預かり証
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土曜の朝の定点観測は、七時に始めて、いつもは二十分で終わる。区の発表、消防の発表、交通、それから自分で足した項目がいくつか。集計は画面が半分やってくれるが、引っかかりは画面が拾ってくれない。拾うのは目の仕事で、目の仕事の前にコーヒーを淹れるのが手順になっている。不味い。不味いのは豆ではなく淹れ方だと分かっているが、直す気はない。
今朝は、いつもより一項目だけ長くかかった。
小火の項目だった。三週間前に一つ足した項目で、足してから二件、引っかかっている。今朝、三件目が引っかかった。区の外れの、古い建物の一室焼損。けが人なし。原因調査中。記事は二行で、写真はなかった。
京香は三件を並べて書いた。日付。場所。建物の種類。発表の文言。並べると、発表の文言だけが、三件とも同じ形をしていた。同じ発表元だから同じ形になる、というのが普通の説明で、普通の説明は今のところ崩れていない。崩れていないことも書いた。系列、という言葉を書くかどうかで少し迷い、書かなかった。三件は、まだ三件だ。束にするのは、四件目か、三件をつなぐ糸が出てからでいい。
かわりに、地図に三つの点を打った。点は、打っただけでは何も言わない。何も言わない点を眺める時間を、京香は朝の五分に足した。
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昼前に、借りた本を返しに行った。
早瀬の事務所は、駅の反対側の雑居ビルの三階にある。エレベーターは古く、三階まで、階段より少し遅かった。
資料の詰まった部屋に、机が一つ埋まっている。それが事務所だった。ドアは開いていた。開いているのは不用心ではなく、閉めると空気がこもって紙が傷む、というのが本人の言い分だ。早瀬は机の画面に向かって、配信の管理画面を出していた。購読者の数字の頁ではなく、解約の数字の頁だった。毎朝そっちを先に見る、と前に本人が言っていた。増えた方は嘘をつくが、減った方は嘘をつかない、のだそうだ。
「汐見か。入れ」振り向かずに言った。「茶はセルフだ」
京香は本を机の端に置いた。借りたときのまま、カバーの角も折れていない。早瀬は本をちらりと見て、返却の予定日を確かめるように頷いた。期限は今日だった。この人に借りたものは、期限の日に返す。八年で身についた、数少ない健全な習慣だと思っている。
湯を沸かす間に、部屋を見た。壁の棚に、紙の資料が高さを揃えて並んでいる。窓際に、発送前のニュースレターの束。束のいちばん上の宛名は印字だったが、宛名の横に短い手書きが添えてあった。前号の礼への、返礼らしかった。
早瀬は配信の画面を閉じ、来客用の丸椅子の上の資料の束を持ち上げて、床の定位置らしい場所へ移した。移す場所が決まっている、という移し方だった。京香は空いた丸椅子に座った。
「で」と早瀬が言った。椅子を回して、こちらを向いた。「本を返すだけなら、宅配で済む」
「済むけど、顔を見に来た」
「嘘をつけ。……いや、半分は本当か」早瀬は椅子の背にもたれた。「先に言っておくことがある。預かってるやつ、読んだ」
京香は、湯呑みを持ったまま、一拍止まった。
「読んだ、って」
「全部だ。索引から本体まで」早瀬の声から、軽さが抜けていた。「閲覧は、検証の準備の分として、預かり証に入ってる。それは知ってのとおりだ。ただし、読む前に知らせる、が条件だった。俺は知らせてない。読み終えてから、いま知らせてる。順番を破った。それが一つ。もう一つ——準備のつもりで開いて、判断まで進んだ。あれは記事になる。裏が全部通れば、だが」
部屋が静かになった。廊下の奥で、給湯器が湯の沸いた音を立てた。
「引き上げる」
先に、口が動いた。動いてから、引き上げた先の置き場所を、自分が持っていないことに気づいた。貸金庫は一つ埋まっている。三つ目の置き場所を早瀬より信用できるあてが、いまのわたしにあるか。答えが出るまで、湯呑み一杯ぶんの時間がかかった。その間、早瀬は何も言わなかった。取り消しも、弁明も、しなかった。
「……いまのは、保留」
「ああ」
怒りは、消えていなかった。消えていないまま、京香は預かり証の文面を思い出していた。知らせてから読む人だと、わたしは決めてかかっていた。決めてかかった部分は、文面の外にあった。文面の外は、破られても文面のせいにできない。
「検証が先」と京香は言った。「前もそう言った」
「言った。だから訊く。検証は、どこまで進んだ」
「認証情報の再検証の手順書は付けてある。第三者がやり直せる形になってる。ただ、やり直した第三者が、まだいない」
「なら、俺がやる」早瀬は机の抽斗から紙を出した。もう書いてあった。日付。作業の範囲。結果をどう扱うか。記事にはしない、という一行が、今度は書いてあった。「読んだ詫びだ。俺の時間で、俺の機材で、手順書どおりにやる。結果は、あんたにだけ渡す。記事にするかどうかは、検証が終わってから、改めて話す。——これでどうだ」
文面を二度読んだ。穴を探して、見つからなかった。見つからなかったことが、少し悔しかった。
「一箇所」と京香は言った。「『結果をあんたにだけ渡す』の前に、『作業中の複製は作らない』を足して」
「……抜けてたな」早瀬はペンを取って、その場で書き足した。書き足した行の横に、日付を入れた。「これだから、二人で書く方がいい」
それから早瀬は、抽斗の奥から預かり証の原本を出した。半年前に三度書き直した、あの紙だ。裏を返して、余白に一行書いた。読了、と日付。書いてから、紙を京香の方へ向けて、見えるように置いた。
「事後報告を文面にしても、事後は消えない」と早瀬は言った。「消えないものは、日付をつけて残す」
京香は頷いた。頷く以外の返事は、この場面には過剰だった。
訊きたいことは、一つ残っていた。読んで、どう思ったか、だ。訊かなかった。感想は検証の敵だ。敵だと知っている相手に、わざわざ武器を渡すことはない。かわりに、湯呑みの茶を最後まで飲んだ。飲み終える間、早瀬も何も言わなかった。この沈黙の使い方が、この人と長く続いている理由の大半だと思う。
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帰り際に、小火の話はしなかった。言いかけて、やめた。預かり物の線と、小火の線は、まだ別の線だ。別の線を同じ人に預けると、預けた先で勝手につながる。つながるなら、わたしのノートの上でつながるのが先だ。
階段を降りながら——エレベーターを待つ気になれなかった——京香は、保留、と言った自分の声を思い返した。引き上げる、が先に出たことは、書いておくべきだろうか。手順の話ではない。手順の外の話だ。ノートには書かず、手帳の方に、短く書いた。手帳は、手順の外のためにある。
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日曜は、三件目の現場を外から見に行った。
古い建物の一室で、焼けた窓には板が当ててあった。板の木口はまだ新しく、留め具も錆びていなかった。貼り紙は管理会社の定型文で、日付は金曜、連絡先の番号だけが手書きだった。手書きの番号をノートに書き写し、建物の写真を二枚撮った。角度を変えて、板と貼り紙が両方入るように。近所の人には聞かなかった。聞く段階ではない。段階を守るのは、退屈で、退屈さが取材の背骨だと、これも八年で覚えた。
建物の前の通りを、日曜の家族連れが二組通った。焼けた窓を見上げる人は、いなかった。向かいの自販機が、誰も居ない通りに向かって季節の新商品を小さく告知していた。二行の記事は、もう検索の底に沈んでいる。沈み方が自然かどうかを測るのが、わたしの朝の五分だ。五分で足りなくなったら、そのときに考える。
帰り道、地図の三つの点をもう一度見た。点と点の間に、線は引かなかった。引かない我慢も書いた。
夕方、早瀬から短い文が来た。【機材の都合で、作業は水曜から。手順書の三頁目、誤字が一つある。直しておけ】。誤字の位置まで書いてあった。行と、文字数まで。確かめると、あった。半年前に書いた手順書を、この人は昨日の今日で三頁目まで読み込んでいる。直して、礼を返した。礼の返信に、早瀬は返信しなかった。いつものことだ。既読の印だけが、少し遅れてついた。
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月曜の朝——と書きかけて、京香は手帳の走り書きを消した。日曜の夜のうちに書いておくことが、もう一つあった。
昼食の件だ。帰り際、早瀬が言ったのだった。
「そういえば、三軒目の隣に新しい店ができた。定食屋だ」
「開拓するの」
「する。今度な」
「今度っていつ」
「あんたの検証が一段落したら、だ。店はそっちが決めろ。俺は三軒で回ってるから、四軒目の決め方を忘れた」
「三軒で足りてる人が、なんで四軒目の話をするの」
「足りてるかどうかは、四軒目を試してから言うもんだ」早瀬は真顔で言って、それから自分で少し笑った。「……という理屈を、いま作った」
決めろ、と言われて、まだ決めていない。候補は二つある。定食屋の新店と、前から気になっていた路地の蕎麦屋。どちらも入ったことがない。二つのまま、手帳の端に書いておいた。決めるのは、検証が一段落してからでいい。
書き終えて、手帳を閉じた。明日の予定は三つ。定点観測。バス会社の返答の確認。手順書の誤字の再点検。三つとも、派手さのない予定だった。
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【観察記録 ——続き】
日曜の夜です。返事は、まだ来ていません。
見積もりの内側なので、頁には「待った」とだけ書きます。二日続けて同じ三文字を書くのは、四ヶ月で初めてです。同じ三文字が続く頁は、悪い頁ではないと思うことにしました。
今日の頁は、以上です。
(ep038 了)




