凍える街
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【観察記録 ——相良慧】
わたしは超常現象を信じません。
信じないからこそ、観測されたものを説明する義務がある。それが科学です。この記録は、十年前に失踪した父が遺したノート——正確には、そこに記された複数の名前——を訪ね歩く旅の記録です。
今日、わたしたちはこの街に着きました。「わたしたち」と書いたのは、同行者がいるからです。清川さんは今日も文句ひとつ言わず、重い機材を運んでくれました。良い旅の連れです。
ノートの次の名前は、この街にあります。
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春だというのに、教室の空気は冬の名残みたいに重かった。
相沢湊が窓際の席から振り返ったのは、嗚咽の気配がしたからだ。教室の後ろで、女子が一人、端末を握りしめて泣いていた。取り巻きの誰かが「またAチューバーの卒業配信見たんでしょ」と笑い、誰かが「推しは引退しないって、機械なんだから」と続けた。
泣いている本人よりも先に、湊の喉の奥が痛くなった。
いつものことだった。誰かが泣くと、理由も知らないうちに、自分の目の縁が熱くなる。悲しみが伝染るというより、流れ込んでくる。堤防のない川みたいに。
「……相沢くんが泣くことなくない?」
取り巻きの一人に呆れられ、湊は慌てて目元を拭った。まただ、と思う。他人の感情と自分の感情の、境目が下手くそなのだ。昔からずっと。
泣いていた女子——同じクラスの子だ、名前は確か——は、湊と目が合うと、なぜか少しだけ泣きやんだ。ばつが悪くなって、湊は先に視線を逸らした。わかった気になるな、と自分に言う。おまえが感じたのは彼女の悲しみの水位だけで、水の中身じゃない。推しの卒業がどれだけ大事だったかなんて、おまえには一生わからない。
慰めの言葉は思いつかなかった。代わりに、湊は自分の机から未開封のポケットティッシュを出し、彼女の端末の横へ置いた。礼を言われる前に席へ戻る。こういうことだけは、考えるより先にできた。何を言えば正しいかは分からなくても、今、要る物くらいなら分かる。
わからないのに、流れ込んでくる。それがずっと、うっすらと後ろめたかった。
帰り支度をしながら、耳の後ろのイヤーカフからエージェントが今日の献立候補を三つ読み上げてくる。湊は「二番」とだけ返した。型番で呼ぶのも面倒で、湊は自分のエージェントを呼んだことすらない。みんなそうだ。名前なんて、道具には要らない。
昇降口を出ると、街頭ビジョンでAチューバーが春物の広告映像の中で新曲を歌っていた。完璧な笑顔。完璧な音程。ビジョンの端に小さく「本映像は無人生成です」の認証マーク。その下を、耳の裸な老人がひとり、ビジョンを睨みながら通り過ぎていく。
湊は無意識に左手首の内側をさすった。
古い手術痕がそこにある。幼い頃、大きな病気をしたのだと母は言う。本人には、その頃の記憶がほとんどない。痛くもないのに、ときどき、そこが妙に気になる。今日は、朝からずっとだった。
商店街に入ると、母のパート先の惣菜屋の前で、店長が配達ドローンと揉めていた。積み込みの座標がずれるとかで、店長は宙に浮いた機体に向かって頭を下げたり怒鳴ったりしている。機械相手に頭を下げる方も下げる方だと思うが、笑えなかった。誰だってそうやって生きている。道を選ぶのも、店を選ぶのも、謝る相手を選ぶのも、半分は耳元の誰かさんだ。
「湊くん、おかえり。母さん今日は早番だったよ」
「どうも」
会釈して通り過ぎる。コロッケの油の匂い。夕方の商店街の、いつも通りの体温。——この数分後に世界が凍ることを、そのときの湊はまだ知らない。
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異変に気づいたのは、商店街のアーケードを抜けた先だった。
息が白い。
四月の夕方に、吐いた息が白く凝った。湊は足を止めた。アーケードの出口から先の街区が、色を失っている。街路樹の若葉に霜が降り、路面が鈍く光り、放置された配達ドローンが一機、翼に氷をまとって落ちていた。
人が逃げてくる。悲鳴は不思議と少なかった。みんな端末を構えて後ずさりながら、ミラーに流す映像を撮っている。「やばいやばい」「何これ、演出?」「どうせフェイクでしょ」——恐怖より先に、疑いが口をつく街だった。
凍った街区の中心に、男が一人、立っていた。
足元で低い破裂音が響いた。マンホールの隙間から噴き出した蒸気だけが、白い街区の中で異様に熱い。
消防の作業服。袖章の消防章が、霜をまとって白くなっている。うずくまるように背を丸め、両腕で自分を抱いている。だが男の顔は凍えているどころか赤黒く火照り、唇は乾いて裂けていた。火を消す側の人間が、火の気ひとつない春の夕方に、世界ごと凍えている。男の周囲だけ、空気が陽炎のように歪んで見えた。歪みが通った場所から、音もなく世界が白く染まっていく。
イヤーカフでエージェントが甲高い警告音を立てた。『当該区画は危険です。退避経路を表示します』。ARレンズの視界端に緑の矢印が点り、来た道を指す。周りの野次馬たちの耳元でも、同じ音が鳴っているのだろう。人垣がずるずると後退していく。合理的で、正しくて、誰も責められない退避だった。
逃げるべきだった。足はそう言っていた。矢印もそう言っていた。
なのに、湊は動けなかった。
流れ込んできたからだ。教室の比じゃない。理由のわからない喪失感が、氷の街区の中心から、真っ直ぐに湊へ注ぎ込んでくる。熱い、と思った。何かを失った後の感情ではない。二度と失うまいとして、世界ごと固めてしまうような絶望だった。
湊は網膜の矢印を消した。指先ひとつの短い操作で、それは消えた。消してから、自分が消したことに気づいた。
「……あんた」
何を言うかは決めていなかった。決めていたのは、あの顔をひとりにしないことだけだった。湊は、規制も何もない氷の境界線を、一歩、越えた。
視界の端で誰かが叫んだ。ドローンの警告音が遠くで鳴った。それら全部が急に遠のいて、世界がやけに静かになって、そして。
視界が、白く灼けた。
目の奥で何かが灯る感覚があった。痛みではなかった。強いて言うなら——起動音のない起動、みたいな。自分の内側の、今まで一度も開いたことのない部屋に、灯りがついた。
男がこちらを見た。
泣きそうな顔をしていた。大の大人が、迷子の子どもみたいな顔で、湊を見た。その口が何か言いかけた、その時。
「下がれ!」
横合いから伸びた腕が、湊の襟首を掴んで引き戻した。目出し帽の救助隊——いや、あれは本当に救助隊だったのか——が数人、白い街区へ駆け込んでいく。男が崩れ落ちるのが、人垣の向こうに一瞬だけ見えた。氷の広がりが、止まった。
あとはもう、野次馬の壁と、規制線と、「解散してください」の機械音声だけだった。
人垣の中で、湊は襟首を掴んだ手の主を探した。いなかった。目出し帽の一団も、崩れた男も、規制線の白いシートの向こうに消えて、二度と見えなかった。救急車のサイレンは、最後まで聞こえなかった。
帰り道、湊は何度も自分の手を見た。震えは、寒さのせいだけではなかったと思う。指先にはまだ、あの熱が残っていた。他人の絶望の熱だ。理由も名前も知らない男の「もう何も燃えてほしくない」が、拾った火種みたいに、手のひらでちりちりと燻っている。
なんで、俺だったんだろう。
あの場には何十人もいた。誰の耳にも同じ警告が鳴って、誰の網膜にも同じ矢印が出て、みんな正しく下がった。下がれなかったのは、たぶん、自分だけだった。
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「おかえり。ごはんは?」
「……食う」
玄関を上がるなり味噌汁の匂いがして、湊は少しだけ現実に戻った。母の遥は惣菜屋のパート帰りで、まだエプロンのままだった。
「商店街の方、なんか事故あったんだって? 検問みたいなのやってた」
「……ああ、うん。よく見えなかった」
嘘をついた自覚はあった。ただ、何をどう話せばいいのか、わからなかった。あの男の絶望が自分の中にまだ残っていて、味噌汁の湯気の向こうで、じくじくと熱を持っている。それを食卓に持ち込みたくなかった。
「ふうん」
遥はそれ以上聞かなかった。かわりに湊の茶碗に、勝手に大盛りの飯をよそった。
「あんた今日、なんか顔色おかしいから。食べな」
こういうところは、敵わないと思う。
食卓の隅では、小型の家事端末が明日の天気を小声で読み上げていた。異常低温への注意を促す合成音声に、遥が「四月に霜って、変な年だねえ」と返す。機械は律儀に「ご意見ありがとうございます」と答えた。名前のない同居人と、名前を付ける気もない家族の、いつもの夜だった。
箸を持ってから、湊は自分が異様に腹が減っていることに気づいた。大盛りの飯が消え、おかわりが消え、遥が「育ち盛りか」と呆れて三杯目をよそった。食っても食っても、体の底が薄ら寒い。まるでどこかで、大量の燃料を使い果たしたみたいに。
風呂に入る前、湊は洗面所の鏡の前で、手を止めた。
端末にミラーを開く。夕方の凍結事件を検索した。さっきまで山ほど流れていたはずの目撃映像が、もうほとんど出てこない。かわりに「4月の異常寒波、観測史上——」という気象記事と、「商店街の冷凍設備事故か」というまとめと、明らかに作り物の氷の街の画像が、何十件も並んでいた。どれが本物だったのか、もう分からない。
どれが本物だったのか、もう分からない。自分の目で見たはずのものまで、検索結果の砂の中で輪郭が溶けていく。あの男は事故として処理されるのだろうか。それとも、最初から「いなかったこと」になるのだろうか。
湊は端末のメモに、見たままを三行だけ打った。白い街。迷子の顔の大人。最後まで来なかった救急車。なんで残すのかは、自分でも分からなかった。
顔を上げた。
鏡の中の自分と、目が合った。
濃い茶色の虹彩の奥で、淡い光が、燐光のように揺れていた。
湊は蛇口をひねり、顔を洗い、もう一度鏡を見た。光は消えていなかった。呼吸を三つ数える間、燐光は心拍に合わせて静かに明滅した。
「……なんだよ、これ」
湊は、長いこと、そこから動けなかった。左手首の古い痕が、今夜はずっと、微かに熱を持っていた。
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【観察記録 ——続き】
深夜、奇妙なことがありました。
夕方に確かに存在した凍結事件の映像が、数時間で検索の海に沈んだこと。削除ではありません。偽物の洪水で、本物を溺れさせる手口です。これは事故の後始末ではない。観測されることを恐れる何者かが、この街の記憶を薄めている。
仮説ですが。今日、この都市で、観測すべき現象が一つ増えた。わたしはまだ、その中心に誰がいたのかを知りません。
(ep001 了)




