読む人
---
【観察記録 ——相良慧】
木曜、晴れ。朝いちばんに、条件文書を発送しました。図書館気付、檜山望様。四項目、二枚。約束から五日での発送は、わたしの仕事としては早い方です。
それから、昨夜の着信の件です。受信専用の連絡先に、非通知の照会が一件。呼び出しは三秒。事実は昨日の頁に書きました。今日は、その事実が誰のものかを、手順で確かめます。手順は三行で足ります。足りてしまうことが、昨夜から少し、恐いです。
---
郵便の窓口は、朝の九時に開く。
窓口の前には、慧のほかに二人並んでいた。前の人は小包で、その前の人は、集荷ドローンの返却容器を抱えていた。順番はすぐ来た。自動受付の台に封筒を載せると、重さと宛先が読み上げられ、料金が表示された。図書館気付、という宛先の形式に、機械は一秒だけ長く考えて、それから受理した。投函口が開いて、封筒が水平のまま吸い込まれ、閉じた。控えの票が、印字の音を短く立てて出てくる。慧は控えを財布ではなく、研究記録の間に挟んだ。これは郵便の控えであると同時に、約束の控えだからだ。挟む頁を選ぶのに、少しだけ時間を使った。
宿への帰り道を、慧はわざと遠回りした。商店の並びで、開店前の店の軒先に清掃ロボットが一台、壁際に寄って充電の順番を待っていた。木曜の朝の通りは、木曜の朝の速さで動いていた。歩きながら、頭の中で検証を組み立てた。組み立ては、三行で終わった。
一行目。照会が来た連絡先は、実験用の別紙にしか書かれていない。父のノートの原本にはない。わたしの研究記録の本体にもない。世界のどこにも、あの紙一枚にしかない番号だ。
二行目。別紙に書いた名前は、実在しない。わたしが作った一名だ。その名を調べようとする人は、別紙を読んだ人のほかに、あり得ない。
三行目。別紙を読めた人の一覧。わたし。それから——先月の夜、あの紙を「整理しておきました」と束に綴じ込んだ人。
一覧は、二人で終わりだった。わたしは照会していない。
ただし、と慧は歩きながら自分に注をつけた。三行で言えるのは、別紙の情報があの人を経由して外へ出た、というところまでだ。番号は口頭でも渡せる。照会の指を動かしたのが本人か、渡った先の誰かかは、紙の上では決められない。決められないものを決めた顔で書くのは、わたしの仕事ではない。
それでも消去法は、算数だった。算数の答えが出る瞬間を、慧は歩道の真ん中で迎えた。立ち止まらなかった。立ち止まると、答えが体に追いつく気がした。
宿に戻って、研究記録を開いた。実験の頁に、結果を書く欄を作ってあった。ペンを持って、欄の前で、手が止まった。
手が止まるのは、初めてではない。書くべきことが分からないときに、止まる。今日は違った。書けるところまでは三行で分かっていて、書いたら戻れないから、止まっていた。止まっている時間も観測のうちだと思い直して、時計を見た。四分。四分ぶん、わたしは戻れなさを惜しんだ。それも書いた。
結果の欄は、まだ埋めなかった。かわりに、仮説の欄に書いた。
【仮説: 実験用の別紙は、同行者に読まれ、記載の連絡先は同行者を経由して利用された。照会を行ったのが本人かどうかは、未確認】
未確認、の三文字を書けたことに、少しだけ息が楽になった。未確認は、確かめられる、ということだ。確かめる方法は、一つしかなかった。
そこまで書いて、ペンを置いた。
書かなかったことが、もう一つある。この人は誰なのか、という問いだ。疑いなら、ある。三ヶ月半ぶんの、細かい符合の束がある。だが疑いは、仮説の欄にも書かない。今夜確かめるのは、照会の一点だけだ。一点に絞れないなら、わたしはたぶん、何も確かめられない。
---
夜、慧は照会の記録を紙に書き写した。日付。時刻。非通知。三秒。四項目を、一行ずつ改行して書いた。読み違えようのない書き方を選んだ。書き写した紙を二つ折りにし、開いて、折り目を伸ばした。折ってあると、渡す前に一拍増える。増える一拍に、自分が逃げ込みそうだった。
紙を持って、部屋の卓へ行った。
玲二は、湯を注いでいた。二人ぶん。急須の蓋を指で軽く押さえる、四ヶ月、毎晩そうしてきた手つきのままだった。卓の上は、いつものとおり片づいていた。片づいた卓の広さが、今夜は紙一枚のためにあるように見えた。
慧は、紙を卓に置いた。玲二の湯呑みの、すぐ手前に。
「あなたが、照会しましたか」
「——はい」
間が、なかった。湯気が立っていた。玲二は紙を手に取らなかった。取らないまま、書いてある四行を読み終えている目の動きだけがあった。玲二は湯呑みを慧の側へ一つ押し出し、自分のを手に取った。湯呑みの底が卓を滑る、短い音がした。
「何のためですか」
「それには、答えません」
これにも、間がなかった。
慧は、自分の声が普通に出ていることに気づいていた。普通に出ている、と観察している自分にも気づいていた。観察は、恐さの置き場所だった。置き場所がなければ、たぶん声は普通に出ていない。
聞きたいことは、まだ列を作っていた。いつから。どうやって。父のノートの、どの頁まで。列の先頭には、もっと大きな問いが立っていた。慧はその列を、全部、留め置いた。答えません、と言った人に問いを重ねても、増えるのは拒否の記録だけだ。拒否の記録なら、もう一件ある。一件で足りる。
「分かりました」と慧は言った。「今夜は、以上です」
玲二は頷いて、茶を飲んだ。慧も、押し出された湯呑みに、手を伸ばした。伸ばしてから、自分がドアまでの歩数を数えていたことに気づいた。数えるのをやめなかった。六歩。数えたまま、茶を一口飲んだ。温度は、いつもの夜と同じだった。同じであることが、今夜はいちばん奇妙だった。
自分の机に戻って、慧は今夜の二つの答えを、聞いたとおりの言葉で書いた。はい。それには、答えません。鉤括弧をつけて、言い換えをしなかった。
それから、昼間の仮説の欄の下に、結果の欄を埋めた。
【結果: 照会は、同行者本人が行った(本人の回答による)。わたしの記録とリストは、わたしの同意なく利用されていた】
未確認の三文字に、線を引いた。確かめる、は済んだ。済んで、楽になった息は、戻ってこなかった。書き終えても、部屋の反対側では、いつもの時刻に、いつもの順序で、灯りが消えた。慧はしばらく、消えた側の暗さを見てから、自分の灯りを消した。眠るまでの時間は、数えなかった。数えると長さが確定してしまう夜が、あるからだ。
---
金曜の朝、慧は三つのことをした。
一つ目。父のノートの原本を、共用の資料箱から出した。出すとき、束の順番を最初に写真に撮った。それから封筒に入れ、封の合わせ目に日付を書き、封をして、自分の鞄のいちばん底へ移した。鍵のある場所は宿の金庫だが、預けなかった。預ける相手を選ぶ基準が、昨日から一つ増えて、その基準を金庫の会社に確かめる方法がなかった。手元がいちばん狭くて、いちばん確かだった。
二つ目。条件文書の控えを開いて、「読む人の一覧」の欄を出した。二行のうち、二行目に、定規を当てて、線を引いた。ペン先が紙を渡る音が、部屋で一つだけの音だった。
二行目には、名前と、条件が書いてあった。時間をかけて書いた行だった。同行者にも読ませてよい、ただし、わたしの同意を毎回とること——そういう趣旨の、長い条件だった。書いた時点で、条件はもう破られていたことになる。線は一本で足りた。引いた線の下に、日付を書き添えた。理由は書かなかった。理由の欄が要らないくらい、昨日の頁が説明していた。
三つ目。これからの訪問の手順を書き換えた。訪ねる前に、条件文書の写しを先に送る。会うかどうかは、読んでから決めてもらう。誰の話を、どこに書いて、誰が読むのか——先に開示する。同意のない記録は、誰にも渡さない。渡さない、の中には、同じ部屋で寝起きしている人も入る。入れるのに、書き方の工夫は要らなかった。名前を書かずに、渡さない、と書けば足りた。
書き終えて、慧は手を止めた。今度の止まり方は、四分ではなかった。もっと長く、窓の外を見た。窓の下の道を、通学の列が通り、配達の台車が通り、傘を忘れたらしい人が空を確かめて通った。金曜の街は、こちらの事情を知らずに動いていて、知らないでいてくれることが、今朝は少しだけ助けになった。
四ヶ月、わたしは訪ねて、聞いて、書いてきた。守るための記録だと思って書いてきた。その記録を、わたしに隠れて読む人が、いちばん近くにいた。だとすると、わたしの旅は、誰の役に立っていたのか。
問いはそこまで形になって、それ以上は形にしなかった。これは事実の欄に書けない種類の問いで、書けない問いを抱えたまま歩くのは、荷物が一つ増えるのに似ていた。増えた荷物を、慧は下ろさないことに決めた。下ろし方を知らなかった、というのが正確かもしれない。正確な方を、頁には書いた。
---
昼前に、玲二が言った。
卓の上には、玲二の側の書類が開いていた。進行表の頁だった。頁の角は、いつものとおり揃っていた。
「次の訪問ですが」いつもの、進行表の声だった。「順番を、一つ戻します」
三度目の、順番の変更だった。一度目と二度目の理由を、慧は問いただしたことがある。三度目の今日は、聞かなかった。手元の頁を一枚めくって、めくった音だけを返事にした。
戻る先は、聞くまでもなかった。一人で訪ねて、条件の返事を待っている人。今朝、わたしの封筒が向かった先。
「訪問は、待ってください」と慧は言った。「先方には、条件の文書を送ってあります。返事が来るまで、わたしは行きません」
「わかりました」玲二は言った。「では、わたしの都合だけ、先に整えておきます」
整える、が何を指すのかを、慧は聞かなかった。聞かない、が増えていく。増えた分は、全部、頁の側に置くことにした。
嘘のない言い方だった。嘘がないことと、安心できることが、別々のものだと、慧はこの四ヶ月で覚えた。別々のまま、午後の卓に、二人ぶんの茶が並んだ。
慧は研究記録を開いて、今日の行き先の欄に、行き先だけを書いた。図書館の名前を書き、名前の横に、返事待ち、と小さく添えた。理由の欄は、空けたままにした。空欄も記録のうちだ。前にそう書いたときは、自分の空欄の話だった。今日のは、人の空欄だった。人の空欄は、自分のより、ずっと重かった。
---
【観察記録 ——続き】
条件文書の控えの、読む人の一覧は、一行になりました。
この頁から先を読む人は、当分、わたしだけです。書き方は、変えません。読む人が減っても、書くことは減らさない。それが今日決めた、いちばん短い条件です。
今日の頁は、以上です。
(ep037 了)




