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AIが全部の正解を先に出す2049年、わかり合った相手の超能力が写る。記憶も痛みも一緒にー人間未解ー  作者: 猫間じん


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32/74

同意書

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 検査の日の朝、凪は陽太に言った。


「今度の日曜、動物園行こうか」


 陽太は、口に入れかけた卵焼きを止めた。


「……ほんと?」


「ほんと」


「ほんとの、ほんと?」


「ほんとの、ほんと」


 二回確かめるのは、延期に慣れた子の確かめ方だ。慣れさせたのは私だ。陽太は卵焼きを飲み込んでから、慎重に「じゃあ、ゾウからね」と言った。図鑑の予習は、とっくに終わっているのだった。回る順番まで、たぶんもう決まっている。


 保育園に送る道で、陽太は水たまりを三つ、全部踏んだ。梅雨の晴れ間で、長靴ではない日だった。注意する言葉を、凪は二つ目まで飲み込んで、三つ目で「靴、乾かすの誰」と言った。「ぼく」と陽太は言った。言うだけなら、六歳は何でも言う。


 日曜が来る前に、今日を済ませる。凪はそういう順番で、今日を置いていた。順番を決めると、手続きになる。手続きは、考えなくていい。


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 検査は、二階の奥の部屋だった。


 例の相談窓口と同じクリニックで、一階は今日も普通の内科だった。待合の年配の人が、イヤーカフに指を当てて、エージェントに薬の名前をゆっくり読み上げさせている。「次は、朝食のあとに、一錠」。機械の声に頷く速さが、孫の話を聞く速さだった。二階の廊下は今日も静かで、待合の椅子には今日も誰も座っていなかった。平日の昼はこんなもの、と前に思った自分の言葉を、凪は思い出し、今日は思い出しただけにした。


 白衣の技師がひとりと、タブレットがひとつ。技師は若く、動きに無駄がなく、名乗らなかった。名札はあった。名字だけの、どこにでもある名字。挨拶は感じがよく、雑談はゼロだった。採血の上手な人は雑談で気を逸らすものだが、この人は逸らす必要を感じていないらしかった。


 検査は問診から始まった。


 問診は、丁寧だった。既往歴、服薬、勤務形態、生活リズム。ここまでは普通だ。普通でなくなったのは、途中からだった。


「夜勤の周期は、ご自身で調整可能ですか」


「連続して三日、来院することは可能ですか」


「体調が大きく崩れたとき、そばにいらっしゃるのは、どなたですか」


「お住まいから当院まで、交通手段は何通りありますか」


 凪は答えながら、職業の耳で項目を数えていた。症状の質問と、生活の質問。数えると、生活の方が多い。病名を絞っていく問診なら、症状の枝を降りていくはずだ。この問診は、枝を降りない。私がどこにいて、いつ動けて、誰とつながっているかを、外側から測っている。


 病名を絞る質問ではなく、管理可能性を測る質問——という言い方が浮かんで、浮かんだ言い方は職業柄のものなので、気がする、の棚に置いた。


 採血は一本。駆血帯の締め方も、針の角度も、抜いたあとの押さえ方も、教科書どおりに正確だった。正確すぎて、逆に現場の匂いがしなかった。何がどう違うのかは、うまく言えなかった。言えないまま、腕の内側に絆創膏が貼られた。


 口の中の粘膜も、綿棒で取られた。「ウイルスの検査ですか」と聞くと、技師は「項目に含まれます」と答えた。含まれます、は、それですとは言っていない。言っていないことを、凪は数えた。数は、今日はもう両手に近い。


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 次の部屋は、薄暗かった。


 安静時の脳活動と、自律神経の測定です、と技師は言った。リクライニングの椅子。頭と胸と指先に、柔らかい電極。装置はどれも、病院で見たことのある型か、その新しい世代に見えた。見たことのない機械は、ひとつもなかった。ひとつもないことが、かえって少し、意外だった。


「目を閉じて、楽にしていてください。眠っても構いません」


 眠らない人間に、眠っても構いません、と言う。文面どおりなら私はここで一晩中こうしていられる。凪は目を閉じ、呼吸を数えた。


 十四まで数えたところで、黒い水が流れた。


 膝までの高さ。廊下ではなく、この部屋の床を。音もなく、右から左へ。三秒——いや、二秒。瞬きの裏で消えた。


 凪は目を開けなかった。開けなければ、外からはただの安静だ。心拍は上がっただろうか。上がっていれば、線に出る。出たのか、出なかったのか、こちらからは分からない。技師の椅子の動く音は、しなかった。


 残りの十八分、水は流れなかった。かわりに、待つことについて考えた。待合の誰もいない椅子。三週間先まで埋まっていた予約。埋まっているはずの枠の、静かな廊下。考えは進まず、進まないまま電極の下で、凪の心拍はたぶん、退屈の形に戻っていった。戻っていく形も、線に出る。


 測定は二十分で終わった。技師は「お疲れさまでした」とだけ言った。電極を外す手つきは、貼るときと同じ速さだった。画面をこちらに向けることは、最後までなかった。向けてください、と言う権利があるのかどうかを、凪は帰ってから調べることにして、頭の隅に置いた。


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 最後の部屋は、また質問だった。今度は紙——ではなく、タブレットの質問票だ。


 睡眠についての項目が、二頁続いた。寝つき、中途覚醒、日中の眠気。凪は正確に答えた。正確に答えると、私の睡眠は「問題なし」の形になる。眠らない人間の睡眠は、質問票の上ではいつも健康だ。


 三頁目に進む前に、画面に短い文が出た。【ここからの質問には、正しいも間違いもありません。当てはまるものを選んでください】。正しいも間違いもない、とわざわざ書く質問ほど、答えで人を分けるための質問だ。これも職業柄の見方なので、画面を送る指の速さだけ、いつもどおりに保った。


 三頁目から、質問が変わった。


 【実際にはないものが見える、または聞こえることがありますか】


 【自分がどこにいるか、一瞬わからなくなることがありますか】


 【身体の内側から、自分のものではない声や音を感じることがありますか】


 うつや不安の尺度なら、仕事で何度も見てきた。項目の並びも、聞き方の癖も、だいたい頭に入っている。これは、どれとも並びが違う。病気を探す並びではなく、何かの有無を確かめる並び。何の、までは分からない。


 凪は、指を止めた。


 さっきの部屋の、黒い水のことを思った。それから、答えた。


 【見えることが、あります——疲れているとき、ごくまれに】


 嘘ではない。嘘ではない答え方を、私はいま、選んで作った。患者がこういう答え方をするとき、私はいつも気づく側だった。気づく側の手つきで、気づかれない答えを書いている。書き終えてから、自分の指を少しの間、見た。


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 全部で二時間だった。


 会計はなかった(「ご負担はありません」)。帰り際、相談員——初回と同じ、灰色のカーディガンの男が現れて、面談の予約票を差し出した。結果のご説明は二週間後、と。


 予約票の下の方に、印字が一行あった。


 【ご家族の同席も可能です】


「……家族、というのは」


「ご本人が安心できる方でしたら、どなたでも」男は感じよく言った。「お子さんの同席も、当院は歓迎しています。キッズスペースもございますので」


 お子さん、と男は言った。私は今日、家族構成の欄に、続柄と年齢しか書いていない。書いた情報のとおりではある。とおりではあるが、その欄からこの言い方までの距離を、この人たちは一息で歩いてくる。


 凪は礼を言い、予約票を受け取った。それから、いちばん平坦な声で聞いた。


「同席は、必要ですか」


「いいえ、任意です」男は少しも揺れなかった。「ただ、ご家庭の状況を伺えると、ご提案の幅が広がりますので」


 ご提案、の中身を、この人はまだ一度も言っていない。言われていないものの数が、今日、両手を越えた。


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 保育園の帰り道、陽太は動物園の話を三回した。三回とも、ゾウから始まった。


「お母さん、日曜、雨だったらどうする?」


「雨でも行こう。カッパ着て」


「ゾウ、雨の日って外いるのかな」


「いるんじゃない? ゾウだし」


「ゾウだしって、なに」


 陽太が笑った。それから急に真顔になって、「あのね、ぼく、お弁当はおにぎりがいい。丸いの。三角じゃなくて」と、大事な連絡事項の声で言った。丸いおにぎり、と凪は復唱した。復唱すると、予定は約束になる。仕事で覚えた手順が、こういうところで役に立つ。笑い声を聞きながら、凪は鞄の中の予約票のことを、考えないことにした。考えないことにした、と決めた時点で考えているのだが、それは今夜、陽太が寝てからの分だ。


 夜、陽太を寝かせてから、凪は食卓で一人になった。


 湯を沸かして、飲まない茶を淹れた。淹れる手順のために淹れる茶だ。湯気が落ち着くのを待ってから、予約票を出した。


 日付。時刻。持ち物、特にありません。そして一行。【ご家族の同席も可能です】。


 家族、の欄に書いたのは、六歳の名前だけだ。


 同席が任意なら、書く必要のない一行だ。書いてあるのは、書けば読む人がいるからで、読んだ人の何割かは、連れて行くからだ。何割か、の側に自分が入るかどうかを、この紙は静かに聞いている。聞かれていることにしたのも私の解釈で、解釈は書かない。書かないが、答えだけは決めた。連れて行かない。


 凪はシフト表を開いて、面談の日付を書き写した。前と同じ字で書けたかどうか、今日は自信がなかった。書き写した隣の日曜の欄に、先に書いてあった予定が目に入った。【動物園(ゾウから)】。


 順番はこれでいい。日曜が先で、面談はあとだ。先に来る方を、ちゃんと先に済ませる。それだけを決めて、凪は台所の電気を消した。


---


【観察記録 ——続き】


追記です。訪問に備えて、今日は早めに休みます。


寝る前に、質問の一覧を読み返しました。いつもの手順、いつもの並びです。並びの最後にひとつ、いつもは置かない質問を足すかどうかを迷って、足さずにおきました。迷ったことだけ、ここに書いておきます。


今日の頁は、以上です。


(ep032 了)


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