九十秒
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【観察記録 ——相良慧】
記憶とは、何を数える器なのでしょう。
この街の人々に凍結事件の話を聞くと、答えが日ごとに書き換わっていきます。冷凍設備の事故、季節外れの寒波、手の込んだ悪戯。同じ人が、昨日と違う説明を、同じ確信で口にする。人の記憶は上書きに弱い。それ自体は教科書通りの現象です。
ただ、わたしは職業柄、こう考えてしまう。書き換えられていく記憶と、書き換えられない記録——人間を人間たらしめているのは、どちらなのか。
清川さんに尋ねたら、少し黙って「記録では」と言いました。彼にしては珍しく、即答ではありませんでした。
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週が明けると、凍結事件は教室の中で三つの別の事件になっていた。
「冷凍倉庫のアンモニアが漏れたんだって」
「うちの親は寒波って言ってた。ほら、あの夜、家事端末が異常低温注意って」
「ミラーで見たけど、あれ全部フェイク画像らしいよ。氷の街、生成の指ぐせが出てるって」
どれも違う、と湊は思う。あの白は本物だった。凍った街路樹の匂いも、マンホールから噴いた蒸気の熱も、迷子みたいな顔をした大人の男も、全部この目で見た。
なのに口には出せなかった。言えば「じゃあ証拠は?」になる。証拠は検索の砂の中だ。自分の記憶だけが、どの説明とも噛み合わないまま、ひとりで鮮明だった。
左手首の痕の熱はもう引いている。鏡の中の燐光も、あの夜ほどはっきりとは見えない。ただ、ときどき——たとえば誰かの感情が強く流れ込みかけた瞬間——目の奥で、灯りがまばたきをする気配がある。それが何なのか、考えるのはやめていた。考え始めたら、たぶん、日常の側に戻れなくなる。
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その夜、湊は母に頼まれた牛乳を買いに、駅前のコンビニへ寄った。
店に入った瞬間、揉め事の空気が流れ込んできた。
「だから、払ったって言ってるだろ!」
レジ横のセルフ決済機の前で、同い年くらいの少年が声を上げていた。伸びっぱなしの黒髪、サイズの合っていない古着。店員は少年の腕を掴んで、眉を吊り上げている。
「お客様、商品をバッグに入れるところを見ました」
「そりゃ入れるだろ、払ったんだから! 見ろって、そこ!」
少年が顎で指した決済機には、緑色の文字で「支払完了」と表示されていた。バッグの口からは高カロリーゼリーの箱がのぞいている。店員は表示を見ようともせず、少年の腕を掴んだままだった。機械の言い分より、自分の見た瞬間の方を信じる顔だった。
少年が短く息を吐いた。諦めたような、慣れきったような息だった。その目が、壁の時計をちらりと見る。
奇妙な九十秒だった。
店員は少年の腕を掴んだまま、ふいに瞬きを増やし、それから、掴んでいる自分の手を不思議そうに見た。
「……いらっしゃいませ」
手が離れる。店員は何事もなかったようにレジへ戻った。決済機の「支払完了」の表示だけが、まだ静かに灯っている。少年は何も言わず、床に落ちた控えの紙片を残して、出口へ歩き出した。
「待って」
湊は紙片を拾っていた。気づけば声をかけていた。
「これ、落としたよ。……ちゃんと支払済みって出てる。さっきの店員さん、ひどかったね」
少年が振り返った。人の顔色を窺う癖のついた、伏し目がちの目。その目が壁の時計を見て、湊を見て、もう一度時計を見た。今度は秒針ではなく、湊を確かめるように。
「……あんた、最初から見てた?」
「君が捕まえられたとこから。機械はずっと君の味方だったのに、変なの」
少年は数秒、固まっていた。それから何かを堪えるような顔で、早口に「どうも」と言い、店を出た——ように見えた。が、ガラス越しに、彼は駐車場の縁石の手前で立ち止まり、こちらを振り返って、まだ湊が自分を見ていることを確かめて、もう一度固まった。
湊が牛乳を買って外に出ると、少年はまだそこにいた。
「……なあ」掠れた声だった。「あんた、まだおれのこと、視えてるんだな」
「? 視えてるけど」
「そっか」少年は俯いて、笑ったような、泣いたような顔をした。「そっか」
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少年は日野透と名乗った。
「俺は相沢湊」
名乗り返すと、透はすぐに端末を取り出し、ものすごい速さで打ち込んだ。画面がちらりと見えた。「相沢湊。黒い癖毛、濃い茶の目。九十秒を越えて話しかけてきた」。
「そこまで書くの?」
「書けるうちに書くんだよ」
コンビニの駐車場の縁石に並んで座って、湊は牛乳の袋を膝に載せたまま、世界で一番奇妙な自己紹介を聞いた。
「おれのことは、誰も覚えてられない。九十秒くらいで消える。顔も、声も、おれがいたって事実も」
「……それ、病気とか?」
「知らね。気づいたら、こうなってた」透は端末の画面を湊に向けた。自撮りと、メモと、日付入りの写真が、息苦しいほどの密度で並んでいる。「記録は残るんだ。写真も、防犯カメラも、決済のログも。機械はおれを覚えてる。改札も通れるし、買い物もできる。忘れるのは——人間だけ」
「家族は」
「『知らない子』になった」
透はなんでもないことのように言った。なんでもないことのように言う練習を、何百回もしてきた声だった。湊の喉の奥が痛んだ。泣くな、と自分に言い聞かせる。本人が泣いていないのに、先に泣くのは違う。
話しながら、透はバッグからさっきのゼリーを出して封を切った。一本をほとんど噛まずに飲み干し、間を置かず二本目に手を伸ばす。細い体に見合わない食べ方だった。湊の視線に気づくと、透は肩をすくめた。
「腹が減るんだよ、ずっと。なんでか知らねえけど、こうなってから、ずっとだ。これ切らすと頭が回らなくなる」
「……大変だな、いろいろ」
「まとめるなよ、雑に」
初めて、透が普通の男子の顔で笑った。
それから透は、問われてもいないのに自分の記録術の話をした。写真には必ず日付と場所を焼き込むこと。会った人間の特徴は九十秒以内に打ち込むこと。一日の終わりに、記録を時系列に並べて、自分の一日を後から再現すること。まるで、毎晩自分で自分の証人になっているみたいだった。
「よく続くね、それ」
「続けるしかねえだろ。おれが忘れたら、おれの一日は、今度こそ本当に無かったことになる」
透はゼリーの空き容器を几帳面に畳んで、バッグの内ポケットに仕舞った。ごみを残すと、あとで「誰のごみだ」になるからだという。忘れられる人間の生活術は、細部まで徹底していて、細部まで寂しかった。
「あの夜の氷の事件、あんたも見たろ」
不意に透が言った。湊は顔を上げた。
「……見た。覚えてる。街のみんなは、もう違う話をしてるけど」
「おれも見た。おれは忘れないよ。おれは——」透はそこで一度言葉を切って、乾いた声で笑った。「忘れられる側だからさ。忘れないことにだけは、意地があるんだ」
街が忘れて、透が覚えていて、そして自分も覚えている。湊は膝の上の牛乳が汗をかいていくのを眺めながら、その奇妙な三角形のことを考えた。
立ち上がったとき、透は早口になった。
「今日はありがとう。紙拾ってくれたことも、話聞いてくれたことも、変な奴だって顔しなかったことも、全部。……言っとかないと、次に会うとき、あんたにとっては初対面だから。だから先に全部言っとく。ありがとうな」
別れの挨拶を、まるで遺言みたいに言い切る。湊はそれを遮った。
「じゃあ、明日もここ来るよ」
「……なんで」
「話の続き、まだあるだろ。……いや、違うな」湊は言い直した。「俺が聞きたいんだ」
透は返事をしなかった。できなかった、という方が近い顔だった。開きかけた口が何度か形を探して、結局、端末を握りしめただけだった。
湊が歩き出して、角を曲がる前に一度だけ振り返ると、街灯の下で透がまだ立ったまま、端末に何かを打ち込んでいた。画面までは、見えなかった。
「なあ」
声が追いかけてきた。振り向くと、透は端末を胸に抱えるように持って、言った。
「あんた何者だよ。……おれを覚えてるやつ、初めてなんだ」
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翌日の夕方、湊が駐車場に着いたとき、透はもう縁石に座っていた。
湊の姿を見つけると、透は立ち上がり、息を吸い、よどみなく言った。
「はじめまして。本日……えっと、通算だと二日目だけど、そっちには一回目のはずだから、はじめま——」
「昨日ぶり。透くん」
用意してきた口上が、途中で崩れた。透は口を開けたまま数秒固まって、それから縁石にすとんと座り直した。
「……練習してきたのに」
「何を」
「初対面のやり直し。三パターン用意してた」
真顔で言うから、笑っていいのか分からなかった。湊は隣に座り、コンビニの袋から牛乳を出した。昨日と同じ、一番安い銘柄。透の目がそれに留まって、ほんの少し、眩しそうに細くなった。
「……あんた、昨日もそれだったな」
「覚えてるんだ、そんなこと」
「おれはなんでも覚えてるって言ったろ。相手が前と同じ物を選ぶのって、いいんだよ。世界がちゃんと続いてるって感じがする」
それから透は、少しためらって、端末の画面をこちらに向けた。昨日の日付の記録の一番下。何度も打っては消したらしい短い行が、一つだけ残っていた。
『明日、同じ場所』
「……予定なんて、書いたの初めてだ」透は画面を伏せて、ゼリーの三本目の封を切った。「予定ってのはさ、明日も誰かがいる前提の言葉だろ。おれの記録、全部過去形だったから」
湊は何か言おうとして、やめた。うまい言葉は、たぶん無い方がいい場面だった。かわりに、牛乳の袋を縁石に置いて、座り直した。
夕方の駐車場に、配達ドローンの羽音と、遠くの街頭ビジョンの歌声が薄く流れていた。透は残りのゼリーを勧めてきて、湊は断って、押し付けられて、結局半分飲んだ。甘すぎた。こんなものを毎日何本も飲まないと保たない体のことを思うと、味の感想は言えなかった。
話の続きは、まだいくらでもあった。
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【観察記録 ——続き】
忘れられる者は、存在しないのと同じでしょうか。
問いだけを書いて、今日は閉じます。
明日は、リストの次の名前を訪ねます。清川さんが、珍しく道順を先に調べてくれていました。理由は、まだ聞いていません。
(ep002 了)




