第三十九話:天空の玉座と、痴女扱いされる死神
「……マルクス・エーベルヴァイン、じゃと?」
その名を聞いた瞬間、ローゼリアの思考は完全にフリーズした。
歴史の授業で習ったため、知っていた『初代皇帝』。冷酷無比にして圧倒的なカリスマを持ち、魔法技術が極まったこの神話の時代においてすら、他を寄せ付けない絶対的な力で宇宙を統一した覇王。
そんな歴史上の超大物が、なぜ今、ボロ布を被った自分に屋台の串焼きの匂いを漂わせながら気さくに話しかけてきているのか。
「いかにも。どうした、俺の名前を知っているのか?」
マルクスは、琥珀色の瞳を面白そうに細めた。
「し、知っておるも何も……」
ローゼリアは言葉に詰まった。まさか『六百年後の未来で、あなたの国は崩壊して焼け野原になっています。そして妾はあなたの遠い子孫です』などと言えるはずがない。第一、そんなことを言ったところで、頭のおかしい浮浪者として衛兵に突き出されるのがオチだ。
(だが、これは好都合かもしれない……!)
ローゼリアの脳内で、高速で計算が回る。
この常識外れの時代から元の時代(リアンヌの待つ未来)へ帰る方法を探すには、この時代の最高峰の技術と情報にアクセスする必要がある。そして、目の前にいるこの男は、それらすべてを掌握する『天空宮殿アエテルニタス』の主なのだ。
「……ふん。その名前は聞いたことがあるぞ。この街の空に浮かぶ、あの悪趣味なデカい城の主じゃろう?」
ローゼリアは、あくまで尊大な態度を崩さずに顎で上空の宮殿をしゃくった。
「悪趣味とは手厳しいな。俺が造った建造物をベースに、最新の魔力炉をぶち込んで浮かせた俺の自信作なんだが」
マルクスはケラケラと笑い、ローゼリアに向かって再度手を差し出した。
「それで、どうだ? あんたのそのデタラメな魔力、俺の『宇宙統一』ってドデカい夢のために使ってみる気はないか? 報酬は望み通りに出す。美味い飯でも、金でも、地位でもな」
「……」
ローゼリアは、少しだけ躊躇した。
(リアンヌ様……俺、この六百年前の化け物みたいなご先祖様について行ってもいいかな? これが一番、あんたの元へ帰る近道になるはずだ)
心の中で愛しい騎士に語りかけ、ローゼリアは気高くその手を取った。
「よかろう。妾の名はローゼリア。……お主のその『夢』とやらが、妾の暇つぶしになるかどうか、見定めてやろうではないか」
「ローゼリアか。いい名前だ。それじゃあ、早速俺の城へ案内しよう」
二人が向かったのは、都市の片隅にある目立たない転送施設だった。
マルクスがコンソールに触れた瞬間、現代のワープ技術とは比べ物にならないほど滑らかで、一切のタイムラグを感じさせない空間転移が発動した。
光が収まった時、ローゼリアはすでに『天空宮殿アエテルニタス』の内部、それも豪華絢爛な絨毯が敷き詰められた回廊に立っていた。
「なっ……なんという転送速度じゃ。空間の歪みすら感じさせんとは……」
「おや、転送魔術の原理が分かるのか? 見た目によらずインテリだな、ローゼリア」
二人が回廊を歩き出すと、すれ違うメイドや完全武装の近衛兵たちが、次々とその場に跪き、最敬礼をとった。
「「「マルクス様、お帰りなさいませ!」」」
彼らの顔には、心からの敬愛と、同時に絶対的な畏怖が刻まれていた。そして、彼らが皆一様に、マルクスの背後を歩く『薄汚れたボロ布を被った不審者』を見て、目を丸くして驚愕している。
(う、ううっ……視線が痛い! そりゃそうだよな、ピカピカの城にボロ布の浮浪者が入ってきたら誰だって驚くわ!)
ローゼリアは羞恥心から、頭から被った麻布の外套をさらに深く引き下げ、小柄な身体を縮こまらせて歩いた。
「着いたぞ。ここは俺の私室だ。誰の邪魔も入らん」
マルクスが重厚な扉を開け、ローゼリアを招き入れた。
そこは、宮殿の最上層に位置する、眼下の巨大都市と星空を一望できるガラス張りの広大なスイートルームだった。部屋の中央には、高級な革張りのソファと、マホガニーの巨大なデスクが置かれている。
「適当に座ってくれ。とりあえず、何か飲むか? それとも腹が減ってるなら、厨房に何か作らせるが」
マルクスは上着のコートを脱ぎ捨てながら、気さくにソファを勧めた。
「……いや、構わん。それよりも、早くお主の用件を……」
ローゼリアがソファに腰を下ろそうとした、その時だった。
フワッ。
部屋の空調——最新鋭の魔力調整機から吹き出した心地よい風が、ローゼリアの被っていた薄汚い麻布を大きくめくり上げた。
「あ」
ローゼリアの口から、間の抜けた声が漏れた。
ボロ布の隙間から、その下にある『衣装』が、マルクスの視界に完全に飛び込んでしまったのだ。
「…………ん?」
マルクスは、手に持っていたグラスをテーブルに置いたまま、ピタリと動きを止めた。
彼の鋭い琥珀色の瞳が、めくれ上がった布の隙間から覗くローゼリアの肌を、頭の先から足の先まで、じっくりと、そして正確に捉えていた。
抜けるような白い肌。
華奢な肩のライン。
そして、その肌を覆っているのは——どう見ても『下着』にしか見えない、面積の少ない黒のフリル付きワンピース水着だけであった。
沈黙が、部屋を支配した。
「……えーと」
マルクスは、信じられないものを見るような目で、こめかみを掻いた。
「ローゼリア。あんた、その布の下……『それ』しか着てないのか?」
「なっ……! ち、違う! これは水着じゃ! 水着!!」
ローゼリアは顔を真っ赤にして、慌ててめくれた布を掻き寄せ、自身の身体を隠した。
「水着……?」
マルクスは、窓の外に広がる大都市を見下ろし、そして再びローゼリアを見た。
「ここは高度一万メートルの空飛ぶ城で、眼下にはコンクリートと魔力炉がひしめく大都会だ。……海もプールも、半径数百キロ圏内には存在しないぞ?」
「そ、それは……! 事情があって、たまたま海辺から飛ばされてきただけで……!」
「なるほど」
マルクスは、顎に手を当てて深く頷いた。
そして、ニヤリと、最高に意地悪な笑みを浮かべた。
「つまり、あんたは『そういう趣味』の持ち主ってことだな」
「は……?」
「いやぁ、人間見かけによらないとは言うが、驚いたぜ。未来まで語り継がれそうなほどのデタラメな魔力を持ってるってのに、布切れ一枚の下は、ほぼ全裸の下着姿で街をうろつくのが好きな『ド変態の痴女』だったとはな」
「ち、痴女ォォォォッ!?」
ローゼリアの顔が、茹でダコのように真っ赤に沸騰した。
(ちがっ! 違うんだよぉぉぉっ! 俺はただリアンヌ様とバカンスを楽しんでただけで、拉致されて六百年前の過去に飛ばされて、服がないから仕方なくその辺の布を被ってただけで……!!)
言い訳をしようにも、過去からタイムスリップしてきたなどと言えば、痴女どころか完全に「頭のおかしいヤツ」扱いである。
「アハハハハッ! いや、別にいいさ! 英雄色を好むとも言うし、天才には奇行がつきものだからな! だが、さすがに俺の城でその格好でウロウロされると、近衛兵たちの風紀が乱れる。……ほら、これでも着ておけ」
マルクスは腹を抱えて大爆笑しながら、クローゼットから一着の服を取り出し、ローゼリアに向かって放り投げた。
「ぐっ……! 殺す……! 絶対にいつかこの男を魔導砲で消し炭にしてやる……っ!」
ローゼリアは涙目でギリギリと歯を食い縛りながら、投げられた服をキャッチした。
それは、マルクス自身が着るために仕立てられたであろう、上質な漆黒の軍服用のコートだった。ローゼリアの小柄な身体には大きすぎるが、少なくとも下着(水着)姿を隠すには十分すぎる布面積があった。
ローゼリアは背を向け、ボロ布を投げ捨てて、急いでその黒いコートを羽織った。
袖は手がすっぽり隠れるほど長く、裾は膝下まで引きずりそうになっている。まるで、大人の服を無理やり着せられた子供のようだ。
「……ふむ。まあ、さっきの痴女スタイルよりはマシだな」
マルクスは、コートにくるまって不機嫌そうにソファに座るローゼリアを見て、満足げに頷いた。
「黙れ。次その単語を口にしたら、宮殿ごと爆破してやる」
「怖い怖い。俺の目に狂いがなければ、あんたなら本当にやりかねない魔力を持ってるからな」
マルクスは苦笑しながら、改めてローゼリアの向かいのソファに腰を下ろした。
先ほどまでのからかうような態度は消え、そこには再び、覇王としての鋭い眼光が宿っていた。
「さて、茶番はここまでだ。本題に入ろうか、ローゼリア」
「……お主の『宇宙統一』の話じゃな」
ローゼリアは、ぶかぶかの袖を折り曲げながら、冷たい視線でマルクスを見返した。
「ああ。あんたもこの街に来るまでに見たはずだ。今の時代、魔力技術はかつてないほどに発展し、人々は豊かな生活を享受している。……だが、その豊かさは、泥沼の『戦乱』の上に成り立っている」
マルクスの声が、低く、重みを帯びる。
「技術が発展しすぎたせいで、どこの国も、どこの星の勢力も、簡単に星一つを吹き飛ばせるほどの兵器を持つようになった。今、この銀河は無数の軍閥と国家が睨み合う、最悪の『冷戦状態』だ。……どこかで一つの火種が爆発すれば、あっという間に宇宙全土が灰燼に帰す」
(……それは、未来の反帝国連合やマフィアたちが引き起こそうとしていたのと同じ状況か)
ローゼリアは、心の中で呟いた。
「だから、俺が『統一』する。圧倒的で、絶対的な、誰にも逆らうことのできない『力』をもって、この銀河のすべての愚か者どもを平伏させる。それが、これ以上の無益な血を流さないための、唯一の最適解だ」
マルクスの瞳には、揺るぎない覚悟と、狂気にも似た覇気が燃え盛っていた。
「そのために、俺は新しい『力』を開発した。あんたの魔力があれば、その『力』は完全なものになる。……どうだ? 俺の隣で、新しい宇宙のルールを創ってみる気はないか?」
六百年前の神話の時代。
後に『エーベルヴァイン帝国』という宇宙最大の国家を築き上げる男の、偽りなき本心。
「……ふん」
ローゼリアは、ぶかぶかのコートの中で腕を組んだ。
この男の覇道に付き合う気は毛頭ない。彼女の居場所は、六百年後の未来で、愛する白銀の騎士が待つ場所なのだから。
しかし、マルクスの言う「新しい力」——この時代の最高技術の結晶には、未来へ帰るための糸口が隠されているかもしれない。
「よかろう、マルクス。お主の言う『新しい力』とやら、見せてもらおうではないか。……それが妾の魔力に見合うだけの代物であれば、手を貸してやってもよいぞ」
「交渉成立だな」
マルクスは、不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。
「ついてこい、ローゼリア。俺が今から、この神話の時代を終わらせる『最凶の兵器』を見せてやる」
痴女扱いされた恨みを心の奥底で煮えたぎらせながらも。
未来の黒き死神は、過去の覇王と共に、天空宮殿のさらに深部へと足を踏み入れていくのであった。




