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AIが全部の正解を先に出す2049年、わかり合った相手の超能力が写る。記憶も痛みも一緒にー人間未解ー  作者: 猫間じん


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受け皿

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【観察記録 ——相良慧】


仮説を一つ、立てます。「非常時、人は合理的に行動できなくなる」。


根拠はあります。記録の中の人間は、火災で出口に殺到し、噂で店の棚を空にしてきました。恐怖は判断より速い、と多くの本に書いてあります。本に書いてあることを、わたしはまだ、自分の観測で確かめていません。


今回の停電と避難は、確かめる機会になるはずです。


---


 午後十一時、救急外来の受け入れ要請が、その夜七件目になった。


「早乙女さん、応援お願いします。三階から降りられますか」


「降ります。403号の点滴、竹内さんに引き継ぎます」


 凪は歩きながら頭の中の段取りを組み替えた。転倒骨折が二人、避難中の車の接触が一人、過換気が三人。避難二日目の夜、隣接区の病院が受け入れを絞ったぶんが、こちらへ流れ込んでいる。処置端末に搬送情報が同期され、AIが優先度の候補を並べる。候補までだ。決めるのは今夜も人間で、決める材料は、いつも足りない。


 救急の入口は、意外なほど静かだった。


 怒鳴る人がいない。順番を抜かす人もいない。ストレッチャーの家族は言われた場所で待ち、歩ける患者は書類を書き、老人は互いに毛布を譲り合っていた。非常時の受け皿は、思っていたより整然と水を受けている。パニック、という言葉で夜勤前に想像したものは、少なくとも今夜のこの入口には、なかった。


「みんな、ちゃんと並ぶんですね」若い看護師が小声で言った。


「並ぶよ。並び方を知ってる人はね」凪は答えながら、次の搬送の受け入れ画面を開いた。「怖いときほど、知ってる手順にしがみつくの。手順は、考えなくていいから」


 過換気の三人のうち、一番若い女性は、処置室に入っても指先の震えが止まらなかった。聴診と数値は問題ない。袋も薬も要らない、要るのは時間だ。凪は隣に座って、呼吸の数だけ一緒に数えた。


「……アイが」落ち着いてから、女性は言った。「私の相棒(アイ)が、避難のとき、置いてきちゃって。ずっと一緒に喋ってたのに、急に、静かで。静かって、こんなにうるさいんですね」


 凪は頷いた。正しさの話はしなかった。夜が明けたら取りに戻れるかを一緒に確かめ、それまでの数時間の過ごし方を、手順にして渡した。手順は、考えなくていい。考えなくていいものを一つ渡すと、人の呼吸は少し深くなる。


 ストレッチャーの車輪の跡が、廊下に濡れて光った気がした。目を戻すと、乾いていた。凪は拭き掃除の依頼を出しかけて、やめた。


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 日付が変わる頃から、受け皿に入ってくる水の質が変わった。


 外傷ではない。原因不明の高熱。強い錯乱。そして、落ち着いてから全員が口にする、悪夢の訴え。


 一人なら、よくある夜だ。二人なら、偶然だ。朝までに、五人になった。


 検査値は揃って煮え切らなかった。感染を示す値は上がりきらず、頭部の画像は綺麗で、それでいて熱だけが高い。当直医は「ウイルス性の何かでしょう」と言い、隔離基準だけ念のため一段上げた。


 三人目の採血のとき、初老の男性が凪の袖を掴んだ。四十度の熱の中で、目だけが妙に覚めていた。


「すみません、すみません……夢が。夢の話を、しないと」


「相沢さん、大丈夫です。針、入りますよ。……はい、もう終わりました」


「夢が」男性は繰り返した。その先は、熱に溶けて言葉にならなかった。凪は男性の手を布団に戻し、脈と点滴を確かめた。悪い夢を見た、という訴えだけがあって、中身を語れた人はまだいない。熱のせいだろう。四十度の熱は、たいていの言葉を溶かす。凪は処置の合間に、五人の搬送元を端末で確かめた。全員、避難区域の周辺。それ以上の共通項は、読み取れなかった。


 ——同じ型の患者が、一晩でまとめて来た。


 似た患者なら、凪は知っている。この半年で三人、ぽつりぽつりと混ざっていた「煮え切らない高熱」。半年で三人だったものが、今夜は一晩で五人。蛇口をひねったように来る。パターンの感触だけが、手のひらに残る。感触は根拠ではない。凪は事実だけを処置記録に残し、感触の方は書かなかった。書く欄が、ないからだ。


 廊下を早足で戻る途中、足元を水が流れた。


 黒い、膝までの水。歩幅が乱れ、次の瞬きで、床はただの乾いたリノリウムに戻っていた。今夜、三度目だった。夜勤三日目。仮眠なし——仮眠は、もともと要らない。要らないはずだ。凪は立ち止まらなかった。異変の項目を頭の中の帳簿に書き足し、「あとで」の棚に載せる。棚は、もう何段目だろう。403号の点滴の方が先だ。あれは待てない。私は、待てる。


「早乙女さん、休憩入ってください。回ってますから」


「大丈夫、慣れてるから」


 目線が、廊下の時計へ一瞬だけ逃げた。


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 午前二時過ぎ、ナースステーションの奥で、事務長と当直医が声を抑えて揉めていた。


「転院の受け入れ先が用意できてるそうです。専門の施設だと。搬送の車両も先方が」


「四十度の錯乱患者を、今から車に乗せろと? どこの専門です。診療情報の照会先は」


「それが……書式は揃ってるんですが、聞いたことのない名前で」


 揉め事の中身は、凪の持ち場ではない。ただ、通りすがりに聞いた「書式は揃ってるのに、聞いたことがない」という組み合わせを、凪は頭の隅に置いた。整いすぎた書類は、急いで作った書類より、ずっと前から用意されていた書類に似ている。似ている、と思っただけだ。思っただけのことは、記録には書けない。


 午前三時、事務当直のカウンターに、その男はいた。


 眼鏡の、公務員風の中年。折り目のついた上着。開いた鞄の中で、書類の角がきれいに揃っている。男は都の委託を受けた調査員だと名乗り、身分証を提示して、丁寧すぎる敬語で言った。


「本日搬送された方々のうち、数名について、聞き取りが必要です。避難経路の確認調査です。零時四十分に区の対策本部を出まして、二時五十五分にこちらへ着きました。道が混んでおりまして」


 聞いてもいない時刻まで、正確に説明する人だ、と凪は思った。


「対象の方のお名前は」


 男が読み上げた三人は、三人とも、あの高熱の患者だった。避難経路の確認に、なぜ外傷のない発熱患者を選ぶのか。疑問は、疑問の棚へ。今、確かなことは一つだけだ。


「その方たちは治療中です。四十度台の発熱で、錯乱もある。聞き取りに耐える状態ではありません。——時間をずらしてください」


「ご容態が落ち着くのは、いつ頃でしょう」


「わかりません。それを決めるのは調査の予定ではなく、患者さんの体です」


 男は気分を害した様子もなく、「では、待ちます」と長椅子の端に座った。眼鏡を外し、拭き、掛け直した。それきり、置物のように動かなかった。凪は持ち場に戻りながら、男の顔を覚えようとして、うまくいかないことに気づいた。眼鏡、七三、折り目。部品は覚えられるのに、組み上がらない。夜勤で百人の顔を覚えてきた自分が、だ。疲れの項目がまた一つ、「あとで」の棚に載った。


 三十分後、男の端末が短く鳴った。男は画面を確かめ、鞄の書類の角をもう一度揃えて、立ち上がった。


「本日の聞き取りは、見合わせます。ご対応、正確でいらっしゃった」


 一礼して、男は出て行った。自動扉の手前で一度立ち止まり、ネクタイの結び目を直したのが、ガラス越しに見えた。入れ替わるように、事務当直の画面に上位の通知が届く。凪も回覧で見た。——搬送患者の専門施設への移送要請は、重症者については、当面見送る。夜のうちに二転三転した挙句の、妙に据わりのいい結論だった。誰が、どこで決めたのか。通知の発信元は、聞いたことのない部署名だった。


 高熱の五人は、残った。今夜の受け皿は、水をこぼさなかった。それだけを、凪は良しとした。


---


 午前五時、夜明け前の病棟が、一日でいちばん静かになる。


 誰にも呼ばれない廊下を、凪は更衣室まで歩いた。着替えて、院内保育で眠っている陽太を引き取って、朝ごはんを作る。段取りは頭の中でもう組み上がっている。


 ロッカーを開けて、手が止まった。


 白い封筒が、制服の畳んだ肩の上に載っていた。上質な、無地の封筒。宛名も差出人もない。表に一行、印刷の文字。


 【治療のご案内——お返事の期限が近づいています】


 鞄の底には、開けていない一通目が、まだ入っている。あの時はワイパーだった。今度は、鍵のかかる更衣室の、私のロッカーの中。誰が。いつ。院内なのに。——考えは三歩ぶん走って、止まった。事実だけを数える。差出人は、私の勤務先と、ロッカーの場所と、そして期限を知っている。私がまだ返事をしていないことを、知っている。


 期限、という言葉の形が、いやに手に馴染むのが厭だった。凪の一日は期限でできている。点滴の交換時刻。保育の迎え。提出物。期限は守るものだと、体が先に覚えている。


 封筒は、開けずに鞄へ入れた。一通目の隣に。


 保育室で陽太を抱き上げると、寝ぼけた声が耳元で言った。「おかあさん、おはよう……じゃなくて、おかえり?」


「どっちでもいいよ。朝ごはん、作ろう」


「きのうね、園でね、ひなん訓練ごっこした。ぼく、ならぶの上手だって」


「知ってる。陽太は並ぶの、上手」


 抱いた重みが、この一年で確かに増えている。増えた重みを抱えて歩ける腕が、まだあるうちは大丈夫だ——と考えて、その「大丈夫」がどの棚から出てきた言葉なのか、凪は確かめなかった。朝の献立を先に考えた。卵はある。パンは、帰りに買う。


 自分の「あとで」の棚が軋む音は、聞こえないふりをした。


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【観察記録 ——続き】


仮説の分が、悪くなっています。


避難所の配給に、人は並んでいました。薬局の前でも、給水車の前でも、わたしが数えた範囲で、列を乱した人は二人だけでした。恐怖は判断より速いのかもしれませんが、人には手順があり、手順は恐怖の中でも動くようです。「非常時、人は合理的に行動できなくなる」——この仮説は、観測に負けつつあります。


ただ、気になることが一つ。手順で動けることと、自分を勘定に入れることは、別の能力なのかもしれません。並んでいる人たちが、自分の順番を最後に回していないかどうかまでは、外から観測できませんでした。


仮説は棄却せず、書き直しの候補に移します。


(ep016 了)


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