サイレン
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【観察記録 ——相良慧】
交差、という現象について考えています。
独立に走る複数の線が、ある一点で出会う。数学では点と呼びますが、人間の場合、交差は点では済みません。出会った線は互いを変形させ、二度と元の——
——ここで記録を中断する。外が騒がしい。
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五時間目の教室は、前夜の大規模停電の話題で、驚くほど盛り上がっていなかった。
「変電所の故障だってさ」「復旧したんでしょ」「うちの区じゃないし」——それで終わりだった。ミラーのフィードは今朝からアイドルの脱退騒動一色で、停電は三番手にも残っていない。湊は自分の端末で昨夜の報道を遡りかけて、やめた。ネットは使わない、と決めた調査は自分の過去についてだけのはずなのに、癖は生活の他の場所にも染みてくる。
隣の席で、栞が進路資料の頁をめくった。一拍おいて、めくり直した。それだけのことを、湊は見るともなく見ていた。
帰りの会の前、配布物を後ろに回すとき、栞の指が一瞬止まって、それから湊の机の上に、彼のぶんを角を揃えて置いた。
「相沢くん、これ、保護者の確認欄があるやつです。……そう、伝えたほうがいいみたいだから」
「あ、ほんとだ。ありがと」
礼を言うと、栞は正解の微笑で頷いて前を向いた。湊は書類の隅の確認欄を見て、それから、栞の言い方の後半を頭の中で繰り返した。伝えたほうがいいみたいだから。——みたい、って誰が決めてるんだろう、と考えかけて、変な考え方だ、と自分で打ち消した。
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放課後の縁石は、平和だった。
「だからさあ」透が牛乳のパックを畳みながら言った。「ミナトはお人好しすぎるんだって。購買で後ろのやつに順番譲って、自分の分の焼きそばパンが売り切れるのは、あれはもう才能だよ」
「譲ったっていうか、流れで」
「その流れに二年間住んでるのが才能なの。なあ?」
「才能」雪が頷いた。「昨日も、わたしのゼリー代、出してた」
「あれは、じゃんけんで負けたから」
「ミナトは知らないだろうけど」透が声をひそめた。「雪のじゃんけん、後出しなんだぜ」
「後出しじゃない。よく見てるだけ」
「それを後出しって言うんだよ」
雪は答えず、湊の方に手のひらを出した。じゃんけんの構えだった。よく見ている目が、真顔でこちらを見ていた。湊は財布の中身を思い出して、静かに構えを解いた。二人が声を出さずに笑った。からかわれている。わかっていて、この時間が嫌いではなかった。
透が端末に何か打ち込む。「なに書いてんの」と聞くと、画面をこちらに向けた。今日の予定の欄に『ミナトの才能の観察・継続』とあった。
「消せよ」
「記録は消さない主義なんで」
それから透は牛乳を取り替えに立ち、戻ってきて、雪はゼリーを吸っていた。
「今日の、味が違う」
「聞けよ。……ん? 銘柄変えたのか」
「いつもの、売り切れてた。これは、二番目」雪はパッケージを裏返し、成分表を睨んだ。「二番目は、りんごの主張が強い」
「りんごの主張」
「強い」
雪は繰り返して、それでも几帳面に最後まで吸い切った。二番目に文句を言いながら残さないところが雪だった。湊は笑って、笑いながら、少しだけ胸の中で記録した。雪の水位は今日も静かだ。静かだけど、このごろ、静けさの種類が変わった気がする——気がする、止まりの観測を、湊はまだ誰にも言っていない。
「で、真面目な話」透が声の温度を半分だけ下げた。「昨日の停電、消し方が雑だ」
「消し方?」
「報道の消え方。いつもならもっと丁寧なんだよ。事故説、寒波説、フェイク説って三つくらい流して、どれも決め手がないまま飽きさせる。それが今回、説の流し込みが追いついてない。消す速さより、増える速さが勝ってる」透は端末の画面をこちらに向けた。目撃談のまとめが、消されては増え、消されては増えしていた。「こういうの、初めて見る」
「それって、つまり」
「わかんね。わかんないけど——」透は端末を仕舞った。「今夜は早く帰ろうぜ。りんごの主張も強いことだし」
「それは関係ない」と雪が言った。
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解散して、家に着く前だった。
最初のサイレンは、遠かった。二つ目は、近かった。三つ目が鳴ったとき、湊の端末と、通りを歩く全員の端末が、同時に同じ音を立てた。
『こちらは都の防災情報です。ガス管の破損事故のため、以下の区域の方は避難を——』
顔を上げると、夕方の空を配達ドローンではない機体が横切っていった。一機ではない。等間隔で、三機。灯りを持たない、暗い色の機体だった。交差点の信号が全部赤になり、無人配送車が路肩に整列していく。通りの人々は端末を見ながら、それでも足取りは日常のままだった。避難情報は避難区域の人のもの、という顔で歩いている。街のシステムだけが、静かに態勢を変えている。ガス漏れ、という説明と、街の変わり方の規模が、噛み合っていなかった。
耳元でエージェントが言った。『避難区域外です。通常の帰宅経路を推奨します』。通常、という言葉が、今日は少しだけ薄っぺらく聞こえた。
湊は足を速めた。速めながら、気づいた。
左手首の痕が、熱い。
あの夜——ドローンの漏れ音声を聞いた夜も、熱を持った。でも今夜のは、あれより強い。脈に合わせて、内側から押すような熱だった。湊は袖の上から手首を握った。握っても、熱は袖の下で続いた。理由を考えようとして、考える材料が何もないことに突き当たる。穴の縁を測る、と決めたはずのノートの、どの頁にも載っていない熱だった。
家に着くと、遥が玄関まで出てきていた。
「おかえり。……避難の区域、うちは入ってないって」
「うん、見た」
「一緒にいた友達は? もう帰ったの」
「解散した。もう家のはず」
遥は頷いて、それ以上聞かなかった。聞かない代わりに、夕食はいつもより一品多くて、味噌汁が濃かった。食卓の途中、遥は一度だけ「明日、お弁当いる?」と聞き、湊が「いる」と答えると、冷蔵庫の中身を口の中で数え始めた。避難情報の夜に、明日の弁当の話をする。それが母さんの、心配の仕方だった。テレビの報道は避難区域の地図を繰り返し映している。地図の中心は、再開発区画のあたりだった。何もない、更地の多い区画のはずだ。ガス管の破損、と字幕が出ている。アナウンサーの声は落ち着いていて、落ち着きすぎていて、湊は透の言葉を思い出した。消す速さより、増える速さが勝ってる。
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夜、部屋で、湊はローカルのメモを開いた。
『五歳夏〜六歳冬。アルバムなし。書類なし』——調査は保育園の記憶の掘り起こしで止まっている。園の名前は思い出した。建物の色も。門の横に、象の形の遊具があったことも。でもその先を確かめる手段を、ネットを使わずに探すのは骨だった。卒園アルバムは押し入れになかった。園に直接行く、が次の手のはずで、その一歩を、湊はもう一週間、踏み出せていない。行けば何かが確定してしまう気がする。確定を先延ばしにしているのは、たぶん、母さんと同じやり方だった。それに気づいてから、少しだけ、母さんの一拍に腹が立たなくなった。
メモの最後に、今日のぶんを足す。
『手首の熱、三回目。今回が一番強い。条件は不明。停電・避難情報と同じ夜』
書いてから、湊は自分の書いた行を見つめた。並べただけだ。関係があるかどうかは、わからない。わからないことを、わからないまま並べておくのが、このメモの決まりだった。
端末が、鳴った。
透からの通話だった。出ると、透の声は最初の一言だけだった。
『ミナト、繋ぐ。聞いてくれ』
回線の切り替わる音がして、別の声が乗った。低い声。透ではない。
あの、傷だらけの大男の声だった。
『——おい。聞こえてるか』
「……あんた、どうやって透に」
『そんなことはどうでもいい。いいから聞け。一度しか言わねえ』
雑音の向こうで、サイレンが鳴っていた。男のいる場所のサイレンと、湊の窓の外のサイレンが、少しずれて重なった。
『呼べと言ったな。今夜は逆だ。俺が呼ぶ。——ガキども、今夜は家から出るな。あの嬢ちゃんにも伝えろ。何を見ても、聞いても、出るな』
「待って、何が起きて」
『出るな。それだけだ』
通信は切れた。
画面が暗くなり、部屋には窓の外のサイレンだけが残った。湊は端末を握ったまま、しばらく動けなかった。
三十秒ほどして、透からメッセージが来た。『雪には伝える』——それだけだった。いつもの軽口が、一文字もなかった。少し間があって、もう一通。『つーか、あいつどうやって俺の番号……いや、いい。考えるのやめた』
最後の一通は、さらに間があってから来た。
『なあ。夕方の縁石でさ、りんごの話とかしてたの、ちょっと前のことなのに、なんか遠くない?』
湊は返す言葉を打ちかけて、消して、『わかる』とだけ送った。カーテンの隙間から外を見た。
暗い色のドローンが、また一機、避難区域の方へ飛んでいった。夜の街は避難区域の縁だけが不自然に明るく、その明るさの中心に、何もないはずの更地がある。あの男は、あそこにいるんだろうか。何を見て、俺たちに「出るな」と言ったんだろうか。
布団に入っても、サイレンは間遠になりながら続いた。湊は左手首を胸の上に置いて、熱が引くのを待った。待ちながら、いつの間にか数えていた。透。雪。母さん。あの男。——数えるものは増えたのに、今夜はどの名前も、少しずつ遠い場所にいた。
左手首の熱は、朝まで引かなかった。
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【観察記録 ——中断のまま】
続きを書く言葉が、今夜は見つからない。事実だけを記す。
停電の翌日、避難情報。区域は再開発地区。清川さんは調べものに出て、まだ戻らない。サイレンは継続。
以上。
(ep013 了)




