から起こり得ます。六〇を超えれば、人格への影響や、存在しない声まで警戒域です。だから尋問は早い方がいいと、上は言っています」


 要は記録板をめくった。事件の被害報告。街区の凍結。物損。負傷者なし——ただし、地表の話だ。頁の後半に、地下の報告が続いていた。


 第三水道幹線、広域で沸騰。逃げ場を失った蒸気が保守用通路に噴出し、点検作業員二名が火傷。配管の被覆は溶断。「奪われた熱」は消えたのではなく、彼の掌から、地面の下へ、押し込まれ続けていた。


 地上を凍らせた男は、地下で街を茹でていた。


 面会窓の向こうで、消防士の唇が動いた。音声は拾えない。だが要には読めた。何百人もの目撃者の口元を読んできた男には、読めてしまった。


 ——もえないで。もう、もえないで。


 調書の経歴欄には、黒く伏せられた行がいくつもあった。要に開示された情報だけでは、男が何を失い、なぜ火を拒むようになったのかまでは分からない。分からないままにしておけ、と黒い行は言っていた。


 要は記録板を技官に返した。


「尋問には反対です。容態の安定を待つべきだと、私から上へ具申します」


「……灰番さんが、ですか」


「命令の根拠を確認するだけです。従うかどうかは、その後です」


 技官は肩をすくめて、それ以上聞かなかった。


---


 帰宅は十九時過ぎだった。


 玄関の灯りは点いていた。廊下の奥から、小さな声が聞こえる。要は靴を揃えながら、その声に耳を澄まさないよう努めた。努めて、失敗した。


「——だから、泣かないの。ね。あたしがきいてるから、だいじょうぶ」


 居間の隅で、芽衣がぬいぐるみを膝に載せて、話しかけていた。古い熊のぬいぐるみだ。片耳の縫い目がほつれて、芽衣はそこを自分の指で押さえている。まるで、耳を塞いでやっているみたいに。


「ただいま、芽衣」


「おかえり、パパ」


 芽衣は顔を上げ、要の顔をじっと見た。この子の癖だ。人の顔を長く見てから、返事をする。十歳の子どもに見つめられて目を逸らしたくなる夜は、仕事が重かった日だと、要は知っている。今日は、逸らしたくなった。


 夕食は炒飯だった。芽衣は自分のプリンを半分に切って、大きい方を自分の皿に、小さい方を要の皿に置いた。


「半分あげる。大きい方はあたしね」


「知っています。……いえ、怒ってはいません。ありがとうございます」


「パパ、家でまで敬語」


「癖です」


 芽衣の誕生日が近かった。要は昼休みにカタログを三十分眺めて、結局、去年と同じ結論に近づきつつある。実用的な文房具。防犯ブザー付きの通学バッグ。子ども向け学習端末の上位機。——去年、学習端末を渡したときの芽衣の顔を思い出す。ありがとう、と言った。言ってから、三秒だけ黙った。あの三秒の意味を、要は一年かけてもまだ解読できていない。書類なら三秒で読めるのに。


「芽衣。誕生日ですが、何か——」


「ひみつ」


 食い気味に言われた。「言ったら、つまんないもん。パパが考えて」


 それがいちばん難しいのだと、要は言わなかった。


 芽衣は笑って、それから、ぬいぐるみを椅子の上に座らせ直した。学校の話をした。縫い目のほつれの話をした。靴紐がまたほどけた話をした。要は相槌を打ちながら、この食卓と午前の花屋が同じ一日の中にあることを、いつものように、考えないことにした。


 考えないことにする、が、この数年でずいぶん上手くなった。


---


 夢を見た。


 知らない花屋の店先で、知らない常連客と笑っている夢だ。店の名前も、客の名前も、夢の中の「私」は全部知っている。腰の高さの棚に春の鉢が並んで、奥のバケツで切り花が水を吸っていて、私はあの日、店の前の通りが白く凍っていくのを、確かにこの目で——


 要は暗い寝室で目を開けた。


 午前三時。隣室の芽衣の寝息は規則正しい。要は起き上がり、台所で水を飲んだ。家族が起きる前の静かな台所は、彼がこの家でいちばん好きな場所で、いちばん、ひとりで責められる場所だった。


 消した記憶は、消えない。要の中に、澱のように溜まっていく。他人の昨日が、夢の形で、毎晩少しずつ返済を求めてくる。手帳の正の字は、だから帳簿なのだ。借りた覚えのある借金だけは、踏み倒したくなかった。


 水を飲み干したとき、廊下の床が小さく鳴った。


「パパ」


 芽衣が立っていた。ぬいぐるみを胸に抱いて、寝癖のついた頭で、じっと要を見上げている。


「どうしました。お手洗いですか」


「ちがう」


 芽衣は首を振った。それから、なんでもないことを報告する子どもの声で、言った。


「ねえ、パパ。帰ってきてから、知らない人がずっと泣いてるね」


 台所の空気が、一度で冷えた。


「……芽衣。今日、パパの仕事の話をしましたか」


「してない」


「誰かから、聞きましたか」


「聞いてない。パパのそばから聞こえるの」


 芽衣は、ぬいぐるみの耳のほつれを指で押さえた。


「もえないで、って、ずっと泣いてる。……パパ、その人のこと、いじめないであげてね」


 要は答えられなかった。


 娘は今日、家から一歩も出ていない。学校は創立記念日で休みだった。仕事の話もしていない。誰からも聞いていない。


 それでも要が帰宅してから、芽衣には何かが聞こえ始めた。市外の地下三階で、音にもならない言葉を繰り返していた男。その声を、要自身がここへ持ち帰ったとでもいうように。


「……芽衣。それは、誰の声ですか」


「わかんない。知らない人」芽衣は、少し困った顔をした。それから、ぬいぐるみを抱き直して、小さくあくびをした。「もう寝る。パパも寝なよ。パパ、夜、ぜんぜん寝てないでしょ」


 廊下の奥に消えていく小さな背中を、要は台所から動けないまま、見送った。


 手帳の正の字が、頭の中で音を立てた気がした。数え間違えている。ずっと、何か大きなものを、数え落としている——その予感だけがあって、形にならなかった。


(ep003 了)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。