第四十五話:雪原の追走劇と、軍師ローゼリア
猛吹雪が、容赦なく三人の少女の体温を奪っていく。
「はぁっ……はぁっ……」
膝まで雪に埋まりながら、ローゼリアは荒い息を吐き続けていた。
漆黒のパイロットスーツは防寒性に優れているとはいえ、六百年後の未来から神話の時代の終焉を経て、さらに百年前の過去へと次元を渡り歩いてきた代償は大きかった。機体を喪失した今、ローゼリアの体内魔力は完全に枯渇しており、普段のように魔力で体温を維持するバリアを張ることもできない。
生身の、ただの小柄な少女としての脆弱さが、ローゼリアの身体に重くのしかかっていた。
「おい、大丈夫か。足が止まっているぞ」
先頭を歩いていた銀髪の騎士アンネリーゼが、振り返って鋭く声をかけた。
彼女は、ボロボロのドレス姿でありながら気丈に歩みを進める皇女フリージアの風除けとなるように立ち、鋭い碧眼でローゼリアを睨みつけている。
「だ、大丈夫じゃ……! 妾を誰だと思っておる、これしきの雪……!」
「強がるな。唇が真っ青だ。……姫様、少し休憩をとりましょう。この素性の知れぬ娘が倒れては、足手まといになります」
「うむ。私も少し息が上がってきたところだ」
フリージアの許可を得て、三人は雪に覆われた巨大な岩の陰へと身を寄せた。
風が遮られただけでも、体感温度は随分とマシになる。
ローゼリアは雪の上にへたり込み、スーツの内ポケットからバハムートのAIをインストールした情報端末を取り出した。
「……バハムート。現在位置と、安全な隠れ家までのルートを割り出せ」
『……了解。現在位置、帝国領・北極星脈アルトフェル山地、標高二千三百メートル地点。……地形データおよび気象データを統合分析。現在地より北西へ約二キロの地点に、自然形成された中規模の洞窟が存在します。現在の天候を考慮すると、そこが最適な野営地です』
無機質な電子音が、吹雪の音に混じって響く。
「な、なんだその喋る板は……!? さっきからお前、それに話しかけているが、まさか反乱軍の通信機ではないだろうな!?」
アンネリーゼが警戒し、槍の柄に手をかけた。
「安心せい。これは妾の……『従者』のようなものじゃ。この時代のどの軍隊よりも正確に地形と状況を把握できる」
ローゼリアは端末をしまいながら、震える声で答えた。
「従者だと? そんな鉄の板が? ますます胡散臭い奴だ」
「アンネリーゼ、槍から手を離しなさい。……彼女のその道具がなければ、私たちはこの吹雪の中で完全に方角を見失っていたはずです」
フリージアが静かにたしなめると、アンネリーゼは不満げに舌打ちをして引き下がった。
(やれやれ……。顔はリアンヌ様と瓜二つなのに、このツンケンした態度はまるで別犬じゃな。リアンヌ様なら、妾が寒がっていたら『私のマントに包まってください』と抱きしめてくれるというのに……)
ローゼリアは心の中で愛しき騎士の温もりを思い出し、それが逆に今の寒さを際立たせることに気づいて、小さくため息をついた。
「ローゼリア、と言ったな」
不意に、フリージアが隣に腰を下ろし、自身の肩に羽織っていた厚手のショールをローゼリアの肩に掛けた。
「っ……! フ、フリージア、お主がそんな薄着になっては……」
「良い。私は帝国の皇族として、幼い頃からこの程度の寒さには耐える訓練を受けている。だが、そなたは違うのだろう? その奇妙な黒い服は風を通さぬようだが、冷気までは防げまい」
赤い瞳が、ローゼリアを優しく見つめる。
その眼差しは、年齢こそローゼリアとそう変わらない(あるいは少し上程度)にも関わらず、どこか母性的な温かさを帯びていた。
(……これが、帝国中興の祖。妾の直系の先祖か。……なるほど、フェイト姉上に似た王の器じゃ)
「……恩に着る。必ず、この借りは返すぞ」
「ふふ、期待しているよ。未来の騎士の守護者殿」
ほんの束の間の休息。
しかし、その平穏は、端末から発せられた冷たい警告音によって無惨にも打ち砕かれた。
『……警告。後方より、複数の生体反応が急速に接近中。熱源のパターンから、雪上機動装備を装着した歩兵部隊と推測されます。数、十二。……距離、五百メートル。接敵まで残り三分』
「なんじゃと!?」
ローゼリアが端末を睨みつける。
「どうした!」
「追手じゃ! 猛スピードでこちらへ向かってきておる! おそらく、反乱軍の雪中行軍に特化した別動隊じゃ!」
「チッ……! こんな吹雪の中で、よくもまあ執拗に追ってくるものだ!」
アンネリーゼが弾かれたように立ち上がり、フリージアの前に立って大槍を引き抜いた。
「姫様、ここは私がお止めします! 姫様はその怪しい娘の案内で、先ほどの洞窟とやらへ向かってください!」
「駄目だ、アンネリーゼ! 相手は十二人。しかもこの雪の中で、そなた一人でどうやって戦うつもりだ!」
「私とてヴァルター家の騎士の端くれ! 刺し違えてでも、姫様の御身はお守りします!」
悲壮な決意を固めるアンネリーゼ。
しかし、ローゼリアは雪を蹴り上げて立ち上がると、アンネリーゼの横に並び立った。
「馬鹿者。死ぬ気で戦うなど、三流の騎士のやることじゃ」
「なんだと!? 貴様、騎士の覚悟を愚弄するか!」
「覚悟の話ではない、戦術の話じゃ。お主がここで死ねば、フリージアを守る盾が消える。それは結果的にフリージアを死なせることと同義じゃぞ」
ローゼリアは、端末を片手に持ち、もう片方の手でアンネリーゼの背中をバシッと叩いた。
「お主は一人ではない。妾が指揮を執る。……お主のその鉄壁の盾に、妾の『戦術』を乗せて、奴らを一匹残らず返り討ちにしてやる!」
「貴様が、指揮だと……?」
アンネリーゼが訝しげな目を向けた瞬間。
吹雪の向こうから、白い迷彩服を着た反乱軍の兵士たちが、スキー状の機動装備に乗って滑り降りてきた。
「見つけたぞ! 皇女フリージアだ!」
「騎士は無視しろ! 皇女の首だけを狙え!」
反乱軍の兵士たちが、クロスボウや雪山用の短槍を構え、一斉に襲いかかってくる。
「来るぞ、アンネリーゼ!」
『敵部隊、散開して包囲陣形を構築中。……第一波、正面より三名』
バハムートのAIが、敵の動きをリアルタイムで演算し、ローゼリアの端末に情報を流し込む。
ローゼリアはそれを瞬時に読み解き、アンネリーゼへと指示を飛ばした。
「正面の三人は囮じゃ! 左右から来るクロスボウの射線を警戒せよ! 盾を斜め四十五度に構え、右へ二歩後退!」
「くっ……!」
アンネリーゼは一瞬躊躇したが、ローゼリアの自信に満ちた声に押され、指示通りに動いた。
直後。
ヒュンッ! ヒュンッ! という風切り音と共に、アンネリーゼが先ほどまで立っていた空間を、左右から放たれたクロスボウの矢が交差して通り過ぎた。
「なっ……矢の軌道を、完全に読んだだと!?」
アンネリーゼが驚愕の声を上げる。
「感心しておる暇はない! 正面の三人が突っ込んでくるぞ! 奴らの踏み込みは雪に足を取られて浅い。……大振りはするな! 盾でいなして、体勢を崩したところを突け!」
「——承知!」
アンネリーゼは、正面から飛びかかってきた敵の短槍を、左腕の小型の盾で弾き飛ばした。
リアンヌの先祖である彼女の防御技術は、まさに天下一品。敵の攻撃の威力を正面から受け止めるのではなく、斜めに受け流すことで相手の重心を完全に狂わせる。
体勢を崩し、雪に顔を突っ込みそうになった敵兵の隙を、アンネリーゼの銀色の刃が容赦なく貫いた。
「一人! 次は!?」
アンネリーゼの碧眼に、戦士としての闘志が燃え上がる。
自分が完璧に防御し、ローゼリアが完璧なタイミングで攻撃の起点を指示する。この即席の連携が、驚くほど噛み合っていたのだ。
(すごい……。リアンヌ様のように自ら前線を切り開く突破力はないが、このアンネリーゼの『盾』は、相手の攻撃を無力化することにおいては芸術的ですらある。……これなら、魔力のない妾でも戦える!)
ローゼリアは、端末の画面を凝視しながら、次々と指示を飛ばし続けた。
『左後方より、敵二名がフリージア様へ接近』
「アンネリーゼ、左後方! 槍を振る必要はない、盾で体当たりして崖下へ突き落とせ!」
「ハァッ!!」
ドンッ! という鈍い音と共に、背後に回り込もうとしていた敵兵二人が、アンネリーゼのシールドバッシュをまともに食らい、斜面を転がり落ちていく。
「くそっ、なんだこの護衛騎士は! さっきよりも動きが洗練されているぞ!」
「あそこで喚いている黒服の小娘が指示を出しているんだ! 先にあの小娘を殺れ!」
敵の矛先が、指揮官であるローゼリアへと向いた。
三人の兵士が、クロスボウを捨てて長槍を抜き、ローゼリアに向かって殺到する。
「ローゼリア!」
フリージアが悲鳴を上げる。
アンネリーゼは別の敵の相手をしており、間に合わない。魔力のないローゼリアは、無防備な生身の少女でしかない。
しかし、ローゼリアの赤い瞳は、微塵も恐怖に揺らいではいなかった。
(妾をただのか弱いお姫様だと思うなよ。……伊達に、あの白銀の騎士の隣で無数の死線を潜り抜けてきたわけではないわ!)
『敵三名、接近。……ローゼリア、足元の雪の厚さ四十センチ。下層は固い氷です』
「計算通りじゃ!」
ローゼリアは、敵の刃が届く直前。
突如として、自身の足元の雪を両手で思い切り掻き揚げ、敵の顔面に向かって巨大な『雪の目眩し』を放った。
「うおっ!?」
「目、目が!」
視界を奪われ、一瞬足が止まる敵兵たち。その下は、バハムートが分析した通りの『固い氷』の層だった。
雪上の機動装備を履いた彼らは、急に足を止めたことでバランスを崩し、氷の上で無様に転倒した。
「アンネリーゼ! 今じゃ!!」
「……ッ、ハァァァァッ!!」
ローゼリアが作り出した完璧な隙を、アンネリーゼが逃すはずがなかった。
銀色の閃光が三度閃き、転倒した敵兵たちの急所を正確に断ち切る。
「ば、馬鹿な……我々が、たった一人の騎士と、魔力も持たない小娘に……!」
最後に残った部隊の隊長が、恐怖に顔を引き攣らせて後ずさる。
しかし、アンネリーゼの槍の切っ先が、すでに彼の喉元に突きつけられていた。
「反逆者ども。……お前たちの浅はかな刃が、我が主君に届くことなど永久にないと思え」
冷徹な宣告と共に、アンネリーゼの槍が隊長の命を刈り取った。
「……終わったか」
ローゼリアは、雪の上にどさりと座り込んだ。
魔力を使った戦闘とは違う、純粋な戦術と頭脳による極度の集中。その反動で、全身からどっと疲労が押し寄せてくる。
「はぁ……はぁ……」
アンネリーゼも槍の血を雪で拭い、肩で息をしていた。
しかし、彼女はその碧眼で、先ほどまでとは全く違う感情を込めてローゼリアを見つめていた。
「……お前の指示、悪くなかった」
「ふん。妾を誰だと思っておる」
「ただの胡散臭い娘だと思っていたが、訂正しよう。……お前は、見事な『軍師』だ」
アンネリーゼは、不器用な手つきで、ローゼリアに向かって右手を差し出した。
それは、騎士が戦友に対してのみ見せる、最大の敬意の証。
ローゼリアは、その差し出された手を見て、ほんの少しだけ目頭が熱くなるのを感じた。
(リアンヌ様……。お主のご先祖様は、お主と同じくらい、不器用で、真っ直ぐで、そして……温かい手をしておるぞ)
「……当然じゃ。妾とお主が組めば、無敵の『双璧』じゃからな」
ローゼリアは、差し出されたその手をしっかりと握り返した。
「双璧? 何のことだ?」
「なんでもない。さあ、急ぐぞ。血の匂いを嗅ぎつけて、次の追手が来るかもしれん。バハムートが示した洞窟は、もうすぐじゃ」
フリージアが、二人の様子を見て嬉しそうに微笑みながら頷いた。
「ええ。行きましょう、私の頼もしい守護者たち」
それから一時間後。
猛吹雪を抜けた三人は、バハムートの演算通り、山の中腹にある中規模の洞窟へとたどり着いた。
「ここなら、風も雪も防げる。入り口が狭いから、追手に見つかるリスクも低いじゃろう」
ローゼリアが端末を確認しながら言うと、アンネリーゼはすぐに洞窟の奥で焚き火の準備を始めた。
手慣れた手つきで枯れ枝を集め、火打石で火を起こす。パチパチと燃え上がる炎の温もりが、凍え切った三人の身体を優しく包み込んだ。
「はぁ……生き返るのう」
ローゼリアは、炎に手をかざして幸せそうに目を細めた。
「そなたのその『道具』、本当に大したものだな。あの猛吹雪の中で、迷うことなくこの場所を見つけ出すとは」
フリージアが、ローゼリアの隣に座り、不思議そうに端末を見つめた。
「まあな。神話の時代の遺物じゃからな」
ローゼリアは、誇らしげにバハムートのAIが入った端末を掲げた。
「神話の時代の……。そなた、本当に何者なのだ? 魔力は空っぽなのに、そのような恐ろしい道具を持ち、一流の軍師のような指揮を執る。……まるで、すべてを俯瞰している『未来』から来た者のようだな」
フリージアの鋭い指摘に、ローゼリアは一瞬ドキリとした。
しかし、すぐにフッと笑みを浮かべ、炎を見つめた。
「……そうかもしれんな。妾は、お主らが紡ぎ、必死に守り抜いた『歴史』の先にいる者じゃから」
「歴史の先に……?」
「うむ。だからこそ、妾はお主らを絶対に死なせん。お主らがここで生き延びることで、何百年後かに、妾が一番大切にしている『居場所』が守られるのじゃ」
ローゼリアの言葉の意味を、フリージアとアンネリーゼが完全に理解することはできなかっただろう。
しかし、その声に込められた絶対的な決意と、未来への深い愛情だけは、二人の心に確かに届いていた。
「……よくわからないが、お前のその『居場所』とやらのために、私の槍を利用するなら、せいぜい上手く使うことだな、軍師殿」
アンネリーゼが、照れ隠しのように槍の手入れをしながらそっぽを向いて言った。
「ふふっ。お主の槍の使い方は、百年前から妾が一番よく知っておるわ」
ローゼリアは、炎の向こうで不器用に顔を逸らすアンネリーゼを見て、クスクスと笑った。
極寒の雪山の洞窟。
歴史から忘れ去られようとしている逃避行の中で。
未来の死神、過去の皇女、そして忠義の騎士。三人の少女たちの間に、時代を超えた確かな『絆』が芽生え始めていた。
だが、安息の時間は長くは続かない。
帝都を掌握した反乱軍の魔の手は、確実に彼女たちのすぐ背後まで迫りつつあった。




