第九十四話:冷槍の聖女の変わり果てた姿と、団長の終わらない胃痛
「……おい、オルトリンデ。あそこで鼻歌を歌いながら、イチゴのショートケーキのプレートに、チョコペンで『ろーぜりあ様』と書いているあのポンコツメイドは、どこの誰だ?」
「何をおっしゃっているんですか、団長。我が傭兵団『戦乙女』が誇る副団長、リアンヌ・ヴァーミリオンさんに決まっているじゃないですか」
母艦エインヘリアルのブリッジ。
特大の胃薬の瓶を片手に、ブリュンヒルデ団長は信じられないものを見るような目で、給湯スペースに立つ白銀の騎士の後ろ姿を睨みつけていた。
「……嘘だ。私の知っているリアンヌは、あんなフワフワしたピンク色のオーラを垂れ流す女じゃない……」
ブリュンヒルデは、頭を抱えて机に突っ伏した。
傭兵団『戦乙女』を立ち上げた当初のことを、彼女は今でも鮮明に覚えている。
当時のリアンヌ・ヴァーミリオンといえば、それはもう恐ろしい女だった。
一切の感情を顔に出さない【無表情】。
自分にも他人にも一切の妥協を許さない【厳格で真面目】な性格。
そして、戦場では白銀の長槍一本で敵陣を単騎で蹂躙する圧倒的な武力から、裏社会では血も涙もない【冷槍の聖女】という二つ名で恐れられていた。
だが、同時に彼女は不思議なカリスマ性を持っていた。
無表情で厳しい言葉を投げかけながらも、仲間が傷つけば誰よりも早く駆けつけて敵を殲滅し、背中を預けるに足る絶対的な信頼感があった。その不器用な優しさと実直さに惹かれ、彼女を慕う傭兵は数知れず。
まさに天然の『人たらし』とも言える性質で、荒くれ者揃いの戦乙女たちを完璧にまとめ上げる、最高の副団長だったのだ。
——そう。あの『黒き死神』ことローゼリアが入団してくるまでは。
「できました……! 姫君の愛らしいお顔を模した、特製ケーキ! ああ、昨晩の甘美なキスの余韻がまだ私の頬に残っているというのに、このケーキを召し上がる姫君の口元を想像しただけで、私の胸は高鳴り……ふふっ、ふふふふっ……!」
給湯スペースから、リアンヌの最高に気持ち悪い(愛に満ち溢れた)笑い声が漏れてくる。
「……おのれローゼリア。私の優秀な右腕を、見事に限界オタクのポンコツ過保護オカンに改造しやがって……」
ブリュンヒルデがギリギリと歯ぎしりをする。
「まあまあ、団長。リアンヌさんがお姫様に狂……心酔しているのは今に始まったことじゃないッスよ」
長女のランドグリーズが、ケラケラと笑いながら肩をすくめる。
「ええ。昔の『冷槍の聖女』と呼ばれていた頃のリアンヌさんもカッコよかったですけど、今の『姫君の狂犬(と書いて過保護と読む)』なリアンヌさんも、見ていて飽きませんからね」
次女のロスヴァイセも、面白がってグラスを傾けた。
そこへ、ケーキの皿を大事そうに胸に抱えたリアンヌが、ブリュンヒルデの前にやってきた。
「団長。私はこれから姫君の寝室へ朝食をお運びしてまいりますので、午前中のブリーフィングは欠席させていただきます」
「……おいリアンヌ。お前、少しは副団長としての自覚を取り戻せ」
ブリュンヒルデは、胃痛を堪えながらリアンヌを見上げた。
「昔のお前はもっとこう……氷のように冷たくて、ストイックで、近寄りがたいオーラがあっただろうが。『冷槍の聖女』の二つ名が泣いているぞ。あの無表情で真面目な傭兵団の引き締め役はどこに行ったんだ」
その言葉を聞いた瞬間。
リアンヌの顔から、フッ……と先ほどまでのデレデレとした表情が消え失せた。
サファイアのような碧眼が、絶対零度の冷気を帯びる。
周囲の空気が一瞬にして凍りつき、かつての『冷槍の聖女』そのものの、息の詰まるようなプレッシャーがブリッジを支配した。
「……団長」
リアンヌは、氷のように冷たく、それでいて静かな声で言った。
「私の『冷槍』は、決して折れたわけでも、錆びついたわけでもありません。……ただ、矛先が変わっただけです」
「矛先……だと?」
「ええ。かつての私は、己の信念と傭兵団全体のために槍を振るっていました。しかし今は違います。私のこの槍は、我が愛しき姫君の御命を狙う愚か者どもを、一人残らず地獄の底へ突き落とすためだけに存在しているのです」
リアンヌの背後に、阿修羅のごとき殺気が立ち昇る。
「姫君の安眠を妨げる者。
姫君の美しいお肌に傷をつけようとする者。
そして……姫君の隣に気安く立とうとする、身の程知らずの羽虫ども。
それらすべてを完璧に排除する『絶対の盾にして処刑人』。それが、今の私です。姫君に対する忠誠と警護において、私は誰よりも【厳格で真面目】であると自負しておりますが?」
ゴクリ……と、ブリュンヒルデをはじめとする姉妹たちが息を呑む。
かつての真面目な性格はそのままに、そのベクトルがすべて【ローゼリアへの重すぎる愛と執着】に全振りされた結果、以前よりもタチの悪い(そして実力も跳ね上がった)化け物が誕生してしまったのだと、彼女たちは悟った。
「……それに」
ふと、リアンヌの絶対零度のオーラが解け、再びフワフワとしたピンク色の花畑のような空気に戻った。
「あの氷のように冷たかった私の心を、一瞬で溶かしてくださったのは、他でもないローゼリアなのです。……あの日、不器用で運動音痴な姫君が、私に向けてくれたあの気高く美しい微笑み……。ああっ、思い出しただけで胸が……!」
リアンヌは、ケーキの皿を持ったまま、頬を赤く染めて身悶えし始めた。
「だ、団長……。ダメです、リアンヌさん、完全に『あちら側』の住人として完成されきっています」
オルトリンデが、タブレットでリアンヌの脳波を測定しながら、冷や汗を流して報告する。
「……分かってる。分かってるさ……」
ブリュンヒルデは、完全に諦めたような遠い目をして、机の上の胃薬の瓶を丸ごと口の中に流し込んだ。
「もういい、リアンヌ。とっととお前の愛しい姫君のところへ行ってやれ。……ただし、ローゼリアを甘やかしすぎて、これ以上日常生活の能力をポンコツにしたら承知しないからな」
「ふふっ、ご心配なく。姫君の靴紐を結ぶのも、髪を梳かすのも、すべて私がこの手で完璧にこなしてみせますから! 姫君はただ、その美しさだけを保っていれば良いのです!」
(それがダメだと言っているんだ……!)という団長の心の声など聞こえないかのように、リアンヌは誰よりも美しい(しかし重すぎる愛に満ちた)笑顔で一礼すると、弾むような足取りでブリッジを後にした。
「……はぁ。頼むから、次の戦闘では昔みたいに無表情で真面目に働いてくれよ、冷槍の聖女様……」
誰もいなくなったブリッジで、団長の切実な(そして叶わぬであろう)願いと、胃を擦る音だけが空しく響き渡るのであった。




