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AIが全部の正解を先に出す2049年、わかり合った相手の超能力が写る。記憶も痛みも一緒にー人間未解ー  作者: 猫間じん


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九十秒

---


【観察記録 ——相良慧】


記憶とは、何を数える器なのでしょう。


この街の人々に凍結事件の話を聞くと、答えが日ごとに書き換わっていきます。冷凍設備の事故、季節外れの寒波、手の込んだ悪戯。同じ人が、昨日と違う説明を、同じ確信で口にする。人の記憶は上書きに弱い。それ自体は教科書通りの現象です。


ただ、わたしは職業柄、こう考えてしまう。書き換えられていく記憶と、書き換えられない記録——人間を人間たらしめているのは、どちらなのか。


清川さんに尋ねたら、少し黙って「記録では」と言いました。彼にしては珍しく、即答ではありませんでした。


---


 週が明けると、凍結事件は教室の中で三つの別の事件になっていた。


「冷凍倉庫のアンモニアが漏れたんだって」

「うちの親は寒波って言ってた。ほら、あの夜、家事端末が異常低温注意って」

「ミラーで見たけど、あれ全部フェイク画像らしいよ。氷の街、生成の指ぐせが出てるって」


 どれも違う、と湊は思う。あの白は本物だった。凍った街路樹の匂いも、マンホールから噴いた蒸気の熱も、迷子みたいな顔をした大人の男も、全部この目で見た。


 なのに口には出せなかった。言えば「じゃあ証拠は?」になる。証拠は検索の砂の中だ。自分の記憶だけが、どの説明とも噛み合わないまま、ひとりで鮮明だった。


 左手首の痕の熱はもう引いている。鏡の中の燐光も、あの夜ほどはっきりとは見えない。ただ、ときどき——たとえば誰かの感情が強く流れ込みかけた瞬間——目の奥で、灯りがまばたきをする気配がある。それが何なのか、考えるのはやめていた。考え始めたら、たぶん、日常の側に戻れなくなる。


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 その夜、湊は母に頼まれた牛乳を買いに、駅前のコンビニへ寄った。


 店に入った瞬間、揉め事の空気が流れ込んできた。


「だから、払ったって言ってるだろ!」


 レジ横のセルフ決済機の前で、同い年くらいの少年が声を上げていた。伸びっぱなしの黒髪、サイズの合っていない古着。店員は少年の腕を掴んで、眉を吊り上げている。


「お客様、商品をバッグに入れるところを見ました」


「そりゃ入れるだろ、払ったんだから! 見ろって、そこ!」


 少年が顎で指した決済機には、緑色の文字で「支払完了」と表示されていた。バッグの口からは高カロリーゼリーの箱がのぞいている。店員は表示を見ようともせず、少年の腕を掴んだままだった。機械の言い分より、自分の見た瞬間の方を信じる顔だった。


 少年が短く息を吐いた。諦めたような、慣れきったような息だった。その目が、壁の時計をちらりと見る。


 奇妙な九十秒だった。


 店員は少年の腕を掴んだまま、ふいに瞬きを増やし、それから、掴んでいる自分の手を不思議そうに見た。


「……いらっしゃいませ」


 手が離れる。店員は何事もなかったようにレジへ戻った。決済機の「支払完了」の表示だけが、まだ静かに灯っている。少年は何も言わず、床に落ちた控えの紙片を残して、出口へ歩き出した。


「待って」


 湊は紙片を拾っていた。気づけば声をかけていた。


「これ、落としたよ。……ちゃんと支払済みって出てる。さっきの店員さん、ひどかったね」


 少年が振り返った。人の顔色を窺う癖のついた、伏し目がちの目。その目が壁の時計を見て、湊を見て、もう一度時計を見た。今度は秒針ではなく、湊を確かめるように。


「……あんた、最初から見てた?」


「君が捕まえられたとこから。機械はずっと君の味方だったのに、変なの」


 少年は数秒、固まっていた。それから何かを堪えるような顔で、早口に「どうも」と言い、店を出た——ように見えた。が、ガラス越しに、彼は駐車場の縁石の手前で立ち止まり、こちらを振り返って、まだ湊が自分を見ていることを確かめて、もう一度固まった。


 湊が牛乳を買って外に出ると、少年はまだそこにいた。


「……なあ」掠れた声だった。「あんた、まだおれのこと、視えてるんだな」


「? 視えてるけど」


「そっか」少年は俯いて、笑ったような、泣いたような顔をした。「そっか」


---


 少年は日野透と名乗った。


「俺は相沢湊」


 名乗り返すと、透はすぐに端末を取り出し、ものすごい速さで打ち込んだ。画面がちらりと見えた。「相沢湊。黒い癖毛、濃い茶の目。九十秒を越えて話しかけてきた」。


「そこまで書くの?」


「書けるうちに書くんだよ」


 コンビニの駐車場の縁石に並んで座って、湊は牛乳の袋を膝に載せたまま、世界で一番奇妙な自己紹介を聞いた。


「おれのことは、誰も覚えてられない。九十秒くらいで消える。顔も、声も、おれがいたって事実も」


「……それ、病気とか?」


「知らね。気づいたら、こうなってた」透は端末の画面を湊に向けた。自撮りと、メモと、日付入りの写真が、息苦しいほどの密度で並んでいる。「記録は残るんだ。写真も、防犯カメラも、決済のログも。機械はおれを覚えてる。改札も通れるし、買い物もできる。忘れるのは——人間だけ」


「家族は」


「『知らない子』になった」


 透はなんでもないことのように言った。なんでもないことのように言う練習を、何百回もしてきた声だった。湊の喉の奥が痛んだ。泣くな、と自分に言い聞かせる。本人が泣いていないのに、先に泣くのは違う。


 話しながら、透はバッグからさっきのゼリーを出して封を切った。一本をほとんど噛まずに飲み干し、間を置かず二本目に手を伸ばす。細い体に見合わない食べ方だった。湊の視線に気づくと、透は肩をすくめた。


「腹が減るんだよ、ずっと。なんでか知らねえけど、こうなってから、ずっとだ。これ切らすと頭が回らなくなる」


「……大変だな、いろいろ」


「まとめるなよ、雑に」


 初めて、透が普通の男子の顔で笑った。


 それから透は、問われてもいないのに自分の記録術の話をした。写真には必ず日付と場所を焼き込むこと。会った人間の特徴は九十秒以内に打ち込むこと。一日の終わりに、記録を時系列に並べて、自分の一日を後から再現すること。まるで、毎晩自分で自分の証人になっているみたいだった。


「よく続くね、それ」


「続けるしかねえだろ。おれが忘れたら、おれの一日は、今度こそ本当に無かったことになる」


 透はゼリーの空き容器を几帳面に畳んで、バッグの内ポケットに仕舞った。ごみを残すと、あとで「誰のごみだ」になるからだという。忘れられる人間の生活術は、細部まで徹底していて、細部まで寂しかった。


「あの夜の氷の事件、あんたも見たろ」


 不意に透が言った。湊は顔を上げた。


「……見た。覚えてる。街のみんなは、もう違う話をしてるけど」


「おれも見た。おれは忘れないよ。おれは——」透はそこで一度言葉を切って、乾いた声で笑った。「忘れられる側だからさ。忘れないことにだけは、意地があるんだ」


 街が忘れて、透が覚えていて、そして自分も覚えている。湊は膝の上の牛乳が汗をかいていくのを眺めながら、その奇妙な三角形のことを考えた。


 立ち上がったとき、透は早口になった。


「今日はありがとう。紙拾ってくれたことも、話聞いてくれたことも、変な奴だって顔しなかったことも、全部。……言っとかないと、次に会うとき、あんたにとっては初対面だから。だから先に全部言っとく。ありがとうな」


 別れの挨拶を、まるで遺言みたいに言い切る。湊はそれを遮った。


「じゃあ、明日もここ来るよ」


「……なんで」


「話の続き、まだあるだろ。……いや、違うな」湊は言い直した。「俺が聞きたいんだ」


 透は返事をしなかった。できなかった、という方が近い顔だった。開きかけた口が何度か形を探して、結局、端末を握りしめただけだった。


 湊が歩き出して、角を曲がる前に一度だけ振り返ると、街灯の下で透がまだ立ったまま、端末に何かを打ち込んでいた。画面までは、見えなかった。


「なあ」


 声が追いかけてきた。振り向くと、透は端末を胸に抱えるように持って、言った。


「あんた何者だよ。……おれを覚えてるやつ、初めてなんだ」


---


 翌日の夕方、湊が駐車場に着いたとき、透はもう縁石に座っていた。


 湊の姿を見つけると、透は立ち上がり、息を吸い、よどみなく言った。


「はじめまして。本日……えっと、通算だと二日目だけど、そっちには一回目のはずだから、はじめま——」


「昨日ぶり。透くん」


 用意してきた口上が、途中で崩れた。透は口を開けたまま数秒固まって、それから縁石にすとんと座り直した。


「……練習してきたのに」


「何を」


「初対面のやり直し。三パターン用意してた」


 真顔で言うから、笑っていいのか分からなかった。湊は隣に座り、コンビニの袋から牛乳を出した。昨日と同じ、一番安い銘柄。透の目がそれに留まって、ほんの少し、眩しそうに細くなった。


「……あんた、昨日もそれだったな」


「覚えてるんだ、そんなこと」


「おれはなんでも覚えてるって言ったろ。相手が前と同じ物を選ぶのって、いいんだよ。世界がちゃんと続いてるって感じがする」


 それから透は、少しためらって、端末の画面をこちらに向けた。昨日の日付の記録の一番下。何度も打っては消したらしい短い行が、一つだけ残っていた。


『明日、同じ場所』


「……予定なんて、書いたの初めてだ」透は画面を伏せて、ゼリーの三本目の封を切った。「予定ってのはさ、明日も誰かがいる前提の言葉だろ。おれの記録、全部過去形だったから」


 湊は何か言おうとして、やめた。うまい言葉は、たぶん無い方がいい場面だった。かわりに、牛乳の袋を縁石に置いて、座り直した。


 夕方の駐車場に、配達ドローンの羽音と、遠くの街頭ビジョンの歌声が薄く流れていた。透は残りのゼリーを勧めてきて、湊は断って、押し付けられて、結局半分飲んだ。甘すぎた。こんなものを毎日何本も飲まないと保たない体のことを思うと、味の感想は言えなかった。


 話の続きは、まだいくらでもあった。


---


【観察記録 ——続き】


忘れられる者は、存在しないのと同じでしょうか。


問いだけを書いて、今日は閉じます。


明日は、リストの次の名前を訪ねます。清川さんが、珍しく道順を先に調べてくれていました。理由は、まだ聞いていません。


(ep002 了)


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