かえるところ
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【観察記録 ——相良慧】
交差、について。中断したままの頁があります。今日はその続きを書くつもりです。
複数の線が同じ一点を通るには、条件が要ります。同じ場所。同じ時刻。そして、互いを線として認識しないこと——認識してしまえば、人は避けるか、止まるからです。交差は、当事者には決して交差に見えない。あとから記録を並べた者にだけ、見える。
今夜の街は、騒がしい。記録を並べる者の仕事は、たぶん明日から始まります。
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避難区域の拡大が告知されたのは、午後七時二十分だった。
縁石に三人で座っているときだった。透の端末と湊の端末が同時に鳴り、少し遅れて、雪の端末が鳴った。ガス管復旧作業の難航に伴い、本日二十一時をもって避難区域を拡大します。対象地区にお住まいの方は——読み上げるエージェントの声はいつも通り丁寧で、いつも通り、何も知らなかった。
「うち、入ってる」透が画面を見たまま言った。「ミナトんちも。……雪の避難先、どこ指定?」
「第五中。あなたたちと違う方」
「マジか」
夜の通りは、告知から三十分で人の川になった。キャリーケースの列。抱えられた子どもの泣き声。歩道から溢れた人が車道を歩き、無人配送車が困り果てて停まっている。誰も走っていないのに、川全体が急いでいた。
「本通りは駄目だ、詰んでる」透が端末の地図に自分だけの印を重ねた。「こっち。倉庫の裏の筋。カメラの死角で人も来ない。半月前に歩いて確認済み」
透の地図を、湊は疑わなかった。透の記録は、いつも正しかったからだ。
裏の筋は、確かに空いていた。人の川の音が壁一枚向こうに聞こえるのに、こちらは猫もいない。三つ目の角を曲がったところで、その正しさが終わっていた。
新しいフェンスだった。工事の白い仮囲いが、筋を丸ごと塞いでいる。設置されたばかりらしく、路面に削り粉が残っていた。先頭を歩いていた雪が、勢いを殺しながら仮囲いの縁に手をついて、小さく息を吸った。手のひらに、浅い擦り傷が線を引いていた。「平気」と、聞く前に言われた。
「……嘘だろ。先週はなかった」透が仮囲いに手をつく。「ここが抜けられないと、雪の第五中は、ぐるっと大回りになる。おれたちの方と逆」
選択肢は二つだった。三人で人の川に戻って、流れに逆らって雪を送る。それとも——。
「一人で平気。ここから近いから」
雪の答えは、質問より早かった。
湊は、雪の顔を見た。街灯の下で、顔色はよく分からなかった。分からなかった、ことにした。さっき縁石で立ち上がるとき、雪の手が縁石の縁を探したのを、湊は見ている。ここ数日、雪の静けさの種類が変わっていることも、知っている。知っていて、湊は人の川の音を聞き、時計を見て、雪の「平気」を、確認の代わりに使った。
「……気をつけて。着いたら連絡して」
「ん」
雪は仮囲いの手前の細い抜け道へ入り、振り返らずに手だけ振った。小さい背中が角に消えるまで、三秒もかからなかった。短い、なんでもない三秒だった。そのときは。
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二十一時四十分、雪から連絡は来なかった。
避難所の受付で、湊は端末を睨み続けた。既読がつかない。呼び出しは鳴り続けて、留守番応答に落ちる。三度、四度。着いたら連絡して、と言った。言って、それで済ませた。
「透くん。雪の抜けた筋、どこに出る」
透が地図を出した。出して、顔色が変わった。
「……出口の先、二十一時の拡大区域の内側だ。おれの地図が古い。筋は合ってる、けど、出た先が——なんで気づかなかったんだ、おれ」
透の声から軽さが消えていた。湊はもう聞いていなかった。走り出していた。
規制線は、要所しか塞がれていなかった。人手が足りていないのだ。工事の仮囲いの隙間を抜けて、湊は拡大区域へ入った。復旧作業のため送電を一時停止します——告知は読んでいた。告知どおりの暗さだった。街灯が消え、看板が消え、自動ドアが開かない。電気の落ちた通りは、湊の知らない静けさをしていた。自分の足音と、自分の呼吸だけが大きい。耳元のエージェントだけが『立入規制区域です。退出を推奨します』と、小さく律儀に繰り返している。左手首の痕が、熱かった。
声が聞こえたのは、そのときだった。
歌、だと最初は思った。違う。いくつもの声が、ひとつの口から順番に出ている。老人の声。女の人の声。誰かの子どもの声。声色は入れ替わるのに、言っていることだけが、ずっと同じだった。
——かえりたい。
通りの先、再開発区画の広い更地の縁を、白い髪の誰かが歩いていた。伸び放題の髪。遠くてもわかる、まっすぐでも迷ってもいない歩き方。囲むように、遠巻きに、大型車両の影が停まっている。ライトは点いていない。誰も近づかない。ただ、待っている。
かえりたい、と子どもの声が言った。かえして、と老人の声が言った。かえるってどこに、と知らない声が言った。
湊の喉の奥で、勝手に何かが応えようとした。わかるよ、と言いそうになる。わかるはずが、ないのに。誰に向かって言うのかさえ、決められないのに。
「あなたは——」
続きが、出てこなかった。あなたは誰、も、あなたはどこへ、も、口の中で形になる前に崩れた。舌が、次の音を選べなかった。
「君は、あれを『あなた』と呼ぶんですね」
声は、すぐ横から来た。
銀色の髪の青年が、いつからそこにいたのか、湊の隣で更地を見ていた。歳は湊とそう変わらない。灰色の目は、驚くほど静かだった。青年は白い髪の誰かへ向かって数歩進み、右手を持ち上げかけて——止めた。
「……順序が、違いますね」
独り言だった。青年は湊を一度だけ見た。値踏みでも敵意でもない、ただ観測するだけの一瞥だった。それから踵を返し、封鎖の暗がりへ歩き去った。名乗らなかった。湊も、聞けなかった。数十秒の出来事だった。
更地の方へ一歩踏み出したとき、目の前に背中が立った。
大きな、作業着の背中だった。振り向いた横顔に、覚えがあった。透を連れて行きかけた夜、目の前に立った大きい人。それから、たぶん——「家から出るな」の、あの電話の声。男は何も言わなかった。湊を見もしなかった。ただ更地と湊の間に立ち、動かなかった。通せんぼというより、壁だった。
壁の向こうで、白い髪の誰かが、更地の真ん中で足を止めた。何もない更地の、基礎のコンクリートだけが残る一角。そこが目的地だったように、自分から、そこで止まった。
車両のライトが、一斉に点いた。
同時に、耳元のエージェントが言葉の途中で消えた。『退出を推——』。それきりだった。それとは別に、もっと内側で、何かが糸を離したように静かになった。鳴っていたことに気づいてもいなかった何かが、消えた。理屈より先に、ひどく心細かった。独りだ、と思った。誰がいなくなったのかも、わからないのに。
ライトの中で、あの多重の声がひとつずつ順番に細り、消えていくのが聞こえた。最後に残ったのは、どの声だったのか、湊には分からなかった。
誰も、何も救わなかった。担架と、毛布と、白い車。手順だけが、静かに終わっていった。
「雪」
男の背中に、湊は言った。「あの、女の子が。この中に」
男は初めて湊を見た。それから顎で、更地と反対の方角を示した。
雪は、封鎖の内側の縁、閉じたコインランドリーの前にいた。しゃがみこんで、膝を抱えて、更地の方を見ていた。
「雪」
一拍、遅れて、雪が振り向いた。名前を呼ばれた人の速さではなかった。呼ばれたことを、思い出してから振り向いた速さだった。
「……帰り道、わかんなくなった」雪は小さく言った。「別に、いい、と思って。座ってた」
差し出した手を、雪は見て、それから掴んだ。掴んだ手のひらに、仮囲いで擦ったあの傷が——なかった。二時間しか経っていないのに、線の跡さえ、もうなかった。
湊は何も言わなかった。言えなかった。雪の手を引いて、電気の落ちた街を戻りながら、湊は自分が今夜したことと、しなかったことを、一つずつ数えはじめていた。
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同じ夜、汐見京香は封鎖の南側にいた。
救急車が入るたび、規制線は数十秒だけ緩む。三度目の緩みで、京香は倉庫の外階段を三階分上がった。手すりに固定したカメラが、真正性認証の緑の小さな灯を点す。月々の認証料は、今月も食費から出ている。
ファインダーの中に、更地があった。輪になった車両。担架。毛布に包まれた、白い髪の誰か。距離があっても、隠しようのない画だった。ガス管の復旧作業に、担架は要らない。
京香は撮った。撮りながら、自分が何を撮っているのかは、分からなかった。分からないまま、認証済みの映像が一分、二分と積み上がっていく。八ヶ月前の読めない頁の隣に、今夜、初めて読める何かが並んだ——そんな気がした。気がする、はまだ書かない。書けるのは、映像が本物だという事実だけだ。
今は、それで足りる。
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三日後の夕方、縁石に三人は来ていた。
誰が言い出したわけでもなかった。避難解除の告知が出て、人の川が逆向きに流れて、街は日常の顔で埋まり直した。検索窓に何を入れても、もう大した話は出てこないらしい。らしい、というのは、透が端末を開いていないからだった。透は端末をポケットに入れたまま、出さなかった。膝の上の手が、何度かポケットへ動いて、止まった。
湊は、あの三秒を数え直していた。仮囲いの前で、雪の背中が角に消えるまでの三秒。数え直すのは、もう何十回目かになる。数えながら、謝る言葉を探していた。三日間探して、まだ見つかっていなかった。ごめん、は違う。俺が悪かった、も足りない。言葉は全部、言った自分が楽になる形をしていた。
雪はゼリー飲料を持っていた。二番目に好きな銘柄。封の切り口に指をかけて、二度、滑った。三度目も、指が切り口を掴みそこねた。いつもは見ないでも開けられるのに、雪は手元を見ていて、それでも開かなかった。
透が黙って手を伸ばした。雪の手からゼリーを取り、封を切って、返した。
雪は受け取って、一口飲んだ。
夕日が、三人の影を縁石から車道まで伸ばしていた。誰も喋らなかった。喋らないまま、誰も帰ろうとしなかった。
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【観察記録 ——相良慧】
交差の頁を、閉じます。
観測対象たちは、互いを観測していました。それぞれの場所から、それぞれの限界の中で。彼らはあの夜、同じものを見たはずです。
わたしだけが、まだ何も見ていない。
観測者を名乗る者として、これ以上正直な結語を、今は持ちません。ノートを、一冊、ここで替えます。
(ep018 了)




