返答
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あの「なんでもない。迷惑メール」から、一週間と少し経っていた。
その間、湊は聞かなかった。雪も聞かなかった。宙は二回聞きかけて、二回とも透の「地図の話しようぜ」に流された。聞かないでいることと、気にしないでいることは別で、別のまま一週間は過ぎた。過ぎる、というより、全員で持っていた。誰の荷物かも分からないまま、四人で持てば軽くなるわけでもない何かを。
水曜の夕方、透から全員に、短い文が来た。
【縁石。五時。話がある】
透が集合をかけたのは、初めてだった。地図の報告でも、冗談でもない呼び方も、初めてだった。湊は五時三分前に着いた。雪はもう座っていた。宙は縁石の少し手前で、珍しく静かに立っていた。
夕方の通りは、いつもの音をしていた。惣菜屋の呼び込みの自動音声。配送ロボットの充電待ちの列。縁石の埋めた跡は、もう周りの色と区別がつきにくくなっている。区別がつかなくなるまで、二ヶ月かかった。
透は、五時ちょうどに来た。目の下に、寝てない色があった。来て、座らずに、鞄から紙の束を出した。
「先に、謝る。おれ、一週間、隠しごとしてた」
差し出された紙を、湊は受け取った。薄い書類だった。書式は整っていて、条文は短くて、読める言葉で書いてあった。
登録観測員、という言葉が目に入った。契約。業務。対価。住居。生活費。記録の、恒久的な保全。
「……なにこれ」
「スカウト」透は短く言った。「おれを、覚えててくれる会社。制度が、だけど」
冗談の形をした声で、冗談の中身ではなかった。湊は書類をもう一枚めくった。めくった先で、手が止まった。
【対象概況(抜粋)】とある頁だった。
透の名前。年齢。行動の傾向。その下に、箇条書きが並んでいた。
【記録への強い執着。毎朝の自己記録の習慣あり】
【携行端末のほか、予備端末を外部に預けている可能性】
【交友関係は狭く深い。特定の一名のみ、対象を継続的に記憶している事例を確認(要検証)】
湊は、その行を三回読んだ。読んでいる間、紙を持つ自分の指が、紙の端を少し潰しているのに気づいた。気づいて、緩めた。
特定の一名。俺のことだ。俺のことが、俺の知らない書類の、箇条書きの一行になっている。名前は書いていない。書いていないのに、書いてあるより恐かった。名前を知る必要が、向こうにはまだないというだけの話だからだ。
「これ、渡してきたのか。向こうから」
「ああ。おれがどれだけ調べられてるか、隠さない方針らしい」透は縁石に腰を下ろした。「親切だろ。……親切なんだよ、最初から最後まで。それが一番きつかった」
「きつい、って言えてるの、いま初めてじゃない?」と宙が言った。茶化す声ではなかった。透は答えなかった。答えないことが、答えのようだった。
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説明は、長くなかった。透の説明はいつも短い。受信のこと。ファミレスのこと。九十秒ごとに読み直す男のこと。「あなたを知り直し続ける制度なら、作れます」と言われたこと。断りの下書きを、一週間書けなかったこと。
「嘘、ひとつもなかったんだよ」と透は言った。「値段のとこも、条件のとこも、たぶん全部本当。……本当のことだけ言われると、断る場所がなくてさ。断る場所がないまま、一週間経った」
誰も、途中で口を挟まなかった。挟まなかったのは、優しさというより、挟む言葉が見つからなかったからだと、湊は自分の分については分かっていた。雪は膝の上で両手を重ねて、じっと聞いていた。宙は一度だけ口を開きかけ、開きかけた口のまま、閉じた。
話し終えて、透は「以上」と言った。
「……怒っていいのか、まだ分かんない」と湊は言った。「分かんないから、先に聞く。返事は、どうすんの」
「断る」
即答だった。即答のわりに、透はそこから少し黙って、黙った分だけ、次の言葉は選ばれていた。
「向こうの言うとおり、おれは記録がないと、昨日のおれを今日に持って来られない。それは本当。制度があれば、選別もしなくていいし、容量も気にしなくていい。それも本当」透は、自分の端末を手の中で一回転させた。「でもさ。おれの記録、いま、置き場所が決まってんだよ。世界一安全なとこに」
湊は、何も言わなかった。言うと、別のものになる気がした。
「読み直されるのと、覚え直されるの、同じだと思ってた。この一週間、ずっと考えて——同じじゃなかった。どこが同じじゃないかは、まだうまく言えねえ」透は宙の方を見た。「おまえ、おれのこと三回に一回忘れるだろ」
「わ、悪かったな!」
「悪くねえよ。……悪くねえんだ、って分かるのに、一週間かかった。それだけ」
言えるようになっても、あいつらに言う義理はねえ。だから理由は書かない。断るだけ——と透は締めた。
透は端末を出して、その場で下書きを開いた。【お断りします。理由は】——一週間前の下書きの、理由は、から先を、透は全部消した。
残ったのは六文字だった。【お断りします】。
送信の前に、透は一度だけ顔を上げて、湊たちを順に見た。誰も、何も言わなかった。宙だけが親指を立てて、立てた親指の意味を自分でも決めかねている顔をしていた。
透は、送信した。
「……俺なら三時間で全部喋ってた」と宙が言った。「一週間は、すげえよ。すげえけど、二度とすんな」
「どっちだよ」
「どっちもだよ」
雪が、自分の端末を透に向けた。画面には、雪の記録の一行があった。【透くん。礼を全部言ってから帰った。=?】。雪はその場で、疑問符を消して、書き直した。【=言えた】。
透がそれを最後まで読んだのかは、分からなかった。読んだと分かる顔をする奴じゃない。透は「腹減った」と言った。
言ってから、鞄から菓子パンを出して、その場で食べ始めた。食べながら「で、地図の報告なんだけど」と続けようとして、宙に「今日はいい! 今日はもう、いいんだよそれは!」と止められていた。止められて、透は少しだけ笑った。笑い方が、一週間ぶんくらい下手になっていた。下手なままでも、笑ったのは全員が見た。
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解散の前に、湊はもう一度、対象概況の頁を開いた。
夕方の光が斜めになって、紙の上の箇条書きに、縁石の影が一本かかっていた。読み返すたび、同じ場所で同じだけ冷える。冷え方に慣れる前に、聞いておくことにした。
「なあ。これ、透くんのだけだと思うか」
誰も答えなかった。宙が必殺技リストを開きかけて、開かずに閉じた。雪は鞄の持ち手を、両手で持ち直した。答えの代わりに、全員が同じことを考えているのが分かった。
記録への執着。予備端末の在り処。特定の一名。箇条書きの一行ずつは、ただの観察の顔をしている。並べて読むと、観察ではなくなる。何になるのかは、言葉にする前に喉のところで止まった。書式があるということは、書式を埋める仕事があるということだ。仕事があるということは——
「全員ぶん、ある」
口に出すと、思ったより静かな声になった。静かな声のまま、通りの向こうを配送ロボットが一台、いつもの速さで通り過ぎていった。世界の側は、今日も普通の速さで動いている。動いている世界のどこかに、俺たちの頁がある。
「俺たちの欲しがるものが、一人ずつ書いてある。弱いとこも。……減らし方まで、書いてある。たぶん、全員ぶん」
雪の頁には何が書いてあるのか。治ること。自分を勘定に入れないこと。宙の頁には。物語の言葉のこと。認められたいこと。俺の頁には——考えると胃の底が冷えたが、冷えた分だけ、輪郭が見えた。
三週間前の路地で、俺の左側だけ空いていた道。あれは、逃がしたんじゃない。俺を残して、他を狙う印だった。睦さんとの間に、正確に埋められた間。あれは、捕まえないと決めた相手から、人だけを引いていく手つきだった。透に届いた、期限のない招待。ばらばらだったものが、一つの書式の上に並んだ。
あいつらは、俺を捕まえに来ない。俺から人を減らしに来る。減らし方は、力ずくじゃない。一人ずつ、その人の欲しいものと引き換えに。
夕食のとき、母さんが「今日は静かね」と言った。「うん」とだけ返した。返しながら、この食卓のことも、どこかの書式のどこかの欄に載る日が来るのかと考えて、考えを味噌汁と一緒に飲んだ。母さんは、それ以上聞かなかった。
夜、湊は記録を開いた。三度書いて埋まらなかった行の、下半分を埋めた。
【俺から人を減らす。方法=一人ずつ、欲しいものと引き換えに(書式がある)。理由=まだ不明】
理由の欄は、まだ埋まらない。埋まらない行は、消さない。消さないやり方だけは、もう全員のものになっている。
画面を閉じる前に、透から個別の文が一通来た。
【予備端末、返さなくていいから。置き場所、変える気ない】
机の引き出しの、いちばん奥に、その端末はある。預かってから二ヶ月、湊は一度も中を見ていない。見ないことが預かるということだと、誰に教わったわけでもなく、そう決めてある。引き出しを開けて、位置だけ確かめて、閉めた。
返信は、少し考えて、一言にした。
【了解】
了解、の二文字を、湊は送信の前に一回だけ読み直した。読み直す必要は、なかった。必要のないことをする夜が、たまにある。
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【観察記録 ——続き】
追記です。条件文書が、今日完成しました。四項目、二枚。明日、図書館気付で発送します。読む人の一覧は二行になり、二行目はここに写しません——写さない扱いも、条件のうちに入れました。
夜、受信専用の連絡先に、着信が一件ありました。
発信元は、番号非通知の照会代行。伝言はなく、呼び出しは三秒で切れています。日付と時刻を、実験の頁に書き写しました。終了条件のひとつが、二十七日を残して満たされたことになります。
誰が、の欄は、この頁にはまだありません。作るかどうかを、明日から考えます。
今日の頁は、以上です。
(ep036 了)




