第五幕 第二十九話:帰還した部隊長と、戦乙女たちのドン引き(レイテンシー)
月の裏側に停泊する漆黒の巨大母艦、エインヘリアル。
その第一格納庫に、青き星・地球から帰還した六人の戦乙女を乗せたステルス輸送艇が、音もなく静かに着艦した。
「はぁ……。青森の温泉も素晴らしかったが、東京の銀座で食べた『江戸前寿司』……。あれはまさに芸術だったな」
エインヘリアル部隊長、ブリュンヒルデは、ツヤツヤに輝く肌と、完全に肩の凝りが取れた羽のように軽い足取りでタラップを降りた。
「ええ、本当に。特にあの『大トロ』という部位……とろけるような口溶け、最高でしたわ! ローゼリア様がいつもおっしゃっていた『日本のスイーツ』も格別でしたし、地球は素晴らしいですの!」
金髪の縦ロールを揺らしながら、ベルフェゴールを駆るエース、エリーゼ・マーベリックが熱っぽく語る。彼女はローゼリアを心から崇拝しており、今回のバカンス中も「ローゼリア様なら、きっとこのお寿司を召し上がって喜ばれたはず……!」と、ローゼリアのことばかり考えていたほどの熱烈なファンである。
「ガハハハッ! アタシはあの『ラーメン』ってやつが気に入ったぜ! 豚骨スープの破壊力、ルミナスの魔獣の肉より精がつくってもんだ!」
長女ランドグリーズが豪快に笑い、次女のロスヴァイセが「お姉様、食べ過ぎて少しお腹周りが……」と小言を言い、三女のオルトリンデが「……クレープ、また食べたい」と静かに呟く。
「地球の文化と食料事情のデータは、完璧に収集しました。今後の補給計画の参考にしましょう」
情報部隊長ウルスラも満足げに眼鏡を押し上げた。
誰も彼もが、数日間の地球観光をしゃぶり尽くし、心身ともに極限までリフレッシュしていた。
日頃の過酷な任務と事務作業のストレスは、温泉の湯煙と極上の美食によって完全に浄化されていたのである。
「さて……」
ブリュンヒルデは、居住区画へと向かうエレベーターの中で、ふと表情を引き締めた。
「そろそろ、現実(仕事)に戻るとしよう。……私が留守の間、あの特異点がどこまで艦長代理の職務を全うできたか、見ものだな」
「ふふっ。きっと、ローゼリア様のことです、初日で仕事を終わらせて、余裕じゃたぞ!って言うんじゃありませんか?」
エリーゼがくすくすと笑う。ブリュンヒルデも、呆れたようにため息をついた。
チーン。
エレベーターが艦長執務室の階に到着し、ドアが開く。
「……入るぞ、ローゼリア」
プシュゥゥ。
ブリュンヒルデがドアを開けた、その瞬間。
「うわあああぁぁぁん!! もう無理! 本当に無理なのぉぉっ!! なんで『光学迷彩システムの予備マナタンクの補填』なんて、一つの申請に三つの部署のハンコが必要なんだよぉぉっ!?」
執務室の中に響き渡ったのは、威厳の欠片もない、完全に素の(前世のネトゲ廃人時代の)口調で号泣するローゼリアの悲鳴であった。
「……………………は?」
ブリュンヒルデの足が、ピタリと止まった。
執務室内は地獄絵図であった。
マホガニーのデスクの上で、銀河最強のエースパイロットであるはずのローゼリアが、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、駄々っ子のように手足をバタバタとさせていた。いつもの「妾」や「のじゃ」という尊大なキャラ設定は、過酷な事務作業のストレスによって跡形もなく消え去っている。
そのローゼリアを、四人の戦乙女たちが総出で『介護』していたのだ。
「ローゼリア、落ち着いてくださいませ。文字が見えにくいのでしたら、こちらの端末でフォントサイズを最大の200%に拡大いたします。はい、赤く光っている枠の中に、ペンを押し当てるだけで結構ですから」
お留守番を命じられていたレガリアが、呆れと母性が混じったような顔で、極上のダージリンティーをローゼリアの口元に運びながら、手際よく書類の仕分けを行っている。
「おいローゼリア! 泣いてる暇はねえぞ! 次は弾薬庫の温度管理プロトコルだ! ここはアタシが計算し直しておいたから、脳死でサインだけしな!」
整備班長のフィーネが、油まみれのツナギ姿のまま、ローゼリアの手首をガシッと掴み、無理やりデータパッドにサインをさせている。
「ローゼリア。あなたが泣き喚いて書類に鼻水を垂らすたびに、私が電子データとして復元・浄化しているのよ。これ以上私の仕事を増やすなら、あなたのゲーム機のセーブデータを一つずつ消していくから、手を止めないでちょうだい」
アルティナが、絶対零度の冷たい瞳でローゼリアを睨みつけながら、次から次へと新しい決裁書をデスクにスライドさせていく。
『——マスター。心拍数とストレス値が危険領域に達していますが、全業務の完了まで残り3パーセントです。泣いても構いませんが、手の動きは止めないでください』
メインモニターからシエラの無機質な声が響き、ドローンがローゼリアの口に物理的にチョコレートを突っ込んでいる。
「ああっ! ローゼリア様! 泣き顔も、ボロボロになって幼児退行してしまったお姿も、最高に尊いですぅぅっ!」
「リアンヌお前は邪魔だよ!仕事しないならあっち行ってろよぉぉっ!!」
レガリアがなだめ、フィーネが手を動かさせ、アルティナが脅し、シエラが管理し、リアンヌが気持ち悪い声援を送る。その中心でローゼリアは、驚異的なペースで書類を処理させられていた。
「……なんだ、この地獄絵図は」
ブリュンヒルデが、顔の筋肉を引きつらせながら呟く。
「……いくら事務仕事が不慣れとはいえ、ローゼリア様がここまでキャラを崩壊させているなんて」
エリーゼは憧れのローゼリアのあまりの無様な姿に、ショックで言葉を失っている。
「ガハハ……ハ……。あの大将が、鼻水垂らして書類の山で泣いてるぜ……」
ランドグリーズですら、あまりの情けなさに引いて苦笑いしている。
その時、ローゼリアが入り口に立つブリュンヒルデたちに気がついた。
「だ、団長ぉぉぉぉっ!! 帰ってきたんだねぇぇっ!!」
ローゼリアはデスクを飛び越え、ブリュンヒルデの腰にガシィィッ! としがみついた。
「うわあああん! 団長ぉぉ! もうやだ、艦長なんて絶対やだぁぁっ!!」
「き、汚い! 鼻水を私の服になすりつけるな!! 離れろ!!」
ブリュンヒルデは、腰にすがりついて泣き叫ぶ銀河最強の死神の頭を、容赦なくアイアンクローで掴み、物理的に引き剥がした。
「いっだぁぁい! 団長ひどい!」
ハッとしたローゼリアは、周囲の冷ややかな視線(特に憧れのエリーゼからの引いている視線)に気がついた。
「こ、こほんっ! ……よ、よくぞ戻ったな、団長。お主の留守中、このエインヘリアルは、妾の完璧な指揮と決裁によって、寸分の狂いもなく運営されておったぞ! 感謝するのじゃな、ふははは……はっくしょん!」
あまりにも無理のあるキャラの切り替えに、その場にいた全員の温度がさらに5度ほど下がった。
その後、ローゼリアは艦長代理の任を解かれ、泣きながら自室へと逃げ帰った。
優秀な部下たちに支えられ、何とか業務を終えたものの、彼女の無敵の伝説は、数枚の決裁書と膨大な行政事務の前に、いとも容易く完全敗北を喫したのであった。




