かえりたい
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【観察記録 ——相良慧】
帰る、という動詞について考えています。正確には、その主語について。
「帰る」は不思議な動詞です。場所を移動する、という点では「行く」と同じなのに、「帰る」にだけは、行き先が最初から決まっている。主語の側に、帰るべき場所が既に埋め込まれている。だから人は、初めて訪れる場所へ「帰る」ことはできません。
——できない、はずです。では、帰る場所を失った主語は、どの動詞を使えばいいのでしょう。
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収容施設の定期業務は、月に一度ある。
都市の外れ、地図の上では水質研究所ということになっている建物へ、要は書類鞄ひとつで入った。収容者に関する記録の整理と、面会・搬入に伴う周辺記憶の処理計画の確認。灰番の仕事は市街だけでは終わらない。消された記憶の行き先であるこの施設まで、書類の形で続いている。
エレベーターには、ボタンのない階が二つあった。
要の通行証で行けるのは地下三階まで。その下に、まだ深さがあることは、待ち時間でわかる。呼んだ箱が、誰も乗せずに「下から」上がってくることがあるのだ。表示の階数はとうに尽きているのに、箱だけが、表示のない場所から時間をかけて戻ってくる。同行の職員は地下三階で降り、要も降りる。それより下の話を、この施設では誰もしない。しない、という統一のされ方が、この建物の言語だった。
地下三階の資料室で、要はいつもの通り書類を繰った。凍結事案の男の処遇記録。尋問延期の承認印。医務の数値の推移。数値は、承認が正しかったことを静かに語っていた。負荷をかけていれば、この男は今ごろ、聴取できる何かではなくなっていた。
資料室の当直は、顔見知りの年配の職員だった。茶を出してくれながら、孫の話を少しした。運動会で二等だったという。要は相槌を打ち、二等の徒競走の話を最後まで聞いた。この施設で交わされる会話のうち、収容と関係のないものは貴重品だ。互いに、それをわかっていて、わかっていることは言わずに、徒競走の話をした。
「篠田さんとこも、娘さん、大きくなったでしょう」
「ええ。もうすぐ誕生日です」
「早いなあ」職員は湯呑みを置いて、ふと、視線を床に落とした。「……ここの下の子は、誕生日、来ないんだろうかね」
要は、答えなかった。職員も、答えを待っていなかった。下の子、という言い方をこの人が選んだことだけを、要は聞かなかったことの棚に置いた。棚は、もういっぱいだった。
帰り支度を始めたのは、二十三時前だった。
最終の連絡車両まで、あと四十分。要は資料を鞄に戻し、眼鏡を拭いた。今日の仕事は、いつも通りに終わる。いつも通りに終わる日を積み上げることが、この仕事の正しい形だ——
警報が、鳴った。
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最初は火災警報だと思った。違った。館内放送は無機質な女声で『区画統制。各員は現在位置で待機』とだけ繰り返し、それから、放送ごと沈黙した。
停電。
非常灯の緑が、廊下の輪郭だけを残して世界を消した。資料室の年配の職員が「またブレーカーかね」と言いかけ、言い終わる前に、内線の受話器を取った。受話器は沈黙していた。内線が死ぬ停電は、ブレーカーではない。職員の顔から、徒競走の話をしていた人の柔らかさが、手順の顔に差し替わっていくのを、要は見た。
「篠田さんは、ここに。動かんでください」
職員は懐中灯を持って出ていき、それきり戻らなかった。
要は資料室の戸口で待機の姿勢を取り、待機、という言葉が意味を持たない種類の夜が始まったことを、廊下を走る複数の足音で知った。十五分待った。二十分待った。戻らない当直と、鳴らない内線と、繰り返しの止まった館内放送。要が戸口を出たのは、指示に反する判断で、反する判断をした自分に、あとで書類の言葉で説明をつけることになると知りながらの一歩だった。
足音は、下から昇ってきた。
ボタンのない階の方から。
最初にすれ違った職員は、死んだ無線に向かって怒鳴り続けていた。下で何があった、下で——応答のないことを確かめるためだけの声だった。二人目は非常階段の入り口に座り込み、過呼吸の胸を押さえて、要の声かけに首を振ることしかできなかった。三人目は消火栓の前で緊急手順書を開いたまま、同じ頁を何度もめくり直していた。停電。脱走警報。通信断。理由は数えられる。数えられる理由の混乱のはずなのに、訓練された人間たちの訓練が、一晩でばらばらに軋んでいる音を、要は廊下中で聞いた。誰も、要を止めなかった。
地下三階の、廊下の突き当たりの隔壁が、開いていた。
開く、はずのないものだった。要の通行証では近づくことすら許されない、床から天井までの重い扉。それが両開きのまま停まり、奥から、消毒液と、それから焦げた匂いがした。
要は入るべきではなかった。入る権限も、理由もなかった。ただ、目撃系統の整理は要の職分で、いま施設で起きていることは、いずれ全部、要の机に書類として降ってくる。見ておく義務があった。……義務だけでは、なかったが。
隔壁の内側は、短い通路と、小さな部屋だった。
部屋の中央に、寝台と、拘束具。
拘束具は、開いていた。千切れてはいない。壊れてもいない。正しい手順で外されたように、静かに、開いていた。無人の拘束具というものが、人間の形のうつろを抱えて、そこにあった。
壁に、痕が走っていた。
焦げ痕だ。ただし火の焦げ方ではない。細い筋が根のように枝分かれして、壁から天井へ、天井から通路の奥へ——神経の走行図をそのまま焼き付けたような痕が、部屋から廊下へ、出口の方へ、続いていた。
要は、それ以上進まなかった。進めなかった。
部屋の隅に、小さな山があった。折り紙だった。誰かが差し入れたのか、自分で折ったのか、鶴とも花ともつかない形のものが、幾つも幾つも、几帳面に積んであった。
拘束されていた者の、几帳面さ。
要は目を逸らした。逸らした先の壁に、焦げ痕の枝の一本が、ちょうど子どもの背丈の高さを、ずっと這っていた。
通路を戻る足が、途中で一度だけ止まった。折り紙の山の、いちばん上の一つが、鶴とも花ともつかない形のまま、出口の方を向いて置かれていたからだ。向けて置いた、のか。たまたまか。要はそれを書類にどう書くのかを考え、書かない、という結論だけが先に出た。
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視界の隅で、花が揺れた。
要は振り返った。非常灯の緑の廊下に、花桶が並んでいた。切り花が水に立って、店先の匂いがした。あの花屋だ。凍結事案の後始末で、店主の「今日」を消した、あの——
瞬きの間に、廊下は廊下に戻った。
花桶はない。匂いだけが、鼻の奥に一瞬残って、消えた。
要は壁に手をついた。夢で見るのは、いつものことだ。消した記憶の夢を、自分も見る。それがこの仕事の対価で、夜の分割払いで、だから朝には返し終えている。——起きたまま見たのは、初めてだった。
支払いの取り立てが、夜を待ってくれなかったのは。
要は深く息をして、手順を数えた。戸締まり。搬出経路。待機位置。手順は数えられた。数えられることを確かめてから、要は非常階段を昇った。
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地上に出ると、夜空が広くて、それが不気味だった。
施設の敷地に、車両のライトが交錯している。管制車両の周りに人が集まり、無線が幾つも同時に鳴いていた。要は関係者の輪の外に立ち、聞くつもりのないまま、聞いた。
『——第三、応答して。第三——』
『フェンスの断線を確認。外周の記録は停電で飛んでる——非常電源の回ってない区画だ。追えるのは断線箇所から先の足取りだけ——』
『——対象、施設外へ。方角——』
無線が一度、砂嵐みたいなノイズに沈んだ。沈んで、戻った。
『——対象、市街方向へ。繰り返す、市街方向へ——』
市街。
その二文字が、要の中で勝手に地図になった。夜の市街。眠っている家々。眠っている、小さな部屋。玄関に几帳面に揃えられた、小さな靴。
芽衣。
要は端末を出した。着信はない。自宅の応答パネルのログを開く。今日の訪問記録、なし。玄関の施錠、正常。深夜二時十四分、家は、記録の上では眠っている。記録は正しい。記録が正しいことを、要は仕事で誰よりも知っていて、記録がすべてではないことも、同じ仕事で誰よりも知っていた。
芽衣を起こすことになっても、声を聞くべきか。端末の呼び出し画面の上で、指が二度、行って、戻った。娘の眠りと、自分の安心を、天秤にかけている。かけてしまっている。要は端末を仕舞った。自宅は施設から遠い。市街は広い。確率の計算はいくらでもできて、どの計算も、指の震えを止める役には立たなかった。
管制の喧噪の向こうで、毛布を掛けられた職員が、同じ証言を繰り返している。地下から上がってきた最後の一人だという。震える声は、途中から証言の形を失って、それでも同じところへ戻り続けた。
「かえりたい……かえりたいって、いってた……」
誰が、と聞き取れる形には、最後までならなかった。
要は最終車両に乗り込み、市街へ向かう夜道の窓に、自分の顔が映るのを見た。灰番の顔だった。書類の顔だった。その顔の下で、父親の心拍だけが、ずっと速いままだった。
車窓の遠くに、市街の灯が見えてくる。停電はこの区画まで及んでいないらしく、街は、何も知らない明るさで横たわっていた。あの灯のどれかの下を、拘束具を抜けた何かが、いま歩いているかもしれない。かえりたい、と言いながら。——どこへ、と要は思った。記録を消されたものに、帰る場所は、書類の上にはもう残っていないのに。
消したのは、誰の仕事だったのか。
その問いが浮かんだことに、要は気づかないふりをした。鞄の持ち手を握る手に、必要のない力が入っていて、市街に着くまで、抜けなかった。
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【観察記録 ——続き】
今日、この地方で大規模な停電がありました。報道は設備の故障と言っています。復旧の見込みと、影響世帯数と、専門家の解説。画面の中では、すべてに説明がついていました。
わたしはもう、その種の説明を、素直に信じられなくなっています。これは科学者として、良い変化ではありません。疑いは検証のためにあるので、検証できない疑いは、ただの不安だからです。
検証不能な仮説を書き並べることを、不安と呼ぶ——父の言葉です。今夜は、その通りのことをして、頁を閉じます。
(ep012 了)




