番犬
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招集は深夜二時にかかった。
弦は路肩に停めた車の中で、直しかけの傘を助手席に置いて、通知を二度読んだ。傘は昼間、コンビニの店先で処分待ちの籠に出ていた骨折れのやつを、店員に声をかけて譲ってもらったものだ。捨てるだけです、と店員は不思議そうな顔をした。捨てるだけの物ほど、直しがいがある。そういうのを見ると手が勝手に動く。今夜は最後まで直せそうにない。弦は傘を後部座席へ移し、車を出した。
古傷が、いくつか鈍く疼いた。雨が近いのか、疲れか。他人から預かった傷は天気に律儀だ。どれが誰の分かは、もう数えない。数えないことにして長い。
指定の立体駐車場に着くと、車列はもう並んでいた。黒い車両が六。大型が二。見たことのない箱型の車載装置を積んだトレーラーが、奥に一台。装置の用途を聞ける空気ではなかったし、聞ける立場でもなかった。弦の位置は末席だ。回収実務の下請け。それ以上は聞くな、が給料に含まれている。
集まった顔ぶれを、弦は癖で数えた。回収の同業が半分。見ない顔が半分。見ない顔の方は装備が重い。物々しさの割に、説明は何もなかった。説明がないときほど、上は急いでいる。急いでいる上というのは、現場にとって天候と同じだ。文句を言っても降るものは降る。
班長格の男が端末を配って回った。画面に作戦区分と担当割りが並ぶ。弦は自分の名前を探し、見つけて、眉を動かさない練習の成果を発揮した。
——「特別対象・確保支援」。
確保。回収でも、収容でもなく。
言葉の使い分けには意味がある。この稼業は言葉が制服だ。回収は物に使う。収容は人に使う。確保は——弦の知る限り、上が「壊すな」と言いたいときに使う。壊すな。あれを。なぜかは、末席には降りてこない。
端末の末尾に、もう一行あった。
【既存案件「規格外個体」関連は全て凍結。人員は本作戦へ転用】
弦は画面を消した。ガキどもの追跡が、今夜から止まる。喜んでいいはずの一行が、素直に喜べなかった。凍結は解除とセットだ。そして解除された作戦は、たいてい、凍結前より太くなって戻ってくる。
昨夜、ガキどもに電話をかけた。かけたことは、どの報告書にも書いていない。書いていないものが、弦の私用の帳簿には少しずつ増えている。帳簿と呼べるほど立派なものじゃない。ただの、書かなかったことの山だ。山の理由を、弦は考えない。考えない、が続けられるうちは、まだ大丈夫だ。——何が、とは考えない。
「——鏑木さん、ですか」
声は、下から来た。
振り返ると、小さいのが立っていた。瑠璃紺の短髪、琥珀色の極薄遮光ゴーグル、動きやすい実働装備。子どもだ。どう見ても子どもだった。夜の作戦区域に、装備を着た子どもが立っている。その絵の据わりの悪さに、弦は一瞬、言葉を作りそこねた。
「今夜、組む者です。探知担当」
「……歳は」
「関係ありますか」
「ねえな」弦は言った。関係は、ないことにした。ここはそういう職場だ。そういう職場だと知っていて居続けているのは、俺だ。「弦でいい。行くぞ」
「はい。——真昼です。呼ばれないと思いますけど、一応」
呼ばれないと思っている言い方が、事務的で、慣れていて、弦は何も言わなかった。
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探知の実務は、思っていたより地味で、思っていたより不気味だった。
ビルの谷間で、真昼が立ち止まる。完全に静止する。呼吸まで浅くなる。ゴーグルの奥で何をしているのかは、弦には見えない。数十秒。それから小さく「北北東。移動中」とだけ言い、また歩く。歩き出しの数歩が、毎回おかしかった。縁石の段差に爪先を引っかけ、置いてある看板を避けそこねる。走査のたびに、しばらく目が利かなくなるらしい。夜目が暗さに慣れるのと逆だ、と弦は当たりをつけた。明るいものを視すぎた目は、普通の暗さが見えなくなる。次の開けた場所まで歩いて、また止まる。
「連続では、追えません」歩きながら、真昼は聞かれる前に言った。説明も業務のうち、という口調だった。「見える範囲が、狭いので。建物があると、そこで切れます。止まらないと、見えません」
「便利なんだか不便なんだか分からねえな」
「不便です」真昼は即答した。「だから、番の人がいます」
静止した真昼は、隙だらけだった。呼びかければ反応はするのだろうが、一拍も二拍も遅れるはずだ。走査の間、周りの気配を拾う仕事はほとんどこちらに来る。弦は出入口と死角を確認し、手袋の左手を身体の後ろに置いて、小さい背中の斜め後ろに立った。
二度目の走査の途中で、酔った男がふらふらと近づいてきた。深夜でも人は歩く。避難区域の外は、まだ普通の夜だ。男は静止した真昼を物珍しそうに覗き込もうとして、その前に弦と目が合った。弦は何も言わなかった。ただ立っていた。男は酔いの中でも生存本能だけは働くらしく、進路を変えて消えた。真昼は何も気づかないまま走査を終え、「北。停止中」と言った。周りを拾えない探知と、拾うだけの番。分業は、思ったより悪くなかった。
三度目の走査で、対象の反応が建物の陰に切れた。再捕捉には回り込みが要る。裏道の分岐で、真昼は当然のような足取りで逆側へ行きかけ、弦は無言で肩を掴んで反対へ向けた。真昼は向けられたまま、悪びれもせずに歩き出した。光は視えるのに、地図は読めないらしい。世話の焼ける探知だった。
四度目の走査で、異変があった。
静止した真昼の肩が、跳ねた。
小さく息を呑む音がして、真昼は自分から走査を切った。自分から。この几帳面な仕事ぶりで、手順を自分から崩した。
「どうした」
「……眩しい」
真昼はゴーグルの縁に指をかけて、かけたまま、外さなかった。
「あんなの、見たことない。あれは——」言いかけて、真昼は言葉を選び直した。選び直した結果が、これだった。「……直視しない方が、いいものです」
それきり真昼は黙り、報告端末に座標だけを送った。送ってから、送信済みの画面を、必要のない長さで見ていた。弦は北の夜空を見た。何も見えなかった。何も見えないことが、初めて、ありがたかった。
その後の走査で、真昼は毎回、静止の前に一呼吸置くようになった。飛び込みの前に息を整える子どもの間だった。手順にない間を、弦は指摘しなかった。指摘しない、も番の仕事のうちに入れることにした。
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明け方前の交代で、三十分の待機が付いた。
弦は自販機で茶を二本買い、一本を真昼の横に置いた。真昼はそれを見て、ゴーグル越しに弦を見て、また茶を見た。
「……毒見、要りますか」
「どういう職場で育ったんだよ」
「冗談です。たぶん」真昼は茶を両手で持った。持ち方が、寒がりの子どもの持ち方だった。飲む前に、缶の注ぎ口を指先で探した。目で見つけるより先に、指で。走査明けの目は、まだ暗いままらしい。一口目は薬みたいに慎重に飲んで、二口目からは、ただの子どもの飲み方になった。
弦は自分の茶を開けた。薄い味の、温かいやつ。夜勤の胃には、これしか入らない。
「弦さんは」真昼が言った。「傷、痛くないんですか」
「……なんの話だ」
「歩き方。左の脇腹と、右の膝、かばってます。張り込みのとき、体の傾きでわかります」
「脇腹は当たりだ。膝は外れ。靴が合ってねえだけだ」
「……そうですか」真昼は少しだけ悔しそうに缶を見た。「痛いなら、番は、わたしがやりますけど」
「慣れてる」弦は言った。「……その顔やめろ。ゴーグルでも分かんだよ」
真昼は缶を持ち直して、話を替えた。
「……追跡ログ、見ました。今夜のぶん、全部」
「ああ」
「変なんです」真昼の声は、報告の声のままだった。報告の声のまま、報告書には書けないことを言った。「あの対象、逃げてません。カメラを避けない。追っ手からも隠れない。でも、まっすぐでもない」
「迷ってんだろ」
「迷った人は、もっときょろきょろします」真昼は茶を一口飲んだ。「ログを見ると、曲がり角のたびに止まってるんです。止まって、しばらく動かないで、それから迷いなく曲がる。次の角でまた止まる。……道を探してる止まり方じゃない。確かめてる止まり方です。——探してるんじゃなくて、思い出しながら歩いてる」
弦は答えなかった。
答えない、が精一杯だった。思い出しながら歩く。確保しろ。壊すな。言葉の断片が、末席の頭の中で勝手に並ぼうとして、弦はそれを止めた。並べるのは上の仕事だ。並んだ絵を見るのは、たぶん、ろくなことじゃない。
沈黙が少し続いて、真昼がぽつりと付け足した。
「……さっきの、報告書に書きますか。歩き方の話」
「書く欄がねえだろ、そんなもん」
「そうですね」真昼は頷いた。頷いてから、小さく、息だけで言った。「よかった」
何が良かったのかを、弦は聞かなかった。聞かない技術なら、この稼業で嫌というほど磨いてある。
交代の車が来た。真昼は茶の缶を几帳面に分別して、乗り込む前に一度だけ振り返った。
「弦さん。番、上手でした」
「そりゃどうも」
「明日も、います」
それだけ言って、小さい背中は車に消えた。弦は自分の車に戻り、エンジンをかける前に、私用の端末を一度だけ見た。着信はない。ガキどもは、言いつけを守っている。守っているなら、それでいい。
巡回の帰路は、遠回りだった。駅前を通り、コンビニの裏を通り、縁石の見える角を徐行で流した。誰もいない縁石は、ただの縁石だった。誰もいないことを確認する仕事は、担当割りのどこにも書いていない。書いていない仕事を、弦は今夜もひとつ、黙って済ませた。
家に戻って、直しかけの傘を作業台に置いた。骨を二本替えれば開く。直ったら、あの店の貸し傘の立てに黙って混ぜておくつもりだった。誰が使うかは、直す理由に関係がない。弦は工具を用途順に並べ直して、夜勤明けの茶を淹れた。薄い味の、温かいやつを。
(ep014 了)




