第九十七話:地獄のスパルタ特訓と、成長率ゼロのポンコツ肉体
「オラオラオラァ! 足が止まってるよお姫様! 暗殺者のナイフは待ってくれないよ! ほら、右! 左! ステップ踏んで回避ィ!!」
「ひぃぃぃっ! む、無理じゃ! 足がもつれ……あべっ!?」
母艦エインヘリアルのトレーニングルーム。
長女ランドグリーズが容赦なく射出する無数のスポンジボール(時速100キロ)を避けようとしたローゼリアは、自身の右足と左足を見事に絡ませ、豪快に顔面からマットへダイブした。
「……ああっ、もうダメじゃ……。世界が、世界がグルグル回っておる……っ」
「甘ったれるな! 次は基礎体力作りのランニング二十キロ! その後は近接格闘のスパーリング百本組手ッス!!」
鬼教官と化したランドグリーズの怒声が響く中、ローゼリアの限界オタク(インドア派)の肉体は、とうの昔に限界を突破していた。
視界はチカチカと点滅し、胃袋の中身が猛烈な勢いで逆流してくる。
「うっ……! げ、限界……! お、おえぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!」
「ひ、姫君ィィィィィィィィッ!!!」
ローゼリアが四つん這いになり、用意されていたエチケット用のバケツに文字通り顔を突っ込んで盛大にゲロを吐き出した瞬間。
部屋の隅で拘束具(物理)で縛り付けられていたリアンヌが、血の涙を流しながら絶叫した。
「おのれランドグリーズ! 姫君になんという野蛮な真似を! 姫君の美しく神聖な胃袋から、あのような……あのようなモノを吐き出させるなど、万死に値します!! 今すぐその拘束を解きなさい! 私の槍で貴様を原子レベルで消し飛ばして——むぐーっ!」
「はいはい、リアンヌさんは大人しくしててね。お姫様が自衛できるようになるための、大事な特訓なんだから」
暴れるリアンヌの口を、次女のロスヴァイセが布で塞ぎ、三女のオルトリンデが手際よく拘束具のワイヤーを締め直す。
「ぜぇ……はぁ……っ。お、鬼! 悪魔! 妾は死神じゃぞ!? なんで死神がゲロまみれになってランニングせなアカンのか……!」
「文句を言わない! お姫様のその『奇跡のドジ』に頼った神回避は、いつか絶対ボロが出るッス! 自分の身は自分で守れるように、徹底的に身体に叩き込んでやるッスよ!」
(む、無茶苦茶じゃ……! 中身が引きこもりのオタク男子じゃぞ!? 体育の成績はずっと『1』じゃったのに、いきなり特殊部隊レベルのスパルタ訓練など、身体が粉砕されてしまうわァァァッ!!)
しかし、ランドグリーズのスパルタ指導に妥協の文字はなかった。
来る日も来る日も、ローゼリアは文字通り泥と汗にまみれながら、走り、飛び、転び、そして吐き続けた。
「よーし! その調子ッスお姫様! 吐いて吐いて、胃を空っぽにしてからが本当の筋トレの始まりッスよ!」
「もう……何も……出ない……(気絶)」
死神の威厳など完全に消え失せ、ただのボロ雑巾のようになったローゼリアの過酷な一週間が、こうして過ぎ去っていったのである。
そして、一週間に及ぶ地獄の体術・回避訓練の最終日。
母艦エインヘリアルのメディカルルームに設置された疲労回復用の検査ポッドから、フラフラとした足取りで這い出てきたローゼリアを、戦乙女の面々が囲んでいた。
「……よく頑張ったな、ローゼリア。毎日バケツを抱えて泣いていた時はどうなるかと思ったが、これでお前も、いざという時に暗殺者のナイフを躱すくらいの身体能力は身についたはずだ」
ブリュンヒルデ団長が、労いの言葉と共に特大の胃薬を流し込む。
「ええ! アタシの地獄のメニューを(無理やり)一週間こなしたんスから、基礎体力も反射神経も、見違えるように向上してるはずッスよ!」
ランドグリーズも、自信満々に腕を組んで白い歯を見せた。
「おえぇぇ……。もう二度と、走らん……。妾は一生、ベッドの上から動かんぞ……」
顔面蒼白でソファーにへたり込むローゼリアの口元を、リアンヌが涙ぐみながら最高級のシルクのハンカチで拭っている。
「おお……可哀想な姫君。あんな野蛮な筋肉ダルマのしごきに耐え抜くなんて、姫君はなんて気高く強いお方なのでしょう!」
「さて。では、特訓前と特訓後の、お姫様の身体能力データの比較結果を発表します」
三女のオルトリンデが、タブレットのホログラムモニターを空中に投影した。
そこには、ローゼリアの筋力、持久力、反射速度などのパラメータがレーダーチャートで表示されている。
「えー、結論から言いますと」
オルトリンデは、眼鏡をスッと押し上げ、極めて事務的な、しかしどこか信じられないものを見るような声で言った。
「お姫様の身体能力は、一週間の特訓を経て——**【完全に一切の成長が見られません】**」
「…………は?」
ブリッジにいる全員(ローゼリアを除く)の声が揃った。
「どういうことだ、オルトリンデ。あんなに毎日吐くほど走って、筋トレさせたんだぞ? 筋肉痛で一歩も動けなくなるくらい追い込んだんだ。少しは数値が上がってるはずだろ?」
ブリュンヒルデがモニターを食い入るように見つめる。
「それが……基礎体力、筋力、反射神経、動体視力に至るまで、すべての数値が特訓初日のデータと『小数第二位まで完全一致』しています。一ミリも、一グラムも、向上していません。むしろ、毎日の過労によるストレスで、最大HP(体力)が2%ほど減少しています」
「な、なんだとォォォォッ!?」
ランドグリーズが目をひん剥いて叫んだ。
「あんなにゲロ吐きながらスパーリングしたのに!? 筋肉が一切ついてないってどういうことッスか!! アタシの指導が間違ってたっていうんスか!?」
「いいえ。姉さんのメニューは完璧なものでした。原因は、お姫様の『肉体そのもの』にあります」
オルトリンデは、ホログラムの画面を切り替えた。
「お姫様の肉体は、莫大すぎる魔力を内包するために、ある種の『完成された器』として完全に固定化されているようです。つまり、いくら物理的な負荷をかけて筋肉繊維を破壊しても、魔力が瞬時に細胞を元の状態(ポンコツで非力な美しい少女の姿)に修復・リセットしてしまうのです。……RPGのゲームで例えるなら、『イベント用の固定ステータスキャラ』に、いくら経験値を与えても絶対にレベルアップしないのと同じ現象ですね」
「……」
「……」
重苦しい沈黙が、メディカルルームを支配した。
つまり、この一週間の地獄の特訓と、ローゼリアが流した大量の汗と涙とゲロは、完全に**【無意味】**だったということである。
「……ほれ、見ろ。だから言ったじゃろ……。妾に運動は無理なんじゃって……」
ソファーでぐったりとしているローゼリアが、恨めしそうな声で呟いた。
(ふふ……ふはははっ! ざまぁみろ筋肉ダルマ! 妾の肉体は、銀河の神が定めた完璧な『インドア派・ポンコツ美少女』のステータスで固定されておるのじゃ! いくら筋トレしようが、この絶望的な運動音痴が治るわけがないんじゃ!!……まあ、ゲロ吐くほどキツかったのは普通にトラウマじゃがな!!)
内心で高笑いしながらも、疲労困憊で指一本動かせないローゼリア。
「……嘘だろ。アタシの……アタシの愛のムチが、全部リセットされただと……?」
ランドグリーズは、ショックのあまり膝から崩れ落ちて、文字通り真っ白な灰になって燃え尽きた。
その一方で、唯一パァァァッ! と顔を輝かせた者がいた。白銀の騎士である。
「ああ……っ! つまり! 姫君のその愛らしく華奢な御体は、永遠に守られるべき存在として運命づけられているということですね!」
リアンヌは、狂喜乱舞してローゼリアの手をギュッと両手で包み込んだ。
「ランドグリーズの野蛮な筋肉など最初から不要だったのです! 姫君は一生、一ミリも動かずとも良い! このリアンヌが、死の淵まで、いえ死んだ後までも! 二十四時間三百六十五日、どんな暗殺者の刃からも完璧にお守りし続けますからね!!」
「ひぃぃぃ……っ、それはそれで重いんじゃが……っ」
「……はぁ」
ブリュンヒルデは、特大の胃薬の瓶を丸ごと飲み込む勢いで口に運びながら、深く、深い深呼吸をした。
「……オルトリンデ。次の寄港地に着いたら、お姫様専用の『生身用の携帯型・絶対防御シールド発生器』を開発しろ。予算はいくらかかってもいい」
「了解しました、団長。それが一番現実的ですね」
かくして、ローゼリアの【絶対に成長しないポンコツ肉体】という悲しい事実が科学的に証明されたことで、地獄の体術特訓は永久に封印され、リアンヌの過保護レベルはさらなる次元へと昇華していくのであった。




