第九十話:絶対防衛圏の夜と、呆れ果てる戦乙女たち
「ひ、姫君……。お背中を、お流しいたします」
母艦『エインヘリアル』のVIP用バスルーム。
広々とした大理石の浴槽に湯気が立ち込める中、真っ赤な顔をして湯船の隅に縮こまっているローゼリアの背後に、一枚のバスタオルだけを身に纏ったリアンヌが静かに歩み寄ってきた。
「い、いや! 自分で洗えるから! 頼むからリアンヌ、お主は外で見張っていてくれぇぇッ!」
「なりません。浴槽に致死性の毒ガスが仕込まれている可能性も、排水溝から小型の暗殺ドローンが侵入してくる可能性もゼロではないのです。私は姫君の『盾』として、常に肌身離さずお守りすると決めたのですから」
リアンヌのサファイアのような碧眼は、一切の妥協を許さない真剣そのものだった。彼女はバスタオル越しでも分かる完璧なプロポーションを揺らしながら、ローゼリアの背中にピタリと密着してきた。
「ひぃっ!?」
背中に押し当てられる、マシュマロのように柔らかな『白銀の双丘』の感触。
そして、リアンヌの滑らかな指先が、スポンジにたっぷりと泡を立てて、ローゼリアの華奢な肩から背中へと這い回る。
(あばばばばばばっ!! 死ぬ! 別の意味で死んでしまう!!)
ローゼリアの脳内魔力炉(と、中身の男としての理性)が、メルトダウン寸前の警報を鳴らしていた。
(推し(リアンヌ)とのお風呂イベント! 乙女ゲームやギャルゲーなら間違いなく最高レアリティのスチル(CG)じゃが、いざ自分が当事者になると破壊力がエグすぎる! 肌と肌の密着! いい匂い! 視線を少し下ろすだけで、リアンヌ様の素晴らしい谷間が……ッ! いかん、鼻血が出る! エースパイロットの威厳が鼻血と共に流れ出てしまうゥゥゥッ!!)
「……姫君? お顔が真っ赤ですが、お湯が熱すぎましたか?」
「な、なんでもない! ちょっとのぼせただけじゃ! あと、そこはくすぐったいから自分で洗う! だから離れて! お願いだから離れてぇっ!」
「ダメです。姫君の美しいお肌に、万が一にも傷をつけるわけにはいきません。さあ、次は前を向いてください」
「前ェェェッ!?」
絶対防衛という大義名分を得た白銀の騎士は、もはや無敵であった。
ローゼリアは、まな板の上の鯉のごとく、リアンヌの甲斐甲斐しすぎる(そして過剰なスキンシップを伴う)お世話を、顔から火を吹きそうになりながら全身で受け止めるしかなかったのである。
お風呂という名の過酷な拷問を終え、ようやく自室のベッドへと潜り込んだローゼリア。
しかし、彼女の試練はまだ終わっていなかった。
「それでは姫君。お休みなさいませ」
「……う、うむ。おやすみ、リアンヌ」
ガサリ、とシーツが擦れる音。
ローゼリアが寝返りを打つと、そこには当然のように、同じネグリジェ姿のリアンヌが隣に横たわっていた。しかも、ただ添い寝するだけではない。リアンヌの腕が、ローゼリアの腰にしっかりと巻き付けられ、彼女の頭はローゼリアの胸元にスリスリと押し付けられている。
完全に『抱き枕』状態である。
(……眠れるかァァァァァァッ!!!!)
ローゼリアは、暗闇の中でカッと目を見開いた。
(隣に絶世の金髪碧眼の美女! しかもシャンプーのいい匂いがフワフワと鼻腔をくすぐり、密着した身体からは柔らかな体温がダイレクトに伝わってくる! 中身が健全な男子である妾にとって、これはもはや拷問の極み! 少しでも動いたら、リアンヌ様の胸の感触が腕に……ッ!)
「……姫君。心拍数が異常に高いですが、やはり暗殺者の影に怯えておられるのですね。可哀想に……」
リアンヌが、心配そうに顔を上げ、ローゼリアの頬を優しく撫でた。
「大丈夫です。たとえ世界中が姫君の敵に回ろうとも、このリアンヌだけは、姫君の盾となり剣となります。……絶対に、あなたを失ったりはしません」
リアンヌの声が、微かに震えていた。
その震えに気づいた瞬間、ローゼリアの脳内で荒れ狂っていた限界オタクの煩悩が、スッと静まった。
(……そうか。リアンヌは、ただ過保護になっているだけじゃない)
昼間の狙撃事件。
ローゼリア自身は「靴紐を踏んで転んだおかげで助かった」という奇跡的な(そして情けない)オチのおかげで実感が薄かったが、リアンヌからすれば違ったのだ。
愛してやまない主君の命が、自分の手の届かない死角から、あと数センチというところで奪われかけた。その恐怖と無力感は、どれほど彼女の心を苛んだことだろうか。
ローゼリアは、ゆっくりと息を吐き出すと、腰に回されたリアンヌの腕の上に、自分の手をそっと重ねた。
「……リアンヌ」
「はい、姫君」
「妾は、そう簡単には死なんよ」
ローゼリアは、できる限り優しく、そして威厳のある主君としての声で語りかけた。
「妾は黒き死神じゃぞ? 星の海を駆ける最強のエースパイロットじゃ。あんなコソ泥のような狙撃、たとえ起きていようが寝ていようが、妾の『神話級の直感(という名の運動音痴)』が絶対に回避してみせる」
「……姫君」
「じゃから、そんなに思い詰めた顔をするな。お主が隣にいてくれれば、妾は百万の軍勢より心強い。……今日も、妾を守ってくれてありがとうな」
ローゼリアがポンポンとリアンヌの背中を叩くと、暗闇の中で、リアンヌがふわりと微笑む気配がした。
「……ずるいお方ですね、ローゼリアは」
リアンヌは、ローゼリアの腕の中にさらに深く潜り込み、その温もりを確かめるように強く抱きしめ返してきた。
「そのようなお優しい言葉をかけられてしまえば、私はますます、あなたを手放せなくなってしまいます。……ええ、姫君の仰る通りです。あなたは最強です。ですが、それでも……私があなたを守り抜くという誓いだけは、永遠に変わりません」
「うむ。頼りにしておるぞ、妾の騎士」
(……まあ、リアンヌの不安が和らいだなら、この密着状態の拷問も、耐え忍ぶ価値はあるというものじゃな)
ローゼリアは、ドキドキと高鳴る心臓の音を必死に抑え込みながら、天井を見つめて静かに目を閉じた。
翌朝。
母艦エインヘリアルのブリッジでは、いつものように三姉妹と団長が円卓を囲んでいた。
「……はぁ。昨夜は一睡もできなかったぞ」
ブリュンヒルデ団長が、特大の胃薬を噛み砕きながら、真っ黒な隈を作った目でモニターを睨みつけていた。
「どうしたんスか、団長。また胃痛で夜泣きッスか?」
長女のランドグリーズが、大口でドーナツをかじりながら首を傾げる。
「違う! お姫様のバイタルモニターのアラートのせいだ! 昨夜、ローゼリアの心拍数が就寝時からずっと『戦闘中の最大出力レベル』で高鳴り続けていたせいで、メディカルルームの警報が鳴りっぱなしだったんだよ!」
「ああ……。リアンヌさんに抱きつかれて、お姫様のキャパシティが限界を突破していたんですね」
次女のロスヴァイセが、呆れたようにカクテルグラスを傾ける。
「まったく。暗殺者に狙われているというのに、あの二人は緊張感というものがないのでしょうか」
三女のオルトリンデが、タブレットを操作しながらため息をついた。
そこへ、自動ドアが開いて当の本人たちが姿を現した。
「おはよう、皆の者! 今日も星の海が美しいのう!」
完全に寝不足でフラフラのローゼリアと、その彼女の腕にしっかりと腕を絡ませ、どこか満ち足りた表情(後光が射しているようにすら見える)を浮かべるリアンヌである。
「……おはようございます、お姫様。ずいぶんと『充実した夜』を過ごされたようですね」
ロスヴァイセが皮肉たっぷりに笑う。
「な、なにも変なことはしておらんぞ!? ただ一緒に寝ただけじゃ!」
ローゼリアが慌てて否定するが、リアンヌが頬を染めてフフッと笑った。
「ええ。ですが、姫君の温もりと、寝顔の愛らしさは、私だけが知る至宝です。……さて、団長。今日の護衛スケジュールですが、姫君のトイレの際は私が個室に同伴し——」
「いい加減にしろ過保護騎士! お姫様の尊厳が完全に消滅するだろ!」
ブリュンヒルデが円卓をバンッ! と叩いて怒鳴りつけた。
「犯人はオルトリンデに引き続き追跡させる。お前たちは当分の間、母艦から一歩も出るな! 休暇は終わりだ、次の依頼の準備に入れ!」
「「はーい……」」
怒られた子供のように返事をするローゼリアと、不満そうに唇を尖らせるリアンヌ。
正体不明の狙撃手という不穏な影は未だに消えてはいない。しかし、白銀の騎士の過剰な愛情と、黒き死神の奇跡的なポンコツぶりがある限り、戦乙女の平和な(?)日常が脅かされることは当分なさそうであった。




