第四十三話:時空の漂流者と、百年前の白銀
光。
ただ果てしなく続く、暴力的なまでに眩い虹色の光の奔流。
時間と空間の概念が完全に崩壊した次元のトンネルの中を、絶帝機バハムートは凄まじい速度で弾き飛ばされていた。
「ぐっ……ぁぁぁぁぁっ!!」
玉座に縛り付けられたローゼリアは、全身の骨が軋み、細胞のひとつひとつが沸騰するような激痛に悲鳴を上げた。
無理もない。本来、時空跳躍とは緻密な座標計算と完璧な魔力制御の下で行われるべきものだ。暴走するブラックホールを強引に逆圧縮し、自らを砲弾のように未来へ向けて撃ち出すなどという行為は、自殺と同義であった。
バハムートの強靭な装甲が、時空の摩擦に耐えきれずに次々と剥がれ落ちていく。
全高百メートルを誇った漆黒の巨体は、巨大な手足を千切られ、背部の時空干渉機関も粉々に砕け散り、次元の狭間へと吸い込まれて消えた。
『警告。機体外部装甲、50%喪失。メインジェネレーター、臨界突破……。自律防御システム起動。コックピット・コアブロックを強制分離・保護します』
無機質なシステム音声が脳内に響く。
バハムートは、主であるローゼリアの命を守るため、不要となった巨体を捨て去り、玉座を格納した胸部のコアブロック(全高約十五メートルほどの、マギアナイトサイズの中枢区画)のみを分厚い魔力シールドで覆い隠した。
(リアンヌ……リアンヌ様……!)
薄れゆく意識の中で、ローゼリアはただひたすらに愛する騎士の顔を思い浮かべていた。
六百年の時を超えて、あの優しく温かい腕の中へ帰る。その強烈な意志と執念だけが、彼女の命を辛うじてこの世界に繋ぎ止めていた。
やがて、虹色のトンネルの先に、小さな『出口』が見えた。
ドズゴォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
凄まじい衝撃。
鼓膜を破るような轟音と共に、ローゼリアを乗せたバハムートのコアブロックは、次元の壁を突き破り、どこかの星の地表へと激突した。
大地を深く抉り、木々を薙ぎ倒し、数百メートルを滑るようにして、ようやくその鉄の塊は完全に停止した。
「……はぁっ……はぁっ……」
静寂。
コックピットの中で、ローゼリアは荒い息を吐きながら、重すぎる瞼をこじ開けた。
全身が鉛のように重い。魔力は完全に底を突き、指一本動かす力すら残っていなかった。漆黒のパイロットスーツのあちこちが破れ、白い肌から血が滲んでいる。
『……システム、再起動。生命維持装置、辛うじてオンライン』
バハムートのAIが、ノイズ混じりの音声で報告を始めた。
目の前のメインモニターは半分以上がひび割れ、真っ暗になっていたが、残されたサブセンサーが外部の状況を読み取っていく。
「ここは……どこじゃ。未来へ……現代へ、帰ってこれたのか……?」
ローゼリアは、乾いた唇を震わせて尋ねた。
『外部星系の配列、およびパルサーの周期から現在時刻を算定……。……現在時刻、帝国歴1990年』
その年代を聞いた瞬間。
ローゼリアの心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
「な、なんじゃと……? 今、なんと……言った……?」
『現在時刻、帝国歴1990年。……指定された目標座標(六百年後)に対し、約百年の誤差を確認。……時間跳躍、不完全な状態で終了しました』
「——っ!!」
ローゼリアは、息を呑んだ。
百年の、誤差。
それはつまり、自分が本来帰りたかった『現代』——リアンヌやエインヘリアルの仲間たちがいる時代から、さらに**百年も過去の時代**に落ちてしまったということだ。
「嘘じゃ……嘘じゃろ……っ!?」
ローゼリアは、玉座の拘束を強引に引き千切り、ひび割れたモニターにすがりついた。
モニター越しに見えるのは、見渡す限りの猛吹雪。どうやら極寒の雪山に墜落したらしい。バハムートのコアから漏れ出す炎と黒煙が、白い雪を黒く染め上げている。
「あんなに……あんなに命を削って魔力を振り絞ったのに……! 届かなかったというのか……!?」
絶望が、ローゼリアの心を真っ黒に塗り潰していく。
マルクスのいた六百年前の神話の時代からは抜け出せた。しかし、百年という時間は、人間の寿命にはあまりにも長すぎる。
今、この世界のどこを探しても、リアンヌはいない。ブリュンヒルデも、フィーネも、ランドグリーズ、ロスヴァイセ、オルトリンデも、まだ生まれてすらいないのだ。
「ああ……ああああっ……!」
ローゼリアは、玉座に崩れ落ち、頭を抱えて咽び泣いた。
独りぼっちだ。また、自分はたった一人で、見知らぬ時代に放り出されてしまった。
こんなことなら、いっそ時空の狭間で燃え尽きてしまえばよかった。リアンヌのいない世界で生き延びたところで、何の意味があるというのか。
だが、ローゼリアが絶望の淵に沈んでいた、その時だった。
『……警告。外部センサーに、複数の生体反応を探知。戦闘状態にあります』
「……戦闘、じゃと?」
ローゼリアは、涙で濡れた顔を上げた。
外部マイクが、猛吹雪の音に混じって、鋭い金属音を拾い始める。
ガキィィッ! キィィンッ! という、剣と剣が激しくぶつかり合う音。そして、野太い男たちの怒号。
『逃がすな! 帝国軍の追手だ! ここで確実に皇女の首を獲れ!』
『チッ、この護衛の騎士、ただの小娘のくせにバカみたいに強いぞ! まとめてかかれ!』
ローゼリアは、ひび割れたモニターの映像を拡大した。
雪山の斜面。バハムートが墜落したクレーターのすぐ近くで、十数人の完全武装した暗殺者たちが、たった二人の少女を包囲していた。
一人は、ボロボロの豪奢なドレスを着た、まだ十代半ばほどの金髪の少女。
そしてもう一人は——その少女を背後に庇い、血まみれになりながらも、ただ一振りで大剣を振るう、銀髪の若い騎士。
「————ッ!?」
その銀髪の騎士の姿を見た瞬間、ローゼリアの心臓が止まりかけた。
吹雪の中で翻る、白い騎士服。
敵の刃を紙一重で躱し、流れるような美しい剣筋で急所を貫くその洗練された体術。
(あの太刀筋……あの構え……! 間違いない、リアンヌ様と同じだ……!)
暗殺者の一人が、死角から銀髪の騎士に襲いかかる。
しかし騎士は、振り返りもせずに剣の柄で敵の顔面を打ち砕き、そのまま回転して別の敵の胴を両断した。その無駄のない、しかし圧倒的な暴力性を秘めた動きは、ローゼリアが何度も背中越しに見てきた『白銀の騎士』のそれと完全に一致していた。
「リアンヌ……! リアンヌ!!」
ローゼリアは、残された最後の力を振り絞り、コアの緊急ハッチのレバーを引いた。
プシューッ! という排気音と共に、分厚いハッチが雪原に向かって蹴り飛ばされる。
冷たい吹雪が、コックピットに流れ込んできた。
ローゼリアは、ボロボロの漆黒のパイロットスーツのまま、雪の中へと転がり落ちた。
「はぁっ……はぁっ……リアンヌ……ッ!」
雪に足を取られながらも、ローゼリアは戦闘が繰り広げられている場所へと必死に這い進んだ。
ちょうどその時、銀髪の騎士が最後の暗殺者の胸に剣を突き立て、静かに息を吐いたところだった。
雪原には、十数人の男たちの死体が転がっている。
騎士が、背後の気配に気づき、ハッと振り返って槍を構えた。
「そこな者、動くな! 何者だ!」
吹雪が晴れ、雲の隙間から差し込んだ月明かりが、その騎士の顔を照らし出す。
雪のように白い肌。
凛々しく、そしてどこまでも清廉な美しさを湛えた顔立ち。
そして、冷たい氷のような、しかし深い愛情を秘めた『碧色の瞳』。
「りあ……んぬ……」
ローゼリアは、その顔を見た瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れ、子供のように声を上げて泣き出した。
百年ズレていようが関係ない。神様が、自分を哀れんで奇跡を起こしてくれたのだと、そう信じて疑わなかった。
ローゼリアはよろよろと立ち上がると、槍を構える騎士の胸に向かって、迷うことなく飛び込んだ。
「リアンヌゥゥッ!! 会いたかった……! 会いたかったぞぉぉぉっ!!」
「なっ!? き、貴様、急になんのつもりだ! 離れろ!」
ギュッと力いっぱい抱きつくローゼリアに対し、銀髪の騎士は完全にパニックに陥っていた。
斬り捨てることもできたはずだが、ボロボロの服で泣きじゃくる小柄な少女を前に、彼女の騎士道精神がそれを躊躇わせたのだ。
「もう……もう絶対に離さんからな! ずっと一緒にいるって約束したじゃろ……!」
ローゼリアが涙と鼻水で騎士の胸元を汚しながら顔を擦り付けると、騎士はついに耐えきれず、ローゼリアの肩を掴んで強引に引き剥がした。
「ええい、離れろと言っている! 無礼な奴め! 私はリアンヌなどという名ではない!」
「……え?」
ローゼリアは、涙で滲む目を瞬かせた。
目の前の騎士の顔は、どう見てもリアンヌそのものだ。しかし、その声色はリアンヌよりも少し高く、言葉遣いも硬く、何より——金髪碧眼のリアンヌに対して銀髪碧眼だし。
そして何より自分に向ける視線に、あの海のように深い『無条件の愛』が一切存在していなかった。
「私の名はアンネリーゼ。……アンネリーゼ・ヴァルター。エーベルヴァイン皇室に仕える近衛騎士である」
アンネリーゼと名乗った騎士は、警戒を解かぬまま、鋭い碧眼でローゼリアを睨みつけた。
「アンネ、リーゼ……?」
ローゼリアの頭の中で、歴史の知識が急速に結びつく。
ヴァルター家。それは、代々エーベルヴァイン皇室に絶対の忠誠を誓い、最強の盾として仕えてきた名門騎士の一族。そして、百年前というこの時代設定。
(まさか……この人は、リアンヌ様じゃない。リアンヌ様の『ご先祖様』……!?)
顔も、体格も、槍の腕前も瓜二つ。
だが、彼女はリアンヌではないのだ。その冷酷な事実に、ローゼリアの心は再び凍りつきそうになった。
「アンネリーゼ。槍を収めなさい」
その時。
アンネリーゼの背後に隠れていた、ボロボロのドレスを着た金髪の少女が、静かに歩み出てきた。
歳の頃は、ローゼリアと同じか、少し上くらいだろうか。しかし、その立ち姿には、こんな雪山の極限状態にあっても決して失われない、生来の『王者の風格』が漂っていた。
「ですが、姫様! この者は、あの巨大な鉄の塊から現れました! 追手の新兵器の可能性が……!」
「違う。この者から、殺気は感じない。……それに」
金髪の少女は、ローゼリアの前に歩み寄り、その『赤い瞳』でローゼリアを真っ直ぐに見つめた。
ローゼリアもまた、ハッと息を呑んだ。
その少女の金糸の髪、そして血のように赤い瞳は、鏡で見る自分自身の顔立ちと、驚くほどよく似ていたからだ。
「そなた……ただ者ではないな。今はひどく消耗しているようだが、その身の内に燻る魔力の残滓……。まるで、我が一族の始祖、マルクス帝の伝承にある『歩く超新星』のようだ」
少女は、威厳に満ちた声で告げた。
「私の名はフリージア。……フリージア・エーベルヴァイン。愚かな反逆者どもに追われ、国を追われた、帝国の正当なる皇女だ。……そなた、名を何と言う?」
フリージア・エーベルヴァイン。
その名を聞いて、ローゼリアはすべてを理解した。
エーベルヴァイン帝国中興の祖。内乱によって一度は滅びかけた帝国を再建し、後の時代へと命脈を繋いだ、伝説の皇女。
すなわち——ローゼリア自身の、直系の『先祖』である。
(なんという運命の悪戯だ……)
六百年前の神話の時代では、初代皇帝マルクスに会い。
そして今、百年前に落ちたこの雪山で、自分自身の先祖である皇女フリージアと、愛するリアンヌの先祖である騎士アンネリーゼに出会った。
点と線が、完全に繋がった。
今、この時代で反乱軍に追われている彼女たちがここで死ねば。エーベルヴァインの血脈も、ヴァルター家の血脈も途絶える。
そうなれば、百年後の未来で、ローゼリアもリアンヌも『生まれることすらなくなる』のだ。
「……ふっ、ふふふ……アハハハハハッ!!」
ローゼリアは、突如として雪原に響き渡るような大笑いを上げた。
あまりの絶望的な状況と、神が仕組んだとしか思えない完璧な舞台設定に、笑うしかなかったのだ。
「な、なんだ貴様! 狂ったか!」
アンネリーゼが再び剣を構えるが、ローゼリアは笑い涙を拭いながら、ゆっくりと立ち上がった。
魔力は空っぽだ。身体はボロボロで、立っているのがやっとの状態。
それでも、ローゼリアの赤い瞳には、先ほどまでの絶望の涙は消え去り、かつての『黒き死神』としての、あるいは帝国皇女としての圧倒的な覇気が宿っていた。
「狂ってなどおらん。ただ、妾のやるべきことが明確になっただけじゃ」
ローゼリアは、漆黒のパイロットスーツの胸を張り、フリージアとアンネリーゼに向けて、不敵な笑みを浮かべてみせた。
「妾の名はローゼリア。……お主らと同じ、誇り高きエーベルヴァインの血を引く者。そして、未来生まれる愛しき騎士のために、この命に代えても、お主ら二人を絶対に死なせはしない『守護者』じゃ」
百年足りなかった時間跳躍。
しかしそれは、決して無駄な漂流ではなかった。
未来を取り戻すため、そして自分とリアンヌの存在を歴史に刻み込むため。黒き死神の、過去における孤独で壮絶な『歴史防衛戦』の幕が、今、極寒の雪山で静かに上がったのであった。




