残す先
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【観察記録 ——相良慧】
「明日から二日ほど、所用で離れます」と、同行者が言いました。この三ヶ月半で、初めてのことです。
理由は聞きませんでした。無給の助手の私用に、雇い主面で立ち入る筋はありません。筋の話とは別に、聞かない、が近頃のわたしの癖になっています。癖の自覚だけ、ここに書いておきます。
二日分の観測日程を、一人用に組み直しました。
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貸金庫の受付は、五分で終わった。
箱に収めたのは、オフラインの記録媒体がひとつと、紙の索引、再検証の手順書。窓口の機械が本人確認をして、小さな鍵の情報が京香の端末に入った。個室で箱を閉める前に、中身をもう一度並べて、一点ずつ写真に撮った。撮った写真は、その場で端末から消した。何を預けたかの記録は、頭と紙の索引にだけ残す。ネットに触れた記録は、ネットに残る。この一ヶ月で身についた、新しい癖だった。
八年の記者生活で、貸金庫を借りる日が来るとは思っていなかった。借り賃は月極めで、安くない。経費で落ちない出費として、手帳の隅に金額だけ書いた。金額の隣に何も書かなかったのは、書くと弱音になりそうだったからだ。
二つ目は、先週のうちに同業へ渡してある。貸しではなく、預かり証を書いてもらった。「うちで記事にしていいなら、ただで預かるよ」と相手は言い、京香は「検証が先」と答えた。相手は預かり証の文面を三度書き直した。日付、品目、返却条件、わたしに何かあった場合の扱い。最後の一項を書くとき、相手は初めて冗談をやめた。「……これ、そういう種類の預かり物か」「そういう種類かどうかを、確かめてる最中」。そういう順番の話が通じる相手だから、預けた。
三つ目は、決めた。
ここには書かない。取材ノートにも書かない。書かない場所がひとつあることを、自分だけが覚えておく。記録を仕事にしてきた人間の、初めての反対向きの仕事だった。覚えておくために、京香は朝、歯を磨きながら在り処を一度だけ頭の中で言う練習を始めた。三日目で、練習は歯磨きと同じ長さになった。
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午後、京香は郊外行きの電車に乗った。
「都立第三——」。読めない走り書きの続きを探す作業は、候補十六件から始まって、いま九件まで減っている。減らした根拠は消去法で、消去法は足で確かめないと信用できない。今日は、そのうちの一件だった。先週、沿革のページが「見つかりません」に変わった、あの候補だ。
駅からバスで十五分。平日の昼のバスは空いていて、乗客は病院帰りらしい年配が三人と、京香だけだった。車内の路線図は新しく、行き先の表示は淀みなかった。降りたバス停の名前は、丁目の数字だけの、どこにでもある名前だった。古い地図のアプリには、同じ停留所が別の名前で載っている。施設の名前が入った停留所名だ。改称の時期は、調べても出てこなかった。バス会社の改称一覧のページは、その年度だけ「準備中」だった。準備中、を京香は撮った。画面の写しは証拠として弱い。弱いことを分かった上で、日付を入れて撮っておく。弱い証拠は、並ぶと形になることがある。
現地は、フェンスに囲まれた広い区画だった。
中には、建物がまだあった。三階建てで、窓は全部塞がれている。取り壊されてはいない。使われてもいない。フェンスは新しくもなく古くもなく、破れ目だけがきちんと補修されていた。管理されている廃墟、という中途半端な状態が、いちばん説明を要する状態だと京香は思う。壊すなら壊す理由が、使うなら使う理由が要る。ただ塞いで維持するには、維持する理由が要る。
フェンス沿いを一周した。徒歩で十二分。裏手に車の出入りできる門がもう一つあり、門の前の草だけ、丈が低かった。
正面の門柱に、看板のあった跡だけが残っていた。長方形に日焼けの差があり、四隅にネジ穴が四つ。プレートは、外し方の丁寧な外し方をされていた。
京香はネジ穴を撮った。周辺も歩いた。区画の向かいには酒屋と、閉まったクリーニング店と、自動販売機が三台。人通りは少なく、通る人はフェンスの中を見なかった。毎日ある景色は、そのうち見られなくなる。見られなくなった頃に、名前も一緒に薄れる。
古い酒屋で聞くと、店主は「ああ、あそこ」と言った。レジの横の配達予定の紙に、手書きの細かい字がびっしり並んでいた。手で字を書く人の記憶は、当てになることが多い。
「何だったかね、あそこ。学校じゃなくて……研修所? いや、寮だったかな。ずいぶん前に閉まったよ」
「閉まったのは、いつ頃でしたか」
「いつだったかねえ。気がついたら閉まってた」
「配達は、されてました? あちらに」
「昔はね。……いや、どうだったかな。台帳、残ってるかもしれないけど」店主は棚の奥を見て、探す素振りだけして、やめた。「まあ、ずいぶん前だから」
無理には頼まなかった。頼む段階では、まだない。名刺を渡し、思い出したことがあったら、とだけ言った。店主は名刺を配達予定の紙の下に挟んだ。挟まれた位置は、忘れられる位置ではなかった。
気がついたら。京香はその言い回しを、そのままノートに書いた。閉鎖には普通、時期がある。引っ越しのトラックが出る。工事の音がする。近所の話題になる。それらの記憶がまとめて「気がついたら」に均されているのは、時間のせいかもしれないし、時間のせいではないかもしれない。両方書いて、判断は書かなかった。
帰り際、フェンスの前でもう一度だけ立ち止まった。塞がれた窓を数えた。三階で、横に八つ。数えて何になるかは分からなかったが、数は事実で、事実はノートに書ける。二十四、と書いた。
収穫は、写真が数枚と、証言が一つと、窓の数。建物が何だったのかは、分からないままだ。「都立第三——」の続きが、この建物の名前なのかどうかも、まだ分からない。候補は一件も消せなかった。消せなかったが、この一件には、次に来る理由ができた。
分からないまま、分かったことも一つある。ここにも、消し方がある。ページの消え方と、看板の外され方と、停留所の名前の変わり方。それぞれ別の作業のはずのものが、同じ丁寧さをしている。
丁寧さは、指紋にならない。ならないことも、ノートに書いた。
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帰りの電車で、端末が二度鳴った。
一度目は、誠司からだった。秘書室の定型文ではなく、本人の文面で、短い。【来月の公開討論、日程が動くかもしれない。決まったら先に知らせる】。先に、の一語が引っかかった。記者に日程を先に知らせるのは、政治家の親切ではなく、政治家の投資だ。分かっている。分かっていることと、文面を二度読むことは、両立した。
京香は礼だけ返し、手帳の予定欄に日付を書きかけて——手が止まった。
決まったら、と書いてある。まだ決まっていない話だ。裏の取れていない日程を、私はいま、予定欄に書こうとした。相手が誠司だから。八年前の癖が、そういう形で残っている。京香は書きかけた日付を消し、代わりに「未定・本人談」と書いた。書き直した文字を見て、少しの間、電車の窓の外を見た。見ただけで、何も書かなかった。
二度目は、情報提供の窓口に入った一件だった。避難の夜の映像の件以来、京香の連絡先には、時々こういうものが届く。大半は見当違いか、いたずらだ。今回のは、昨夜の小火の話だった。
【アパートの火事、消防の発表は「原因調査中」だけど、近くにいた者です。変なことを言うようですが、火が、人の形をしていた気がする。見間違いだと思います。思いますが、誰かに言っておきたくて】
文面は、まともだった。いたずらの文面は、見間違いだと思います、とは書かない。差出人に返信で三つだけ確かめた。時刻、立っていた場所、火を見ていた長さ。返ってきた答えは具体的で、盛っていなかった。数十秒、道の反対側から、二階の窓。それ以上のことは聞かず、礼を書いて閉じた。
京香は小火の発表を確かめた。昨夜、区の外れのアパートで一室焼損、けが人一名は自力で避難、原因調査中。記事は三行だった。三行の記事は、明日には検索の底に沈む。沈むのは自然なことだ。小さい火事は、毎晩どこかで起きている。自然な沈み方かどうかを、京香は明日から三日、朝の定点観測に一項目足して測ることにした。測ってから考える。順番はいつもそれでいい。
記事の全文と発表元と時刻を、ノートに書き写した。証言は証言の欄へ。人の形、はそのまま引用符で。判断は書かない。書かないが、この証言を「見当違い」の箱に入れる手が、動かなかった。動かない理由も、まだ書かない。
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夜、事務所で、京香は保管の一覧を仕上げた。
コーヒーを淹れた。自分で淹れた不味いのを一口飲んで、頭を仕事に戻す。
一覧の最後に、点検の周期を書いた。三ヶ月に一度、全部の在り処をこの手で確かめる。書き終えて、頁の順に指でなぞって、間違いがないのを二度確かめた。掘り返す日は、こちらが決める——そのためには、埋めた場所を忘れない仕事が要る。埋める仕事より、地味で、長い。
ノートを閉じる前に、今日の頁を読み返した。ネジ穴の写真。窓は二十四。気がついたら、の証言。未定・本人談。人の形をした火。
並べても、まだ何も繋がらない。繋がらないものを繋げたくなったら、記者はやめ時だ。今日では、ない。
明日の予定を三つ書いた。朝の定点観測に小火の項目を足す。バス会社の改称一覧に問い合わせを出す。三ヶ月後の点検日を、予定表の先の方に入れておく。三つとも、派手さのない予定だった。派手さのない予定が並んでいる間は、取材はまだ健康だ。
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【観察記録 ——続き】
一人の観測、一日目の記録です。
訪問二件、在宅一件、収穫は小さな確認が三つ。ペースは二人のときの六割でした。数字にすると、この三ヶ月半でわたしの旅がどれだけ他人の手を借りていたかが分かります。
夕食は宿の近くの定食屋で済ませました。二人掛けの席に通されて、向かいに鞄を置きました。鞄は、何も言いませんでした。
今日の頁は、以上です。
(ep028 了)




