裸の耳
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【観察記録 ——相良慧】
群衆、という単位について考えています。
一人の人間は判断します。二人は相談します。では百人は、何をするのでしょう。群衆は個人の集合のはずなのに、群衆にしかしない動き方をする。あれは誰の判断なのか。それとも、判断という言葉自体が、あの単位には合わないのか。
うまくまとまりません。今日の問いは、置いておきます。
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避難二日目の街は、奇妙な二層になっていた。
避難区域の外では、通勤の人波がいつも通りに流れている。区域の縁では、規制線と警備ドローンと、行き場のない野次馬。京香はその縁を、午前中いっぱい歩いた。録音機は二台。見せる用と、本命。
公式発表は簡潔だった。ガス管の破損。二次被害の恐れ。復旧作業中。以上。
簡潔すぎる発表と、簡潔にならない現実の間に、京香の仕事がある。
「昨日の夜中さ、変な音しなかった? 地鳴りみたいな」「うちのベランダから、黒い車がずーっと並んでるの見えたよ。ガス会社の車じゃなかった」「SNSに上がってた動画、もう消えてる」——縁の住民たちの話は、破片としては弱い。弱い破片が、同じ方向に倒れているのが強いのだ。
ミラーの検索窓に「停電 避難」と入れると、上位はガス会社の公式と、防災の心得と、無関係な三年前の記事で埋まっていた。埋め方の指が、見える気がした。八ヶ月前は、こんなふうに「見える」とは思わなかった。見えるようになったのは、たぶん、自分のノートに読めない頁を見つけた夜からだ。
そして、消える速さより、増える速さが勝っていた。まとめサイトが立っては埋もれ、埋もれては立つ。埋める側の砂の量が、明らかに足りていない。京香は八ヶ月この街の「消え方」を観察してきた。今回のは、消し方が追いついていない。その事実自体が、事件の規模の証言だった。
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規制線から二本外れた通りに、その一団はいた。
のぼりも拡声器もない。揃いの腕章と、長机と、湯気の立つ紙コップ。避難してきた住民に茶を配っている。「AIを切り離せ」でも「機械を捨てろ」でもなく、机の垂れ幕には一行だけあった。
【わたしたちは、電気が止まっても、隣にいます——素心会】
素心会。名前は知っている。反ニューロコアの市民団体。過激なデモの映像で切り取られることが多いが、実物の現場は、炊き出しの列だった。
そして京香は、配っている側の男たちの耳に気づいた。
裸だ。全員、耳に何も着けていない。エージェントのイヤーカフがない耳というのは、2049年の街では、眼鏡を外した顔より無防備に見える。見慣れなさに、一瞬、目が留まる。留まった視線の先で、作業着の初老の男がこちらに気づき、湯気の立つ紙コップを差し出してきた。
「取材の方でしょう。どうぞ。録音されるなら、そう言ってくだされば、ちゃんと喋ります」
「……わかりますか」
「録音機を二台お持ちだ」男は京香の鞄を目で示した。目ではなく、鞄を持つ手の方を見ていた。「一台は見せる用でしょう。うちの若いのも、よくやられます」
男は苅谷宗佑と名乗った。素心会の代表。テレビで見る「反AI団体の顔」より、ずっと小さく、ずっと静かだった。
「事実確認をさせてください」京香は本命の録音機を卓に置いた。「今回の避難について、素心会は『予言が当たった』という立場を取りますか。ニューロコア依存への警告が、という意味で」
「取りません」苅谷は即答した。「困っている人の列で、私たちの正しさの話をするのは、下品です」
「でも、会員の方の中には、そう言いたい方もいるのでは」
「います」苅谷は隠さなかった。手元の紙コップを見たまま、少しだけ間を置いた。「若い会員ほど、言いたがる。気持ちは、わかるんです。正しさは、悲しみより持ちやすい荷物ですから」
京香はその言い回しを、録音とは別に、ノートにも書いた。この人は演説の言葉と生の言葉の両方を持っていて、今のは生の方だった。
「では、なぜここに」
「電気が止まると、応答パネルも、決済も、薬の予約も止まります。止まったとき、手で助けられる人間が近くにいた方がいい。それだけです」苅谷は茶を注ぎ足しながら言った。「怖いのはAIではありませんよ、記者さん。AIを手放せない私たちです。……いや、これは演説の言葉ですね。忘れてください」
立て板に水、ではなかった。訥々と、手元の茶を見ながら話す。演説の声とは別の声なのだろう。京香は質問の角度を変えた。
「三年前の医療AI事故のご遺族の会にも、素心会は支援を?」
苅谷の手が、一瞬だけ止まった。
「……ええ。私自身が、その一人ですから」
「立ち入ったことを伺いました」
「いえ。事実確認は、あなたの仕事だ」苅谷は静かに言った。「娘の最期の判断をしたのは、医師ではなく計算機でした。……そのことを、私はまだうまく言えません。言えないので、体を動かすことにしています。それだけの話です」
それだけの話、に至るまでの年月の厚みを、京香は詮索しなかった。代わりに、ノートに事実だけを書いた。素心会代表・苅谷宗佑。医療AI事故遺族。——自分が八ヶ月追っている事故と、同じ事故か。裏取りの項目が、一つ増えた。
辞去の間際、若い会員が苅谷に駆け寄って何かを耳打ちした。苅谷は頷き、若者の肩を叩いて、「先に食べなさい」と買ってきた弁当を持たせた。若者は何か言い足りない顔のまま、弁当を持って列の後ろへ戻っていった。言い足りない顔、を京香は覚えておいた。代表の穏やかさと、若い側の言い足りなさ。運動の内側の温度差は、記事にはまだできない観察だった。
思想の話は一度もしないまま、京香の見ている前で、素心会は湯と弁当を配り続けた。
嘲笑できる相手なら、楽だった。
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午後、編集部に戻ると、空気が硬かった。
「汐見。上から来てる。今回の件、公式発表ベースでまとめろって」
「目撃談は」
「『不安を煽る未確認情報』だとさ」デスクは疲れた顔で言った。「……都の広報から、各社に安全宣言への協力要請が回ってる。タカサトの事務所にも、談話を出せって打診が行ったらしい」
鷹里の談話。京香は演説の、あの揃った頷きを思い出した。彼が「安全です」と断言すれば、この街の不安は、たぶん一晩で凪ぐ。凪がせられる。根拠の有無と関係なく——そこまで考えて、京香は自分の思考に注釈をつけた。「関係なく」は、まだ証明されていない。あの晩の録音には何も残っていなかった。残っていなかったことが何を意味するのか、切り分ける材料は、今もない。仮説は仮説の棚に。それでも、棚の扉には手をかけたままにしておく。
夕方、事務所回りの伝手で拾った情報は、意外なものだった。
——鷹里誠司、談話を辞退。
理由は「現地の事実確認が済んでいない段階で、私の言葉で安心を作るべきではない」。政治家の逃げ口上としては上等すぎる文面だった。京香はその一文を三度読んだ。あの男は、自分の言葉が「作って」しまうことを、知っている。知っていて、今回は作らない方を選んだ。
ノートに、線を引かずに書き留めた。評価はまだしない。ただ、書き留めた。
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帰り道、京香は遠回りをして、都立の施設が並ぶ官庁街の端を歩いた。
「都立第三——」。あの読めない頁の、書きかけの場所欄。都立第三、で始まる施設は、調べた範囲で十七あった。病院、高校、浄水場、資料館。八ヶ月前の自分がどこへ行ったのか、名簿を一つずつ潰していく作業は、進んでいるとは言いがたい。今日消せたのは一つ。第三体育館は、当時改修工事で丸ごと閉鎖されていた。第三青果市場も消せるかと思った——取材申請の控えが手元にない——が、手を止めた。記録が消える事件を追っている人間が、記録がないことを、行っていない証明にするわけにはいかない。保留の山に戻す。
十六。まだ十六もある。それでも、数えられる形になっているだけましだった。数えられないものを追う気持ちは、今回の避難区域の住民たちの顔を見て、少しわかった気がする。何が起きたか分からないまま、家に帰れない人たち。何を取材したか分からないまま、頁だけが残っている私。規模は違っても、穴の縁に立っている姿勢は、同じだ。
夜、京香はもう一度、規制線の縁に戻った。
夜の縁は昼より静かで、野次馬の代わりに、帰宅を許された住民が点々と戻っていく。昼間の黒い車の件は、陸運局に伝手のある同業者へ照会を頼んだきり、返事が来ていない。今日はもう進まない線だ。京香は聞き込みの最後の一巡りをした。収穫は、ほとんど同じ話の反復だった。黒い車。地鳴り。消える動画。
ただ、三人が、同じことを言った。
一人目は犬の散歩の老人。「避難の前の晩な、変な人を見たよ。ふらふら……いや、ふらふらじゃないな。ゆっくり歩いとった。犬がな、吠えもしないで、リードの後ろに隠れたんだ。あんなの初めてでな」
二人目はコンビニの夜勤明け。「みんな逃げてる方向と、逆に歩いてく人がいて。急いでる感じもなくて」
三人目は、避難所から一時帰宅した主婦だった。彼女は少し迷ってから、言った。
「変な言い方ですけど……逃げてるんじゃなくて、帰るみたいに歩いてたんです。うち、亡くなった義父がそうだったから、わかるんです。施設から一時帰宅したときの、ああいう……家までの歩き方」
誰が。どこへ。
わからないことだらけの中で、京香はノートに、装飾を全部削った一行だけを書いた。
【複数の目撃者(3)、同一の証言: 対象は「帰るように」歩いていた】
書いた文字を、街灯の下でしばらく見た。八ヶ月前の、読めない走り書きの頁を思い出した。あの頁と違って、この行は読める。読める字で書けるうちに、書けることを全部書いておく。それが、あの夜以来の、京香の小さな誓いだった。
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【観察記録 ——続き】
群衆の問いは、今日は進みませんでした。
観察の材料が足りないのか、問いの立て方が悪いのか、それも分かりません。分からないまま置いておくのは落ち着きませんが、無理にまとめると、まとめた形しか残らなくなります。
この問いは、当分このままにします。
(ep015 了)




