第五幕 第三十話:終わりの見えない疲労と、特異点の燃え尽き症候群
惑星ルミナスにあるファルガー魔法学院に、爽やかな秋の風が吹き抜けていた。
約一ヶ月に及んだ長期休暇(夏休み)が終わり、学院は久しぶりに再会を喜ぶ生徒たちの活気と喧騒に包まれている。
「ローゼリアーっ! 久しぶり! 元気だったかい?」
「ローゼリアさん、おはようございます! 今日からまたよろしくお願いしますね!」
Fクラスの教室。
日に焼けて健康的な笑顔を浮かべるアランとレイラが、自分の席に向かって大きく手を振った。
彼らは実家の領地に帰り、充実した休暇を過ごしてきたのだろう。その表情は希望に満ち溢れ、新学期へのモチベーションの高さが窺えた。
しかし、二人に声をかけられた当の本人は——。
「…………う、うむ。おはよう……じゃ……」
銀河最強の特異点にして帝国随一のエースパイロット、ローゼリア・エーベルヴァインは、まるで墓場から這い出してきたゾンビのような足取りで教室に入ってきた。
輝くような金髪は心なしかパサついており、真紅の瞳の下には、深い漆黒のクマがくっきりと刻まれている。
彼女は自分の席にたどり着くや否や、カバンを放り投げ、机の上にスライムのようにドロリと突っ伏した。
「ろ、ローゼリア!? どうしたんだいその顔色! 目の下のクマ、すごいことになってるよ!?」
「ま、まさか、夏休みの間、ずっと徹夜で魔法の研究を……!?」
アランとレイラが、血相を変えてローゼリアの席に駆け寄る。
「……研究、だと? ふふ、ふははは……。そんな生易しいものではないわ……」
ローゼリアは、机に顔を押し付けたまま、うわ言のように呟いた。
「妾は戦っていたのじゃ……。終わりの見えない、無限に増殖する白い悪魔(書類)の山と……。押しても押しても終わらない決裁印のゲシュタルト崩壊……。どこかの鬼軍曹が地球で大トロ寿司を堪能している間、妾はただひたすらに数字の羅列と格闘し……うぅっ……」
休暇中、母艦エインヘリアルでブリュンヒルデから『艦長代理』という地獄の役職を押し付けられ、過酷な行政事務で完全に精神を破壊されたローゼリア。
部下たちの介護によって何とか業務を完遂し、その後は溜まりに溜まったストレスを発散するため、自室に引きこもって地球から持ち帰った新作ゲームを三日三晩ぶっ通しでプレイした結果、彼女の体力と精神力は完全にマイナスに突入していた。
「な、何を言っているのかよく分からないけど、とにかくゆっくり休んで! すぐにホームルームが始まるから!」
アランが心配そうにうちわで風を送り、レイラがローゼリアの背中を優しくさする。
「うむ……。すまぬが、今日はもう……一ミリも動きたくないのじゃ……。呼吸するのすら面倒くさい……」
ローゼリアは、完全に『燃え尽き症候群』を発症していた。
やがて鐘が鳴り、秋学期最初の授業が始まった。
一時間目の科目は『魔法資源管理学』。魔石の運用や、大規模魔術陣を構築する際のコスト計算などを学ぶ、座学の中でも特に実務的で退屈な授業である。
教壇に立つ初老の教師が、黒板に複雑な計算式を書き連ねながら、単調な声で講義を進めていく。
「……良いか。都市防衛用の大規模結界を張る際、必要となるマナ・クリスタルの消費量は、結界の維持時間と比例して指数関数的に増加する。したがって、我々魔道士はただ魔法を放つだけでなく、いかに効率よく、かつ低コストで魔力を運用するかという『予算管理』の視点が不可欠となる……」
普段のローゼリアであれば、この手の座学はエインヘリアルの演算機能を使って一瞬で理解してしまうため、授業中は堂々と熟睡するか、机の下で隠れてゲームをしているかのどちらかであった。
しかし今日の彼女は、寝る体力すら残っていないのか、虚ろな半目で黒板を見つめたまま、微動だにしていなかった。
「(予算……コスト計算……消費量……)」
教師の口から発せられる単語の数々が、ローゼリアの脳裏に、数日前の『艦長代理の地獄の執務室』の記憶をフラッシュバックさせる。
「さて、そこでだ。例えば、この第七結界層の修復工事を行うとする。各部署から上がってきた見積もりに対し、責任者である魔道士は、どのような手順で『申請書』を確認し、『決裁』を下すべきか。……誰か分かる者はいるか?」
教師が教室を見渡す。
ピクッ。
『申請書』『決裁』という単語を聞いた瞬間、机に突っ伏していたローゼリアの肩が、不自然に跳ねた。
「(……申請書……決裁……ハンコ……承認……)」
彼女の真紅の瞳孔が、スッと収縮する。
「おや、ローゼリア。前期の学科試験で満点を取った君なら分かるだろう。答えてみなさい」
教師が、ローゼリアを指名した。
アランとレイラが、「ローゼリア、起きて!」と小声で囁く。
ローゼリアは、操り人形のようにフラフラと立ち上がった。その目は、完全にハイライトが消え失せ、深淵を覗き込んでいるような暗い色をしていた。
「……申請書、じゃと?」
ローゼリアは、地を這うような低い声で口を開いた。
「は、はい。結界修復の申請書をどう処理するか、ですが……」
教師が、ローゼリアのただならぬ気迫(怨念)に押されて一歩後ずさる。
「……そんなもの、見るだけ無駄じゃ。どうせ現場の連中は、予備費を多めに見積もってふっかけてくるに決まっておる。まずは見積もりを提出した部署に突き返し、予算を三割削れと脅すのじゃ。それでも泣きついてきたら、他部署の予算を流用する手立てを考えろと丸投げする」
「ろ、ローゼリア君……? それは少し、実務的すぎると言うか……魔法理論の話を……」
「魔法理論などクソ食らえじゃ!!」
ダンッ!! と、ローゼリアが机を両手で叩きつけた。
「いいか!? 決裁というのはな、ただハンコを押せばいいというものではない! 一つの承認ミスが、艦(都市)全体の予算を破綻させ、冷却システムの停止を招き、乗組員全員を宇宙の塵にする危険性を孕んでおるのじゃぞ! それなのに、どの部署も『早く承認しろ』『今すぐサインしろ』と自分の都合ばかり押し付けてきおって……!!」
ローゼリアの口から、ファルガー魔法学院の授業内容とは全く関係のない、宇宙戦艦の艦長代理としての血を吐くようなルサンチマンが溢れ出した。
「だいたい、何故ハンコ一つ押すのに、第一から第三までの事前稟議が必要なんじゃ! 承認ルートが長すぎる! 決裁が降りる頃には、現場の部品はとうにイカれておるわ! そのくせトップ(団長)は『責任はお前が取れ』と丸投げして、自分は地球の温泉で大トロ寿司を食っておる! ふざけるな! 妾はパイロットじゃ! 現場でトリガーを引くのが仕事なんじゃ! 書類と睨めっこするために戦乙女になったわけではないんじゃぁぁっ!!」
教室は、水を打ったような静寂に包まれた。
「え、えーと……宇宙の塵……?」
「ローゼリアさん、どうしたの……? なんだか、すっごくブラックな商会で酷使された元従業員みたいな悲痛な叫び声だけど……」
アランとレイラ、そしてクラスメイトたちは、ローゼリアの口から飛び出す謎の専門用語と、異常なまでの臨場感にドン引き(同情)していた。
「……ぜぇ、はぁ……」
ひとしきり叫び散らしたローゼリアは、ぜえぜえと肩で息をした後、白目を剥いてパタリと机に倒れ込み、完全に機能停止した。
「ろ、ローゼリアーッ!? 誰か保健室の先生を呼んでーっ!!」
新学期早々、Fクラスの教室にアランの悲鳴が響き渡った。
昼休み。
中庭の木陰にあるベンチで、ローゼリアは死んだ魚のような目をして空を眺めていた。
彼女の隣には、Aクラスの制服を優雅に着こなしたアルティナとシエラが、呆れたような顔で立っている。
「……相変わらず、見苦しいわねローゼリア。たかだか一週間、艦長代理の書類仕事をやったくらいで、学院の授業でPTSDを発症するなんて」
アルティナが、美しい金糸の髪をかき上げながら冷たく言い放つ。
「うるさいのじゃ……。お主らAクラスのエリートには、書類の海に溺れる底辺の苦しみなど分かるまい……」
ローゼリアは、力なく手を振った。
『マスター。精神の安定を促すため、地球で調達した特別配給品をお持ちしました』
シエラが、空間収納ポケットから『あるもの』を取り出した。
極彩色の毒々しいパッケージデザイン。地球のコンビニエンスストアでローゼリアが大量に買い込んだ、あの魔法の液体である。
「おおっ……! 『魔剤』ではないか!」
ローゼリアの目に、僅かに光が戻った。
プシュッ! という小気味良い炭酸の音と共に、ローゼリアは缶の口に食らいつき、そのジャンクで甘美な液体を一気に喉に流し込んだ。
「ぷはぁぁぁっ! 染みる! 糖分とカフェインとアルギニンが、枯渇した妾のシナプスを強制的に再起動させていくのが分かるぞぉぉっ!」
たちまちローゼリアの顔色に血の気が戻り、背筋がピンと伸びた。地球の科学(という名のカフェイン)は、異世界の魔法をも凌駕する即効性を持っていたのである。
「まったく……。そんな成分不明の劇薬ばかり飲んでいないで、少しは体を動かしなさい。午後からは、前期の復習も兼ねた『実戦形式の野外演習』があるそうよ」
アルティナが、データ端末を確認しながら言う。
「む? 実戦演習じゃと?」
ローゼリアが、缶を握りしめたまま首を傾げる。
「ええ。学院の裏山にある演習場で、クラス対抗の模擬戦を行うみたいね。もちろん、私たちAクラスも参加するわ。……聞いてる? ローゼリア。座学じゃないのよ、実技よ」
「……」
ローゼリアは、ピタリと動きを止めた。
「実戦……。つまり、敵を物理的に破壊して良いということじゃな?」
ローゼリアの声のトーンが、スゥッと一段下がった。
「そうね。模擬戦とはいえ、相手の魔力障壁を破壊するか、行動不能にすればポイントになるわ」
「……そこに、事前の『弾薬消費の申請書』は必要か?」
「いらないわよ」
「……相手を吹き飛ばした後の、『損壊報告書』や『始末書』は必要か?」
「学院の演習なんだから、教師が処理するわ。生徒には一切の事務手続きは発生しないわよ」
その言葉を聞いた瞬間。
ローゼリアの真紅の瞳に、ゴォォォッ! と凄まじい業火(やる気)が燃え上がった。
「ふははははっ!! 素晴らしい! 最高じゃ! 書類のいらない破壊活動! 決裁印のいらない暴力! これこそが、妾の求めていた本来の姿! エースパイロットの戦場じゃぁぁっ!!」
ローゼリアはベンチから跳ね起き、天高く右手を突き上げた。
先ほどまでのゾンビのような姿は完全に消え失せ、そこには、日頃の事務作業の鬱憤をすべて物理攻撃で晴らそうと目論む、危険極まりない特異点の姿があった。
「あーあ。完全にスイッチが入っちゃったわね。……シエラ、午後の演習、Aクラスの生徒たちに『絶対にFクラスのローゼリアには近づくな』って通達を出しておいて。……巻き込まれたら死ぬわよ」
「了解しました。……マスターの現在のストレス解放係数は300%を超えています。演習場の地形が、地図から消滅する確率を計算しておきます」
アルティナとシエラは、哀れな犠牲者となるであろう学院の生徒たちに、心の中でそっと十字を切った。
午後。
ファルガー魔法学院の裏山に広がる、広大な野外演習場。
「よし! これより、秋学期最初のクラス対抗模擬戦を開始する! ルールは簡単だ、敵陣地にあるフラッグを奪うか、敵クラスの生徒を全滅させれば勝利となる! 怪我には十分注意するように! それでは……開始っ!!」
教官のホイッスルが鳴り響いた、直後。
「どけぇぇぇいっ!! 申請書も! 予算管理も! 決裁印も! 何もかも消え失せろぉぉぉっ!!」
ドガァァァァァァァァンッッ!!!
演習場の中央に、鼓膜を突き破るような爆音と共に、太陽のような巨大な紅蓮の爆炎が巻き起こった。
「な、なんだ!?」
「ひぃぃぃっ!? 火山が噴火したぞぉぉっ!?」
他クラスの生徒たちがパニックに陥り、悲鳴を上げて逃げ惑う。
その爆炎の中心で、特異点たるローゼリアは、杖を片手に狂気じみた高笑いを上げていた。
彼女の放つ魔法は、一切の手加減がない『鬱憤晴らしの無差別爆撃』であった。
「食らえ! 『三連続稟議』!! さらに追撃じゃ! 『予算削減の鉄槌』!! ふははははっ! 燃えろ! 全部燃えて灰になれぇぇっ!!」
「ロ、ローゼリアさん!? 魔法の名前がおかしいよ!? それに、味方の陣地まで巻き込んでるぅぅっ!?」
アランとレイラが、ローゼリアの放つ余波から必死に逃げ回りながら叫ぶ。
「良いかお主ら! 現場の兵士たるもの、小難しい計算など捨てて己の本能のままにトリガーを引けば良いのじゃ! 責任はすべて、上の人間(艦長)が取ってくれるんじゃぁ!!」
完全に理性を失い、破壊の権化と化したローゼリア。
その日のファルガー魔法学院の模擬戦は、開始からわずか三分で演習場の山が一つ更地になり、「全クラス行動不能(恐怖による気絶)」という前代未聞のノーコンテストで幕を閉じることとなった。
そして翌日。
「ローゼリア・エーベルヴァイン。……演習場の過剰破壊に伴う修繕費の『始末書』だ。ここにサインしなさい」
「嘘じゃあああぁぁぁっ!! なんで学院でも事務手続きが発生するんじゃぁぁっ!!」
教官室で、山積みの始末書を前に再び幼児退行して号泣するローゼリアの悲鳴が、平和な秋の学院に空しく響き渡るのであった。




