第五幕 第三十二話:過ぎ去りし夏の残像と、特異点の決別
月の裏側に停泊する、白と金を基調とした優美な巨大母艦『エインヘリアル』。
その頭脳部であり、艦の全機能を掌握するブリッジは、張り詰めた緊張感と静かな活気に包まれていた。
黒い特注の制服に身を包んだレガリアが、メインコンソールの前で流麗な手付きで火器管制と航法システムの最終チェックを行っている。
そして、一段高くなった艦長席には、銀河最強の女傭兵団のトップであるブリュンヒルデが、静かな威厳を漂わせて座っていた。
「——よく戻った、ローゼリア。アルティナとシエラもご苦労だった」
ブリッジの自動ドアが開き、黒い軍服姿のローゼリアたちが入室してくると、ブリュンヒルデは深く頷いた。
「うむ! して、団長。本業の任務とは何じゃ? ルミナスに残党でもおったか?」
ローゼリアが、好戦的な笑みを浮かべて尋ねる。
「いや、ルミナスでの戦闘はない。……『本業』というのは、我々傭兵団としての本来の居場所へ帰るための、最終任務のことだ」
ブリュンヒルデは、メインモニターに広大な星図と、複雑な次元座標の計算式を映し出した。
「シエラの計算により、我々が迷い込んだ次元断層を突破し、エーベルヴァイン帝国の宇宙域へ帰還するルートが完全に確立された。エインヘリアルの主機を最大出力までチャージし、次元跳躍の準備を整えるには、地球の時間にしてあと48時間が必要となる」
「おおっ……! ついに、元の宇宙に帰れるんじゃな!」
ローゼリアの真紅の瞳が輝く。
「そうだ。次元座標が確立された以上、いつでもこの星系(地球)には来られるようになった。だが、我々の本業は帝国の戦場だ。次にいつ長期の休暇が取れるかは分からない」
ブリュンヒルデはそこで言葉を区切り、スッと目を細めてローゼリアを真っ直ぐに見据えた。
「ローゼリア。お前には、これより地球への降下許可を与え、特別休暇を付与する。……やり残したことがあるのなら、今のうちに済ませてこい」
「え……?」
ローゼリアは、予想外の言葉に目を丸くした。
地球。前世である『宮本悠斗』が生まれ育ち、そして命を落とした故郷。
タナカ店長のいるコンビニに行ったり、秋葉原でオタク活動を満喫したりと、ネトゲ廃人『ジムス』としての欲望のままに振る舞ってはいたが……彼女には一つだけ、意図的に避けていた場所があった。
「……感謝する、団長。お言葉に甘えて、少しだけ……寄り道をしてくるのじゃ」
ローゼリアは、深々と頭を下げた。
「我が主! このリアンヌ、護衛としてどこまでも……!」
と、一歩踏み出した近衛のリアンヌだったが。
ふと、ローゼリアのどこか切なげで、けれど真剣な横顔を見た彼女は、ハッとしてピタリと足を止めた。
リアンヌは空気を読み、恭しく一礼して引き下がった。
「……いえ。私はお留守番をして、我が主が帰還された際にすぐ遊べるよう、ゲーム機のセッティングを完璧に仕上げてお待ちしておりますね」
「うむ。頼むぞ、リアンヌ」
ローゼリアは、気を利かせてくれた大切な仲間に向かって、優しく微笑みかけた。
数十分後。
ローゼリアは愛機である真紅と漆黒の巨人『ルシフェル・リベリオン』のコックピットに乗り込み、単騎で地球への降下軌道に入っていた。
「シエラ、光学迷彩の出力は最大じゃな? 今度こそ絶対に威嚇用イルミネーション機能など起動せんぞ……!」
『はい、マスター。完全ステルス状態を維持しています。自衛隊のレーダーには一切感知されていません』
2年前の「黒い堕天使事件」の反省を活かし、ローゼリアは音もなく大気圏を突破すると、目的地の山林に機体を静かに着陸させた。
そこから偽装機能を使って黒いキャップと白いTシャツ、デニムという現代のラフな若者の姿へと着替え、山を下りて街へと向かう。
西暦2026年、7月。
日本の某所にある、閑静な住宅街。
じりじりとした真夏の太陽がアスファルトを焼き、耳を劈くような蝉時雨が響き渡っている。
「(……変わっておらん)」
ローゼリアは、見覚えのある景色を歩きながら、胸の奥がギュッと締め付けられるのを感じていた。
角にある古いタバコ屋。少し錆びたカーブミラー。小学生の頃に登って怒られた柿の木。
前世である宮本悠斗がトラックに轢かれてから、この地球ではまだ7年しか経っていない。
やがて、ローゼリアの足が、ある一軒の家の前でピタリと止まった。
少し古びた、二階建ての日本家屋。
門柱には、『宮本』と彫られた表札が掲げられていた。
ガチャリ、と玄関の引き戸が開く音がした。
「ふぅ、今日も暑いわねえ……」
出てきたのは、麦わら帽子を被り、首にタオルを巻いた中年の女性だった。庭の鉢植えにホースで水を撒き始める。
その横顔には、ローゼリアの記憶よりも少しだけ多く、白いものが混じっていた。
「(……母さん)」
ローゼリアの唇が、音もなく震えた。
間違いない。前世の自分を育ててくれた、母親だった。
「お父さーん! 庭のトマト、もう赤くなってるから後で収穫しといてちょうだいねー!」
母親が、家の中に向かって声を張る。
「ああ、分かってるよ。それより母さん、冷蔵庫のスイカ切ってくれ。仏壇のあいつにも、一番甘いところを供えてやってくれな」
家の中から、ステテコ姿の父親が顔を出し、団扇をパタパタと扇ぎながら答えた。
「ええ、そうね。……悠斗、スイカが大好きだったから」
母親はホースの水を止め、ふと、夏の青空を見上げた。
その表情は、深い悲しみを乗り越え、それでも我が子を想う、穏やかで優しい母親の顔だった。
「…………っ」
こらえきれず、ローゼリアの目から大粒の涙がポロリとこぼれ落ちた。
7年。自分が死んでから7年が経っても、両親の日常の中には、当たり前のように『悠斗』が生きている。彼らの中で、自分は決して忘れ去られた過去などではなかったのだ。
その時だった。
電柱の陰で帽子を深く被り、肩を震わせている金髪の少女の存在に、母親が気がついた。
「あら……? お嬢さん、どうしたの? 具合でも悪いの?」
「ひゃっ!?」
急に話しかけられ、ローゼリアはビクッと肩を跳ねさせた。
慌てて涙を拭い、顔を伏せる。
「あ、いや……その、少し、日差しが強くて……」
ローゼリアは、必死に怪しまれないよう、拙い外国人旅行者のようなトーンを取り繕って答えた。
その声に反応して、縁側から父親が顔を覗かせた。
「おいおい、こんな暑い中立ち止まってたら熱中症で倒れちまうぞ。外国からの旅行者かい? ほれ、ちょうどスイカを切ったところだ。縁側で少し涼んでいきなさい」
「えっ……い、いえ! 妾……いや、ワタシはただの通りすがりで……!」
「いいからいいから。麦茶も淹れるわね」
あれよあれよという間に、ローゼリアは前世の実家の縁側に座らされ、キンキンに冷えた麦茶と、大きく切られたスイカをご馳走されることになってしまった。
「(……信じられん。まさか、自分の実家の縁側で、両親からスイカをご馳走になる日が来るなんて)」
ローゼリアは帽子を深く被ったまま、両手でスイカを持ち、恐る恐る一口かじった。
冷たくて、甘い、瑞々しい夏の味。
前世で、夜遅くまでゲームをしながら食べていた、あの懐かしい実家の味だった。
「…………美味しい」
ローゼリアの目から、再びポロポロと涙がこぼれ落ちた。
スイカの果汁と一緒に、しょっぱい涙が口の中に広がる。
「まあ、泣くほど美味しいの? よかったわねえ」
母親が、目を丸くしながらも優しく微笑んだ。
「はい……。ワタシの、遠い故郷の味がして……とても、懐かしくて……」
ローゼリアは、涙を拭いながら必死に笑顔を作った。
「そうかそうか。うちの死んだ息子もね、スイカが大好きだったんだよ」
父親が、仏壇のある奥の部屋を見やりながら、目を細めた。
「あいつは不器用な奴だったが、お前さんみたいに、美味いものを食うと本当にいい笑顔をする奴でね。……天国で元気にやってりゃいいんだが」
「……ええ。きっと、元気でやってますよ」
ローゼリアは、スイカを綺麗に食べ終えると、立ち上がって深く、深く一礼した。
今すぐ飛び出して、「俺だよ、悠斗だよ」と叫びたい衝動に駆られる。
しかし、そんなことをしてはいけない。彼女は今、『ローゼリア・エーベルヴァイン』なのだ。
銀河最強の女傭兵団の特異点であり、戦場で背中を預け合うかけがえのない『仲間たち』がいる。
平和な地球に生きる両親の日常を、異邦人となってしまった自分が壊すわけにはいかなかった。
「お父さん、お母さん。……本当に、ごちそうさまでした」
ローゼリアは、両親に向かって、気づかれないように前世からの感謝を込めて微笑んだ。
「ありがとう。いつまでも、元気でいてくださいね」
「ええ、お嬢さんも。気をつけて旅行を続けるのよ」
両親に見送られ、ローゼリアは一切振り返ることなく歩き出した。
夏の太陽が照りつけるアスファルトの上。
かつて『宮本悠斗』だった少年の影は、銀河を翔ける戦乙女『ローゼリア』の影へと完全に溶け込み、確かな足取りで未来へと進んでいった。
翌日。日没前。
月の裏側に停泊するエインヘリアル。
ブリッジの自動ドアが開き、ローゼリアが帰還した。
黒を基調としたエインヘリアルの軍服をビシッと着こなした彼女の顔には、エース特有の鋭く、不敵な笑みが張り付いている。
昨日見せた涙の痕跡は、微塵も残っていない。
「待たせたな、団長! やり残したことは、もう何もないぞ!」
ローゼリアが、弾むような声で宣言する。
「お帰りなさいませ、我が主! ゲームのセッティングはバッチリです!」
リアンヌが駆け寄り、ローゼリアは「うむ、後で存分に遊ぶぞ!」と笑って頷いた。
艦長席のブリュンヒルデは、ローゼリアの吹っ切れた顔を見て、薄く微笑んだ。
「……そうか。ならば、これより最終フェーズに移行する」
ブリュンヒルデが立ち上がり、ブリッジの全クルーに向けて声を張った。
「各員、第一種戦闘配備! これより本艦は地球宙域を離脱し、エーベルヴァイン帝国宇宙域への次元跳躍を開始する!」
『了解。魔力炉、最大出力に到達。エインヘリアル、次元座標の固定完了。……いつでもいけます』
メインモニター越しに、シエラの無機質な声が響く。
「前衛部隊(ローゼリア、リアンヌ、エリーゼ、ランドグリーズ)、カタパルトにて待機。跳躍中に次元の狭間で敵性体と遭遇した場合、即座に迎撃・排除せよ!」
レガリアが、火器管制を掌握しながら的確な指示を飛ばす。
「ふはははっ! 任せておくのじゃ! 妾のルシフェル・リベリオンが、次元の壁ごと邪魔者をぶった斬ってやるわ!」
ローゼリアは、己の『本業』である戦場への高揚感に胸を震わせ、力強く拳を握った。
彼女の背後には、エインヘリアルの頼もしい仲間たちがいる。彼らと共に戦い、生き抜くことこそが、今のローゼリアのすべてだった。
「総員、衝撃に備えよ。……エインヘリアル、発進ッ!!」
ブリュンヒルデの号令と共に、月の裏側に潜んでいた白と金の優美な巨艦が、圧倒的な光を放って姿を現した。
艦首に集束された莫大な魔力が宇宙空間を引き裂き、眩い光のトンネルを創り出す。
「さあ、帰ろうぞ! 妾たちの、本来の戦場へ!!」
ローゼリアの歓喜の叫びと共に、銀河最強の女傭兵団を乗せたエインヘリアルは、遥かなる星の海へと次元の彼方へ消えていった。




