良い旅の連れ
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【観察記録 ——相良慧】
私事を書くことを、また例外として認めます。二度目の例外です。回数を数えているのは、例外が常態になるのを防ぐためです。
同行者の、夜間の外出が増えました。行き先は聞いていません。ただ、規則性はあります。出るのはわたしが記録の整理を始めた後、戻るのはわたしが眠る前。つまり、わたしの作業を妨げない時間だけが、正確に選ばれている。
仮説ですが——わたしの調査の下見をしているのだと思います。彼はわたしより地理に強く、わたしより足が速い。訪問先の周辺を先に歩いておいてくれるなら、翌日のわたしの動きは効率的になる。実際、なっています。
頼んだ覚えはありません。頼んでいないことをする人ではないので、これは彼なりの「順番」なのでしょう。
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避難三日目の市街は、事件を九割の日常で薄めた味がした。
規制区域から三本離れれば、店は開き、通勤の列が流れる。朝の宿で、玲二は今日の行程を三分で組んだ。訪問先、迂回路、所要時間。机に広げた慧の資料は、角を揃えて重ねられ、地図には最短の経路が薄い鉛筆で引いてある。最短、のはずなのに、経路は途中で一本だけ理由のわからない曲がり方をしていた。前の街でもそうだった。聞いたら「癖です」と言われた。癖、という説明で終わる事柄をこの人が他に一つも持っていないことは、聞かなかった。
「同行しますか」と慧は聞いた。
「午前は別行動にします。合流は十七時、宿で」
理由は言わない。聞けば答えるのだろう。聞かなかったのは、下見を頼んだ形にしたくなかったからだ——と、このときの慧は整理していた。
慧は午前のうちに、リストの次の名前の住所を訪ねた。集合住宅の呼び出しパネルは応答せず、隣人は「避難所じゃないかね」と言った。どこの避難所かは、知らなかった。「あんた、ご家族? ……違うの」——違います、と答えると、隣人の関心は音を立てて閉じた。属性のない訪問者に、人は三十秒しか使わない。三ヶ月の旅で学んだ数字だった。
避難所の受付で、慧は面会を断られた。親族ではないから、当然だった。名簿の照会もできない。個人情報だから、これも当然だった。受付の端末は慧の顔を三秒で照合し、「関係性が確認できません」と丁寧に表示した。関係性。十年前なら、受付の人間が「どういうお知り合い?」と聞いて、こちらの顔を見て、迷ってくれたところだ。端末は迷わない。迷わないことが、この街の受付を速く、そして薄くしている。
当然の壁を三つ数えたところで、慧は手順を切り替えた。会えない日は、会えない日の調査をする。
公式発表の検証、だ。
ガス管の破損。二次被害の恐れ。復旧作業中。——発表はこの三行から増えない。慧はガス会社の工事記録の公開分を遡り、当該区画の配管の敷設年を調べ、破損が起きうる条件を並べた。並べた結果は、白でも黒でもなかった。古い配管なら破損はありうる。ありうる、というだけだ。避難の規模は配管の事故として大きすぎる気がする。気がする、というだけだ。
検証不能な仮説を書き並べることを、不安と呼ぶ——父のノートの言葉が、頁の余白から慧を見ていた。
信じられない。反証もできない。それなら記録の置き場所は一つしかない。慧は「ガス管破損(公式)」の頁の隅に、保留、と書いた。保留の文字は、この街に来てから増える一方だった。
前の晩、この検証の途中経過を、慧は玲二に話している。
「避難の規模が、配管事故として大きすぎる気がします」
「『大きすぎる』の基準を提示できますか」玲二は資料から顔を上げずに言った。「過去の同種事故の避難規模の分布と、今回の位置。それがなければ、『気がする』は観測ではなく印象です。慧さんの規則では、印象は余白に書くのでは」
「……そうですね。余白に書きます」
反証は、いつもわたしの論理の内側から来る。わたしの規則を、わたしより正確に運用してくる。腹は立たない。立たない、ということにしている。
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午後、聞き込みの帰り道で、慧は道を間違えた。
紙の地図は停電で書き換わらないかわりに、封鎖で書き換わった現実にも追いつかない。予定した通りが規制線で塞がれ、迂回するうちに現在地が曖昧になった。封鎖は、人の動線を数本の通りへ束ねていた。避難所へ通う者も、家の様子を見に戻る住民も、調べ物に来た部外者も、残された同じ抜け道を歩くしかない。歩道の端では配送ロボットが二台、経路の再計算を繰り返して同じ場所を行き来している。機械も迷う街で、人間が迷うのは恥ではない。端末で調べれば済む。済むが、慧は先に、通りかかった三人組に声をかけた。歩いている人間は、端末より半日ぶん新しい。
「すみません。道を一つ、伺ってもいいですか」
伺ってもいいですか、を先に言うのは癖だ。観察でも取材でもなく、ただの道問いであることを、先に宣言しておく。
「第二公園の方へ抜けたいのですが、この先は通れますか」
三人組は、高校生くらいだった。癖のある髪の少年と、伸びた髪を持て余した伏し目がちの少年と、前髪の長い小柄な少女。少女の手には、飲みかけのゼリー飲料。答えたのは少女だった。
「通れません。二つ目の角まで規制線が来てるので。……一本戻って、薬局の角を右です。公園の裏に出ますけど、裏門は開いてます」
正確な答えだった。道順だけでなく、門の開閉まで入っている。よく見ている人だ、と慧は思った。礼を言って歩き出しかけたとき、少女が半歩よろけて、隣の自転車置き場の柵に手をついた。
「——平気?」癖のある髪の少年が振り向いた。
「平気。立ちくらみ」
答えは、問いより早かった。少年は頷いて、三人はもと来た方へ歩いていく。伏し目がちの少年が端末を見ながら何か言い、少女が笑う声がした。
慧は、頼まれていない観察を一つ、してしまった。
少女の顔色は、笑い声の明るさと釣り合っていなかった。唇の色が薄い。柵についた手が、離れるまでに一拍多くかかった。そして「平気」は、たぶん今日発明された言葉ではない。ああいう速さで出てくる「平気」は、使い込まれている。
他人だ。言う立場にない。連れの二人が受け取ったのだから、あの「平気」の宛先は足りている。
慧はその夜、記録の別の頁に短く書いた。【市街・氏名不詳の三人。体調の申告と外観の乖離が大きい少女、一名。申告を受け取る側の速度も速い。観測対象候補——ただし、わたしの調査とは無関係の、ただの気がかりとして】。書いてから、最後の一文は研究記録の書式ではないと気づいた。消さなかった。
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宿に戻ると、玲二はいなかった。
書き置きも伝言もない。いつものことだ。慧は機材の整理をし、今日の三つの「当然の壁」を清書し、保留の頁を読み返した。保留は七件になっていた。ガス管の公式発表。訪問先の所在。避難規模の妥当性。目撃談の真偽。——七件の保留を抱えたまま検証を続けられるのは、体力ではなく、頁の設計のおかげだ。保留には保留の置き場があり、置き場がある限り、わからないことは恐くない。父のノートの設計を、わたしはそのまま使っている。使いながら、この設計で保留にされ続けて十年になる項目が一つあることも、知っている。
気がつくと外は暗く、夕食を忘れていた。資料は整い、機材は整い、食事と着替えだけが今日も後回しになっている。整えられるものから整えるのだから、仕方がない。窓の外で、街は九割の日常を続けている。
玲二が戻ったのは、十時前だった。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい。……夕食は」
「済ませました。慧さんは、まだでしょう。買ってあります」
袋の中身は、慧がいつも選ぶものと同じだった。椎茸の入った総菜だけが、正確に外されている。頼んだ覚えのない正確さに、慧は礼を言った。
「今日、道を訊いた高校生が、とても正確な道案内をしました。門の開閉まで入っていて」
用件のない話だった。玲二は箸を止めて、慧が続きを言うのを待った。続きは、なかった。ないと分かるまで、彼はきちんと待った。この人は雑談の終わらせ方を知らない。知らないなりに、終わるまで付き合う。それを不器用と呼ぶのか誠実と呼ぶのか、慧はまだ決めていない。
決めていない項目の隣で、慧は匂いに気づいた。
焦げた匂い。煙草ではない。もっと重い、樹脂と金属の混ざった、火事の後のような匂いが、玲二の上着に薄く染みていた。
「清川さん。工事現場でも、通りましたか」
玲二は一拍置いた。質問を、彼のやり方で正確な形に直している間だ、と慧は知っている。
「ええ、近道を」
それだけだった。嘘の気配はなかった。慧の知る限り、この人は嘘を言わない。言わないことは、あるけれど。
慧は頷いて、総菜の礼をもう一度言った。それから、自分でも理由を説明できない手つきで、記録の別の頁——研究とは無関係の頁——に、二行だけ書いた。
【五月十三日。帰宅二十一時五十分。上着に焦げた匂い(樹脂・金属質)。本人の説明: 近道】
解釈は、書かなかった。解釈を書くための材料が足りないからだ。材料が足りないときに解釈を書かないのは、わたしの規則で、規則に従っただけだ。——だけ、のはずだ。頁を閉じる指が少しだけ重かった理由は、観測されなかったことにした。
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【観察記録 ——続き】
同行者の外出について、追記します。
今夜も匂いの出所は聞きませんでした。聞けば答える人です。問われたことに、この人が嘘を答えたことは一度もない。だから聞かないのは、わたしの側の問題です。答えを聞いたあとの頁の使い方を、まだ決めていないだけ。
清川さんは、良い旅の連れです。わたしの仮説を笑わず、わたしの椎茸を覚えていて、わたしの眠る前に帰ってくる。
彼は良い連れだ——わたしはそれを、何度でも書ける。
(ep017 了)




