借り火
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朝いちばんの滞在所は、空振りだった。
「炭谷さん? さっき出たよ。なんか、相談? 病院? そういうとこ行くって」
入口の長椅子の年配の人が、教えてくれた。雪が昨日から言っていた、朝から行く、は正しかった。正しかったのに、間に合っていない。
道は二本しかない。駅へ出る大通りと、旧市場のアーケードを抜ける近道。透の声が耳元で言った。『アーケード。昨日、外で待ってる間に一周した。朝はほとんどシャッター。人が少ない道を、あの人は選ぶ』
人が少ない道を選ぶのは、荷物のためではない。誰かとすれ違わないためだ。すれ違うと、世話を焼いてしまうから。一日会っただけの俺でも、それくらいは分かるようになっていた。
アーケードの入口が見えたとき、宙の声が割り込んだ。高いところではなく、今日はアーケードの反対側の入口にいる。
『いた。……ミナト氏、先客がいる。銀色の頭。昨日の、雪氏のメモのやつだとおもう』
湊は走った。走りながら、胸の奥のどこかが冷えた。銀色の髪。俺はそれを、知っている。
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アーケードの中は、朝の薄暗さだった。閉じたシャッターの列に、天窓の光が落ちて、その光の中に二人、立っていた。
睦さんと、背の高い男。
男は睦さんに、静かな声で何かを話していた。詰め寄ってはいない。距離は正しく、姿勢は丁寧で、右手だけが、身体の脇で少しだけ持ち上がりかけていた。
あの夜の男だった。避難の夜、更地の手前で、いつの間にか隣に立っていた銀色の髪。名前も知らない。何者かも知らない。ただ、あのときと同じ、気配の薄い立ち方をしていた。
「睦さん!」
湊は呼んだ。呼んでから、名前で呼んだのは初めてだと気づいた。
睦さんが振り向いた。男も、こちらを見た。見て、驚かなかった。驚かない目のまま、何かを数え直したのが分かった。あの編上靴の人と同じ目の動きを、この男もする。
「あ、昨日の」睦さんの顔が、ほっと緩んだ。緩んで、それから困った。「えっと、いま、この人が——わたしの火事のこと、調べてる人なんだって。原因、教えてくれるって」
「その人、だめだ」
考えるより先に、口が出た。根拠を言えと言われたら、何もない。何もないのに、確かだった。
男は湊を見て、それから、初めて口を開いた声で言った。
「——君でしたか」
それだけだった。それだけで、湊の左手首の痕が、じわりと熱くなった。
そのときだった。アーケードの入口——湊が入ってきた側に、灰色のバンが停まった。降りてきた作業服が二人、急がない足取りで、こちらへ歩いてくる。反対側の入口にも、人影。挟まれている。挟まれているのに、誰も走らない。誰も走らないことが、この人たちの仕事の仕方だと、湊はもう知っている。
睦さんが、それを見た。
作業服。歩き方。火事。調べてる人。知らない男の子の「だめだ」。全部が、彼女の中でどう組み上がったのかは、分からない。分かるのは、結果だけだ。
睦さんの顔から、表情が落ちた。
「……わたし、なんだよね」小さい声だった。「あの火。配線じゃなくて。……わたし」
「睦さん——」
「来ないで」
両手が、勝手に持ち上がるのが見えた。持ち上がった手のひらから、火が、こぼれた。
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最初の炎は、天窓へ抜けた。
二度目からは、違った。睦さんの目が向いた先へ、火が走る。作業服の一人が跳び退き、シャッターが焦げた。男が一歩下がる。その動きを目が追って、また火が走る。見た方へ、向く。見られた人を、順番に。
「見ないで! お願い、こっち見ないで!」
睦さん自身が、いちばん叫んでいた。叫びながら、火は止まらない。止め方を、あの人は知らないのだ。昨日まで、自分が火元だとも知らなかったのだから。
湊たちは柱の陰にいた。透の声が、耳元で早口に言う。
『全員入口から出た。中はあの人と、おまえらだけ——ミナト、消火栓。三本目の柱の赤い箱。ホース十五メートル。そこまで、あの人を寄せられれば』
『波がある』と宙。『火、ずっとは出てない。息継ぎみたいに切れる。……次——今の! 三秒くらい空く!』
三秒。十五メートル。見られたら、火が来る。
湊は隣を見た。雪が、湊を見ていた。
「貸して、って言うんでしょ」と、雪が先に言った。
「……うん」火の波がまた走って、二人とも頭を下げた。柱の陰で、シャッターの焦げる匂いの中で、湊は言った。うまい言い方を探す時間は、なかった。「雪はもう、自分だけ勘定の外に置くの、やめようとしてる。全員で帰るほうに、自分も入れて。……そうだろ」
雪は、少しの間、黙っていた。
「……うん」
「なら、貸して。帰ってくるために使う。それでいいなら」
「帰ってきて」雪は湊の手を、両手で掴んだ。掴んだ手は小さくて、冷たくて、力が強かった。「貸すのは、そこまで」
流れ込んでくるものが、あった。
冷たい、静かな水の底みたいな場所。その底の隅に、小さくあたたかいものが、ひとつだけ置いてある。一瞬だけ、固いプリンの味がした気がした。気がしただけで、流れは閉じた。閉じたあとに、湊の身体の奥で、何かが二重になった。
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透のそれを、重ねて使った。
世界が湊の手を離す。睦さんの目が、湊のいた場所を素通りする。素通りされながら、湊は柱の陰を出た。
熱は、素通りしてくれなかった。
輻射の熱が頬を炙り、飛んだ火の粉が腕に落ちる。落ちた場所が焼け、焼けた場所が、治る。痛い。治るのに、痛い。痛みが引く速さだけが普通ではなくて、痛みの深さは普通のままだった。雪はこれを、と考えかけて、やめた。考えるのは、あとだ。いまは数だけ数える。三本目の柱。あと十歩。
『止まった——じゃない、波! 今の空きで寄せろ!』
宙の声。透の声が重なる。『三本目の柱——違う、待て、数え直す——四本目だ! 赤い箱、あと五歩、左! 悪い、反対の入口から数えてた!』
赤い箱の扉を開けた。ホースを引き出す。腕の火傷が治りながら、手が震えた。震える手で、ノズルを構えて、弁を全部開いた。
『今!』
水が、届いた。
白い蒸気が、アーケードいっぱいに膨れ上がった。火の壁が水に触れた場所から、音を立てて細っていく。睦さんの声が、蒸気の向こうで聞こえた。悲鳴ではなかった。息だった。長い、長い息。燃やし続けていた身体が、燃やすものを取り上げられて、初めて吐いた息。
膝をつく音がした。
蒸気が薄れると、睦さんは濡れた床に膝をついて、両手を見ていた。火は、もう出ていなかった。出す力が、身体のどこにも残っていない座り方だった。
雪が、走った。
睦さんの前に膝をつきかけた、その頭上で、熱に緩んだ看板の枠が、柱から外れた。落ちる先には、座り込んだ睦さんがいる。よければ、雪だけは間に合う。よけたら、下の人が残る。
雪は、よけなかった。睦さんに覆いかぶさって、枠を肩で受けた。受けた音は聞きたくない音で、それでも次の動きは止まらなかった。濡れた背中に、自分の上着をかけた。
「……帰るよ」と、雪が言った。「全員で」
肩は、たぶんもう治り始めている。治りながら、雪は睦さんを立たせて、肩を貸した。貸された睦さんは、朦朧としたまま、それでも雪の濡れた袖を直そうとした。直そうとする手を、雪は振り払わなかった。
湊は、最後に出た。出口の光の中で、雪が振り返って、湊が出てくるのを見ていた。見届けてから、前を向いた。約束は、それで果たされたことになった。
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外の通りで、睦さんは救護のシートに座らされた。
座らせたのは、湊たちではなかった。いつの間にか来ていた、感じのいい男の人だった。白衣ではない。灰色のカーディガン。「炭谷さん。ご予約の時間に見えないので、心配で」と、その人は本当に心配そうに言った。
睦さんは、自分の両手を見ていた。それから、湊と、雪を見た。
「……ごめんね。お茶、淹れるって言ったのに」
「淹れて」と雪が言った。「今度」
「うん」睦さんは笑おうとして、失敗して、それでも口の形だけ笑った。「でもわたし、先に、治さないと。……これ以上、誰かを焼きたくない。焼くくらいなら、わたし——」
わたし、の続きは、言わなかった。言わないまま、立ち上がって、カーディガンの人の方へ、自分の足で歩いた。
湊は、一歩追った。
追った分だけ、間に、人が入った。作業服が一人、書類を持った誰かが一人、それから車が一台、静かに滑り込んで、湊と睦さんの間の道を埋めた。誰も湊に触れなかった。誰も湊を見なかった。ただ、間だけが、正確に埋められていった。
車のドアが閉まる音がした。
柱廊の陰で、銀色の髪が動いた。男は持ち上げかけていた右手を下ろし、ポケットに入れて、背を向けた。去り際に一度だけ、こちらを——湊を見た。
「……お先に、失礼します」
それだけ言って、朝の光の中へ出ていった。追う理由を、湊はまだ持っていない。持っていないことが、悔しかった。
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帰り道、四人は長いこと黙っていた。口を開いたのは、湊だった。
「捕まえられたんだ、俺。何回も。今日も、この間も」歩きながら、言葉が先に出て、考えがあとから追いついてくる。「でも、あいつら、俺を捕まえない。この間は、俺の側だけ道が空いてた。今日は——俺と睦さんの間だけ、埋められた」
三日前の路地と、今日の通りを、頭の中で並べる。並べると、形が見えた。網でも、罠でもない。
「あいつらは、俺を捕まえに来てない。……俺から、人を減らしに来てる」
誰も、何も言わなかった。透が黙って、地図に何かを書き足した。宙が黙って、必殺技リストを開いて、何も書かずに閉じた。雪は、濡れたままの袖を、直さないままにしていた。
勝った、と言えるものが、どこにも見当たらなかった。火は消した。全員で帰っている。それなのに、四人の真ん中に、お茶を淹れる人のいない場所が、ひとつ空いていた。
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【観察記録 ——続き】
追記です。夕方の短信で、前にいた市街の火事を知りました。発生は今朝——同行者の不在と、重なります。昼に戻った同行者の上着が、煙のような匂いをまとっていたこと。いつもの続きに戻れた、と急いで確認したものを、いま数え直しています。
初めて、その場で聞きました。「二日、どちらに?」。答えは「人に、会う用でした」。場所はなく、代わりに「戻りの車内が、混んでいました」と。調べると、今朝混んでいたのは、あの市街からこちらへ来る列車だけでした。嘘はひとつもない。本当のことだけが、別の方角を指している。
別頁に三行。それから、あの一行——偶然は、三度までにしてください。期限は、今日で切れました。四度目の呼び名は、まだ決めていません。
(ep030 了)




