返信期限
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【観察記録 ——相良慧】
旅の速度についての記録です。
三ヶ月半で、リストの消化は予定の七割です。遅れの理由は三つ。在否の確認に日数がかかること。応答パネル越しの拒否が増えたこと。そして、確認事項が増えたこと——確認事項は、旅を始めた頃より確実に増えています。増えた分の内訳は、この頁には書きません。
北の集合住宅の回答は、まだ来ません。待つ項目の一覧が、ノートの端で少しずつ長くなります。
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夜勤明けの洗面所で、凪は手を洗いながら、昨夜の三秒のことを考えていた。
点滴の流量を確かめる、いつもの操作の途中だった。視界の端を、黒い水が流れた。膝までの高さで、廊下を、音もなく。瞬きで消えた。消えるまでの三秒、凪の手は止まっていた。流量の設定は合っていた。確認したから合っていたのであって、止まった手のままなら、どうだったか。
疲れのせい、はもう三ヶ月使っている。使うたびに、少しずつ効きが悪くなる言い訳を、凪は職業柄よく知っている。患者がよく使うからだ。
帰宅して、陽太を保育園に送った。鞄の底に、拾った石がひとつ増えていた。ざらざらの、なんでもない石。陽太の「あげる」は先週から鉱物に移行している。凪は石をエプロンのポケットに入れ、食卓に、封筒を二通並べた。
【治療のご案内】。
一通目は先月、車のワイパーに。二通目は先々週、鍵のかかる更衣室のロッカーに。二通とも、開けずに取ってあった。捨てられなかった理由を考えるのは、やめてある。
凪は、二通目から開けた。
鋏を使った。手で破らなかった理由は、自分でもわからない。処置のときの手つきが出た、というのがいちばん近い。
文面は丁寧で、押しつけがましさがなかった。医療の案内文として、よくできていた。よくできすぎていて、どの病院の名前も書いていなかった。宛名は正確で、様の位置まで整っていて、差出人の欄だけが白い。相談窓口の所在地と、予約の方法と、一行。
【お返事の期限——五月三十一日】
期限、と凪は口の中で言った。仕事の言葉だ。提出物と、点滴の交換と、保育園の集金の言葉。脅しは、生活の言葉で来るとよく効く。効いている自覚があった。あったので、感触の棚ではなく、手続きの棚に移すことにした。手続きは、考えなくていい。怖いときほど、知ってる手順にしがみつく——自分で言った言葉だった。
一通目も開けた。こちらは案内というより、問いの並びだった。眠りにくさはありませんか。時間の感覚のずれはありませんか。ご自身の変化について、話せる相手はいますか。
眠りにくさ、ではない。凪は思った。私は眠らない。眠らないことを、この文面は知っていて、知らないふりの言葉を選んでいる。そういう文面の作り方を、凪は知らない。知らないものは、怖い。怖い、で止めておくには、昨夜の三秒は現場に近すぎた。
「あとで」が、現場に漏れた。
漏れたものは、もう「あとで」ではない。凪はシフト表を開き、次の休みを確かめ、二通目の末尾の番号に、面談の予約を入れた。ご相談だけでも構いません、と応対の声は言った。二日後の午後。次の夜勤の、前日の枠だった。
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二日後の午後、窓口は、私鉄の駅から五分の、二階建てのクリニックだった。
一階は普通の内科で、待合室には花粉症の子どもと、血圧手帳の年配が並んでいた。順番待ちの表示が壁に流れ、薬の受け取りの機械が番号を読み上げる。凪は職業の目で一周した。動線、消毒液の位置、スタッフの動き。全部、普通だった。普通の内科は、普通の内科として、今日も回っている。ここで働く人の大半は、二階のことを何も知らないのだろう、という気がした。気がした、まで。
受付の応対機械が凪の名前を確かめ、二階へ、と柔らかい声で言った。二階の廊下は静かで、待合の椅子は三つだけ、誰も座っていなかった。平日の昼は、どこもこんなものだろう。突き当たりの部屋に、相談員の名札をつけた男が待っていた。白衣ではなく、灰色のカーディガン。
「ご来訪、ありがとうございます。早乙女さん」
面談は、四十分だった。
男は感じがよく、急がず、脅さなかった。封筒の入手経路について凪が聞くと、「ご案内の方法については、わたしどもも一部お預かりしていない部分があります」と、困った顔で言った。困った顔は、本物に見えた。本物に見える、と、本物は、職業柄、別々に数えることにしている。問診の運びは本物だった。既往歴、服薬、勤務形態。凪は答えながら、職業の耳で、質問の並びを聞いていた。並びは、よくできている。ただ、途中から軸が変わった。症状はいつからですか、ではなく——生活が変わったのは、いつからですか、と聞く。症状ではなく、生活を聞く問診を、凪は自分の病院で聞いたことがない。
「あの」凪は途中で言った。「この案内の、治療、というのは。何を治療するんですか」
「それは、検査の結果を拝見してからになります」男は申し訳なさそうに、本当に申し訳なさそうに言った。「現段階で申し上げられるのは、早乙女さんのような症状のご相談を、専門にお受けしている、ということまでです」
「症状」
「ご自覚の有無にかかわらず、です」
それ以上は、どの角度から聞いても同じ壁だった。壁の向こうを知っている顔ではなかった。この人も知らされていないのかもしれない、と凪は思い、思っただけにした。
最後に、タブレットが差し出された。検査のご案内。同意項目が、指で送るたびに一枚ずつ現れる。個人情報の取り扱い。検査結果の共有範囲。「共有先」の欄は、提携する医療施設、とだけあった。名前は、なかった。
同意は、いつでも取り下げられます、と男は言った。その言い方だけ、妙に手慣れていた。
凪は、検査の予約だけを入れた。三週間後。それより手前の枠は「あいにく埋まって」いた。埋まっている、が本当かどうかは、確かめようがなかった。
帰りの電車で、予約票の画面を見た。日付と、時刻と、持ち物。持ち物の欄は「特にありません」。準備のいらない検査を、凪はあまり信用していない。採血なら食事の指示がある。画像なら金属の注意がある。何も要らない検査は、こちらに要るものがない検査か——こちらの何が要るのか、言っていない検査だ。
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翌日の夜勤で、搬送が一件入った。
二十代の女性。原因不明の高熱。仕事帰りらしく、作業用の携行バッグには、細かい工具と、家庭用の機器の設定端末が几帳面に並んでいた。訪問の、機器サポートの人だろう。検査値は煮え切らず、画像は綺麗だった。この半年、凪が数えてきた型と、同じ型だった。数は、これで数えるのをやめた件数を越えている。
「寒くて」と、その人は熱にうかされながら言った。「毛布、あるのに。……変ですね。真夏でもないのに」
高熱で、寒い。矛盾ではない。悪寒は高熱の顔だ。ただ、この型の寒がり方は、悪寒とすこし違う。震えではなく、確信に近い。身体の芯のどこかで燃料が足りていない、というような寒がり方。同じ言い方を、凪はこの半年で何度も聞いた。聞いた回数は、記録のどの欄にも入っていない。
毛布を一枚足して、点滴の刺入部を整えた。処置の間、その人は凪の手元を見ていた。
「……看護師さんこそ、手、冷えてません? 夜勤、冷えますよね。あったかいの、飲んでます?」
高熱の患者に心配される側は、初めてではない。初めてではないが、多くもない。凪は「大丈夫ですよ」と答え、記録には事実だけを書いた。体温、脈拍、主訴。それから、書く欄のない感触——この型の人は、たいてい数日で、自分から帰ってしまう——は、書かずに持っていた。
朝、案の定だった。その人はベッドの上で荷物をまとめていた。
「仕事があるので。訪問先、待たせちゃってて」
携行バッグはもう閉じられていて、閉じる前に中身を整え直したのが並びで分かった。熱は下がりきっていない。数値を見せて説明すると、その人は「ですよね」と頷き、頷いたまま荷造りの手を止めなかった。
「おうちの人に、連絡は」
「一人なので。大丈夫です」
止める権限は、凪にはない。退院時の注意を渡し、熱が戻ったら必ず、と言った。その人は「はい」と良い返事をして、たぶん来ないだろうと、凪は思った。この型の人は、良い返事をする。良い返事は、たいてい、こちらを安心させるための返事だ。
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帰宅して、陽太に朝ごはんを作った。夜勤明けの朝は一品多い。今朝は卵を焼いた。
「ねえ、みてみて」陽太が卵の黄身を箸で割って見せた。割れ方が良かったらしい。「きょうの、じょうずに割れたやつ」
「ほんとだ。上手」
「お母さん、こんど、おやすみいつ?」
「再来週。……あ、でもその次の週、ちょっと病院の用事があるから」
「びょういん? お母さん、おしごとじゃなくて?」
「うん。用事のほう」
陽太は「ふうん」と言って、トマトを半分に切ってあるかどうかを確かめてから、食べた。それ以上は聞かれなかった。聞かれなかったことに、凪は少しだけ助けられ、助けられたと感じた自分を、棚に上げた。棚は、増える一方だった。棚卸しの日は、決めていない。
食器を洗ってから、凪はシフト表を開いた。三週間後の欄の隅に、小さく、予約票の日付を書き写した。書き写した字は、業務の予定と同じ字で並んだ。同じ字で並ぶと、それは、ただの予定に見えた。
ただの予定に見えることが、いちばん、こわい気がした。気がした、まで。その先は、あとで考える。
(ep025 了)




