第四十一話:神話の操縦服と、歴史の矛盾
天空宮殿アエテルニタスの最深部。絶対秘匿領域とされたバハムート専用の巨大格納庫。
その一角に急ごしらえで用意された更衣室の鏡の前で、ローゼリアは自身の姿をまじまじと見つめ、大きく、そしてひどく安堵したようなため息を吐き出した。
「……ふむ。未来のパイロットスーツと比べると、いささか装飾過多な気もするが、悪くない。というか、これでようやくあの痴女スタイルから解放されたわけじゃな」
鏡に映る彼女が身に纏っているのは、マルクスの技術班が総力を挙げて用意した『神話の時代』の最高傑作とも言える専用操縦服だった。
漆黒を基調としたボディラインにぴったりとフィットする特殊な布地。その表面には、極小の魔力伝導ケーブルが金色の刺繍のように精緻に縫い込まれており、動くたびに微かな魔力の光を帯びて明滅する。背中や関節部には、機体とパイロットの神経系を直接シンクロさせるためのインターフェースが備わっており、全体的な意匠はまるで夜会用のドレスと厳格な軍服を融合させたような、無駄に高貴で、それでいて機能的なデザインだった。
「それにしても、この布地……信じられんほど魔力の通りが良い。現代の素材とは根本から違うぞ」
ローゼリアは、キュッと手袋の裾を引き絞りながら、手のひらに軽く魔力を集めてみた。一切の抵抗なく、まるで自身の血管が拡張されたかのようにスムーズに魔力が流れる。
エインヘリアルでフィーネが整備してくれているスーツも一級品だが、これは次元が違う。この時代の「当たり前」が、いかに異常な水準にあるかを肌で感じさせられた。
だが、今のローゼリアにとって最も重要なのは、魔力伝導率の高さなどではない。
(何より、あの水着にデカいコートとかいう痴女スタイルから解放されたのが一番嬉しい……! リアンヌ様以外に肌を晒すなんて、俺の純情が許さないからな! あんな姿でウロウロさせられた精神的苦痛たるや、魔導砲を一万発撃ち込まれた気分だ!)
ローゼリアは、心の中で歓喜の涙を流していた。
しかし、その安堵の直後、胸の奥をギリリと締め付けるような痛みが走る。
(リアンヌ様……今頃、どうしているだろうか)
アズール・コーストの地下遺跡で、光の渦に飲み込まれる直前。岩盤をぶち抜いて現れた、あの怒りと焦燥に満ちた純白の騎士の姿が目に焼き付いている。
リアンヌは、過保護なほどにローゼリアを愛し、守ろうとしてくれていた。自分が突然目の前で消滅したとあれば、彼女がどれほど絶望し、あるいは狂乱して自分を探し回っているか、想像に難くない。
「……早く、早く帰らねば。妾がいないと、あの人は無茶をしてしまう」
ローゼリアは、胸元に手を当て、そこにあるはずのないリアンヌの体温を思い出すように強く目を閉じた。
リアンヌ成分の枯渇による禁断症状が、すでに限界に達しつつある。この六百年前の神話の時代にどれほどのオーバーテクノロジーがあろうと、どれほど豊かな暮らしがあろうと、愛する騎士がいない世界など、ローゼリアにとってはただの色彩を欠いた砂漠に過ぎない。
「待っていてくれ、リアンヌ様。必ず……必ず、この遠い場所から、お主の元へ帰るからな」
決意を胸に刻み込み、ローゼリアは更衣室の扉を開け放った。
更衣室を出ると、そこはバハムートのコントロールルームを兼ねた待機室だった。
無数のホログラムパネルが空中に浮かび、白衣を着た数十人の技術将校たちが目まぐるしくコンソールを叩いている。その中央で、マルクスと、神経質そうな顔つきの主任研究員が大量のデータと睨み合っていた。
「お、着替えたかローゼリア。……うん、やっぱりあんたには黒が似合うな。さっきの『コートの下は水着一枚』っていう前衛的なファッションより、よっぽど様になってるぜ」
マルクスが、振り返ってニヤリと笑う。
「黙れ。次その話を蒸し返したら、お主の眉毛を魔法で焼き毟ってやる」
ローゼリアが殺気を込めて睨みつけると、マルクスは「怖い怖い」と肩をすくめた。
「まあ冗談はさておき。こちらの準備は万端だ。主任、あのデータを見せてやれ」
マルクスに促され、主任研究員が興奮した様子でタブレットをローゼリアの前に掲げた。
「素晴らしい……! 本当に素晴らしい結果です、ローゼリア様! 先ほど採取させていただいたあなたの魔力波形データを、バハムートのメインコアに流し込んでシミュレーションを行ったところ、機体のシステムが『完全適合(シンクロ率100%)』という数値を弾き出しました!」
「……完全適合、ね」
ローゼリアは、淡々と頷いた。
「驚かないのですか!? バハムートの時空干渉機関は、並の魔導士では触れた瞬間に魔力を根こそぎ吸い尽くされて灰になるほどの代物なのですよ! それが、一切の拒絶反応なしにあなたの魔力を受け入れるなど……まるで、バハムートが最初からあなたという主に乗られるために生まれてきたかのようです!」
主任研究員は、狂喜乱舞といった様子で捲し立てた。
(そりゃそうだろうな。妾はマルクス、あんたの直系の血を引く遠い子孫だ。魔力の波形や遺伝子レベルの性質が似通っていても不思議じゃない。……それに、妾の『規格外』の魔力量は、バハムートのような化け物を動かすためにあつらえられたようなものじゃからな)
ローゼリアは内心で納得しつつも、それを口に出すことはなかった。彼女が六百年後の未来から来たという事実は、彼らには伏せてあるのだ。
「で、具体的に妾は何をすればいい? このバカデカいおもちゃに乗って、魔力を流し込めばいいのじゃろう?」
ローゼリアがマルクスに向き直ると、彼は空中に巨大な星系図のホログラムを展開した。
「ああ、そうだ。あんたには、バハムートのコアに乗って、時空干渉機関をフル稼働させるための『究極の魔力タンク』になってもらう。……だが、ただ動かすだけじゃない。実戦投入だ」
マルクスは、星系図の一点を指差した。
「俺の技術班が計算した、あんたが帰りたいという『遠い遠い場所』の座標へ飛ぶ前に。……まずは、俺の道あけを手伝ってもらう。それが、俺たちが交わした取引だからな」
「ふむ。どこへ飛ぶのじゃ?」
ローゼリアが尋ねると、マルクスは指差した座標を拡大させた。
「ここだ。……『アズール宙域』」
「アズール、宙域……?」
その名前を聞いた瞬間、ローゼリアの心臓がドクンと大きく跳ねた。
それは、つい先程まで彼女がリアンヌと共にバカンスを楽しんでいたリゾート惑星『アズール・コースト』がある宙域。そして何より、反政府組織に拉致され、自身が拘束されていた『古代遺跡』が存在する場所だった。
マルクスは、ローゼリアの僅かな動揺に気づくことなく、厳しい表情で説明を続けた。
「現在、俺の覇道に真っ向から逆らう『反帝国連合』の馬鹿どもが、その宙域に十万隻という前代未聞の大艦隊を集結させている。奴らの狙いは一つ。明日、この天空宮殿アエテルニタスに向けて、星一つをまるごと消し飛ばすほどの超絶質量兵器を撃ち込んでくる手はずだ」
「十万隻の大艦隊……超絶質量兵器……」
ローゼリアは息を呑んだ。現代の戦争規模を遥かに超越している。まさに神話の時代の最終戦争だ。
「まともに撃ち合えば、この大都市ごと宮殿は消し飛ぶ。俺の軍隊を総動員しても、相打ちになって宇宙が灰燼に帰すだけだ。……だから、奴らが撃ってくる前に、バハムートを使う」
マルクスの声が、氷のように冷たく、そして狂気にも似た熱を帯びる。
「あんたの魔力でバハムートをアズール宙域へ『空間跳躍』させる。そして、機体に搭載された重力・時空干渉機関を起動し、周囲の重力場を完全に支配する。十万隻の艦隊ごと、空間をまるごと圧縮・崩壊させる『ブラックホール』を生み出すんだ」
「空間を、まるごと……十万隻の艦隊を、一瞬で無に帰すじゃと?」
ローゼリアは、その作戦のあまりの非道徳的スケールに戦慄した。
「そうだ。血も涙もない悪魔の所業だと罵りたければ罵れ。だが、これ一機で反乱軍の主力を完全に消滅させれば、他の勢力は恐怖にひれ伏し、二度と俺に逆らうことはなくなる。これ以上の無益な血を流さないための、唯一にして絶対の最適解だ」
マルクスは、ホログラムの星系図を握り潰すような仕草を見せた。
「それが終われば、あんたの仕事は終わりだ。バハムートの時空干渉機関にはまだ余力が残るはずだから、俺の技術班が計算したあんたの望む座標へ、あんた自身の手で飛べばいい。星の果てだろうと、別次元の果てだろうと、バハムートの力なら一瞬だ」
ローゼリアが「六百年後に帰りたい」とは言わず、ただ「お主らには手が届かぬ、遠く離れた場所に帰りたい」とだけ伝えていたため、マルクスはそれを「銀河の果てか、あるいは未知の辺境宙域」だと解釈しているようだった。
技術班には、ローゼリアの記憶の中にある星々の配置から、膨大な逆算演算を行わせ、「指定された特殊な時空座標」を弾き出させていたのだ。
マルクスの説明を聞き終え、ローゼリアは自身の内で渦巻く、ある一つの『歴史の矛盾』に気がついていた。
(おかしい。歴史の教科書では、初代皇帝マルクスは反乱軍を鎮圧し、銀河を統一したとされている。……だが、同時に『大厄災』と呼ばれる未知の現象によって、この天空宮殿アエテルニタスは墜落し、神話の時代のオーバーテクノロジーはすべて失われたはずだ)
もし、マルクスの言う通りバハムートの作戦が完璧に成功し、アズール宙域で十万の艦隊を消滅させることができるのなら、反乱軍の脅威は去り、天空宮殿は無傷で残るはずである。
では、宮殿を地に落とし、この高度な文明を闇に葬り去った『大厄災』とは一体何だったのか。
(それに……アズール宙域。六百年後の未来で、妾が囚われていた地下の古代遺跡。あそこは、強大な魔力を封じるための檻だった)
点と線が、ローゼリアの頭の中で繋がりかけていた。
なぜ、あの遺跡はアズール宙域にあったのか。なぜ、魔力を封じる必要があったのか。
ひょっとして、これからバハムートが向かおうとしているアズール宙域での作戦そのものが、歴史における『大厄災』の引き金になるのではないか?
もし自分がバハムートを起動させ、ブラックホールを生み出せば、それは単なる敵艦隊の殲滅に留まらず、時空そのものを歪ませ、取り返しのつかない破滅をこの時代にもたらすのではないか。自分が歴史のタイムパラドックスの元凶になるのではないかという恐怖が、ローゼリアの背筋を氷のように撫で上げた。
(やめるべきか……? ここで妾が協力を拒めば、バハムートは起動せず、歴史は変わるかもしれない)
しかし、すぐにその考えを打ち消した。
もし自分が協力を拒めば、反乱軍の超絶質量兵器が撃ち込まれ、天空宮殿はマルクスごと消し飛ぶ。初代皇帝がここで死ねば、その血を引く自分自身の存在もタイムパラドックスによって消滅する可能性がある。
何より、バハムートの時空干渉機関を使わなければ、自分は永遠にこの六百年前の時代に取り残されることになる。
「……リアンヌ」
ローゼリアは、小さく呟いた。
どんな歴史の矛盾があろうと、どんな大厄災が起ころうと。自分は、あの白銀の騎士が待つ場所へ帰らなければならない。一人で泣いているかもしれない彼女を、これ以上待たせるわけにはいかないのだ。
「……よかろう。妾の魔力、存分に味わわせてやる」
ローゼリアは、疑念と恐怖を心の奥底に押し殺し、決意を込めて真っ直ぐにマルクスを見つめ返した。
「頼もしいぜ。あんたならそう言ってくれると信じていた」
マルクスが、ニヤリと不敵に笑う。
「だが、マルクスよ。一つだけ言っておく」
ローゼリアは、漆黒のパイロットスーツの袖を翻し、王者のような威厳を放ってマルクスを指差した。
「妾は、お主の『宇宙統一』だの『新しい歴史』だのという泥臭い覇道には、一切の興味はない。妾がこの力を使うのは、ただ愛する者の元へ帰るため。……お主の血塗られた覇道に、妾の魂までは付き合わんぞ」
その言葉に、マルクスは一瞬だけ虚を突かれたような顔をし、やがて腹の底から愉快そうに笑い出した。
「アハハハハッ! いいねぇ、最高だ! 宇宙の覇権よりも、自分の帰る場所を選ぶか! だが、その揺るぎないエゴイズムこそが、極大の魔力を制御するための絶対条件なのかもしれないな」
マルクスは、ローゼリアの小柄な肩をポンと叩いた。
「あんたみたいな王の器を逃すのは惜しいが、強要はしない。俺は俺の覇道を征く。あんたはあんたの帰るべき場所へ帰れ。……それじゃあ、世界をひっくり返しに行こうか」
「うむ。案内せい」
二人はコントロールルームを後にし、巨大な隔壁の奥、バハムートが鎮座する格納庫へと足を踏み入れた。
全高百メートルを超える漆黒の悪魔。背部に浮かぶ円環状のデバイス(ハロー)が、静かに、しかし禍々しい鼓動を打ち始めている。
見上げれば霞むほどのその巨体は、まさに神話の時代の終焉を告げる破壊神そのものだった。
「さあ、玉座へ向かえ、ローゼリア。あんたが歴史の特異点になるんだ」
マルクスが見送る中、ローゼリアは空中浮遊リフトに乗り、バハムートの胸部にあるメインコアへと向かって上昇していく。
(待っていてくれ、リアンヌ様。どんな歴史の闇が立ち塞がろうと、妾は必ず……お主の元へ帰ってみせる!)
決意の独白と共に。
神話の時代の終焉と、新たな歴史の始まりを告げる歯車が、今、孤独な少女の手によって、静かに回されようとしていた。
歴史の真実が何であれ、ローゼリアの目的はただ一つ。愛する騎士の温もりが待つ、あの『場所』へと帰還することだけであった。




