第五幕 第二十七話:白雲の湯煙と、戦乙女たちの極楽休日(バカンス)
月の裏側に停泊する漆黒の母艦エインヘリアルで、不慣れな艦長代理を押し付けられた特異点ローゼリアが、終わりの見えない書類の山を前に血の涙を流して絶叫していた、ちょうどその頃。
青き星、地球。
日本列島の北部、青森の奥座敷と呼ばれる緑豊かな山間に、その老舗温泉旅館『白雲荘』はひっそりと佇んでいた。
古き良き純和風の木造建築。手入れの行き届いた日本庭園には鹿威し(ししおどし)の心地よい音が響き、初夏の瑞々しい青葉が風に揺れている。
その旅館の最も奥まった場所にある、貸し切りの広大な露天風呂。
清流のせせらぎと、森の木々を通り抜ける爽やかな風だけが聞こえるその秘湯で、一人のうら若き(少なくとも外見上は)女性が、湯船の縁に頭を乗せ、魂の底から絞り出すような深い、深いため息を漏らしていた。
「…………はぁぁぁぁぁ。極楽だな」
エインヘリアル部隊長、ブリュンヒルデである。
普段の隙のない軍服姿も、威圧的な指揮官のオーラも、今の彼女からは完全に消え失せていた。
豊かな銀糸の髪を湯に浸からないよう頭の上で無造作にまとめ、滑らかな白い肌を惜しげもなく硫黄の香る白濁の湯に沈めている彼女の表情は、完全に『ただの疲れ切ったOLが休日の温泉で溶けている顔』であった。
「ふふん。団長ったら。いつも険しかった眉間のシワがすっかり取れて、少しは見られるお顔になりましたわね」
ブリュンヒルデの隣で、優雅にお湯を肩にかけて得意げに微笑むのは、重武装機『ベルフェゴール』を操るエースの一人、エリーゼ・マーベリックであった。
見事な金髪を華麗な縦ロールのツインテールにまとめ(お湯に浸からないよう器用にアップにしている)、誇り高き貴族の少女としての気品を漂わせている。
「地球の『温泉』という文化……悪くありませんわね。大自然の景観と硫黄の香り。わたくしのベルフェゴールのコックピットの次に、優雅で快適な空間ですわ。庶民の娯楽にしては上出来ですの」
「ああ、本当にその通りだ、エリーゼ。……あの手のかかる問題児や、狂信的な忠犬、それに絶え間なく送られてくる本国からの決裁書。それらすべてから解放されたこの瞬間……私は今、宇宙で一番幸せな女かもしれない」
ブリュンヒルデは、目を閉じてお湯の温もりに全身を委ねた。
「お言葉ですが団長。その本国との通信や決裁の大部分を担っているのは、情報部隊である私の部署なのですが」
露天風呂の反対側、湯口から流れる新鮮な源泉の近くに陣取っていたウルスラが、濡れたアッシュブラウンのショートボブをかき上げながら、理知的なヘーゼル色の瞳を細めた。
「しかし、この泉質は実に興味深い。単純酸性硫黄泉……地球の地殻変動による地熱と地下水が奇跡的なバランスで融合した、天然の化学溶液です。皮膚の角質を軟化させ、細胞のターンオーバーを促進する効果が……」
「こらこら、ウルスラ。せっかくのバカンスに小難しい分析は禁止だぜ?」
ザバァッ! と豪快な水飛沫を上げて湯船から立ち上がったのは、長身でグラマラスな体躯を誇るランドグリーズだ。
彼女は濡れた美しい『銀髪』を豪快に払い、露天風呂の脇に用意されていた『あるもの』を手に取った。
それは、木製の丸いお盆に乗せられた、冷酒の入った徳利と複数のお猪口であった。
「ガハハハッ! この星の原住民どもは、なかなか粋な楽しみ方を知ってやがる! 温泉に浸かりながら、冷えた酒を飲む! こいつぁ最高の発明じゃねえか!」
ランドグリーズはお盆を湯船にプカプカと浮かべ、嬉々とした顔でブリュンヒルデの元へとお湯をかき分けて進んできた。
「さあさあ団長! 日頃の激務の慰労だ、一杯やってくれ!」
「……ああ。すまないな、ランドグリーズ」
ブリュンヒルデは、差し出されたお猪口を両手で受け取り、注がれた青森の地酒をくいっと煽った。
キンと冷えた清酒が、温泉で火照った身体の食道を通って胃の腑に落ちる。そして、ふわりと広がる米の芳醇な旨味。
「…………美味い」
ブリュンヒルデの口から、感嘆の吐息が漏れた。
「ルミナスの果実酒も悪くないが、この地球の『日本酒』という酒は、なんという澄み切った味わいだ。……身体の隅々にまで染み渡るようだ」
「だろう? さ、ウルスラもエリーゼも飲め飲め!」
「いただきますわ。ふふっ、本当に美味しいお酒」
「アルコール度数15%……過剰摂取は脳のパフォーマンスを低下させますが、今日ばかりは良しとしましょう」
大人の女性たちが、白雲の浮かぶ青空の下、露天風呂で酒盛りを始めている中。
ポコ、ポコ、ポコ……。
湯船の少し離れた端っこで、お湯の中から小さな泡が断続的に浮き上がっていた。
「……オルトリンデ、のぼせるわよ。顔を出しなさい」
露天風呂の縁に腰掛け、足だけをお湯に浸していたロスヴァイセが、末の妹に向けて呆れたような声で注意した。
「ぷはっ」
お湯の中から、銀髪碧眼の可憐な少女——狙撃手のオルトリンデが、顔の下半分までお湯に浸かった状態からスッと水面から顔を出した。
「……ロスヴァイセ姉様。このお湯、とても気持ちいい。ずっと入っていたい」
オルトリンデは、普段の冷徹な狙撃手の顔からは想像もつかないほど、トロンとした無防備な表情で呟いた。彼女の白い頬は、お湯の熱でほんのりと桜色に染まっている。
「気持ちは分かるけれど、長湯は禁物よ。それにしても……」
ロスヴァイセは、美しい銀髪をタオルでまとめ上げながら、旅館が用意してくれたアメニティや、脱衣所の清掃の行き届いた様式美を見回し、感心したように頷いた。
「この『旅館』という施設のサービス……いえ、『おもてなし』の精神は、メイドである私から見ても学ぶべき点が多くあります。出迎えの所作、景観と調和した建築、そしてお客様に一切の気苦労をさせないこの徹底した空間作り。……地球のホスピタリティ産業は、驚くほど高いレベルにありますね」
「ロスヴァイセったら、あなたもウルスラと同じで、オフの日まで仕事目線になってますわよ?」
エリーゼが、くすくすと笑いながらロスヴァイセにお湯をかけた。
「きゃっ! も、もう、エリーゼったら!」
「ほーら、ロスヴァイセもこっちに来て酒を飲め! オルトリンデには、後で一番上の姉ちゃん(俺)が風呂上がりのフルーツ牛乳をご馳走してやるからな!」
長女であるランドグリーズが豪快に笑い、次女のロスヴァイセがため息をつき、三女のオルトリンデがこくりと頷く。
「……フルーツ牛乳。了解。ミッションに追加する」
同じ銀髪を持ちながらも、豪快、几帳面、無口と見事に性格の分かれた三姉妹のやり取りに、青葉のそよぐ露天風呂には明るい笑い声が響き渡る。
迫り来る敵機の影も、狂信的な秘密結社の暗躍も、そして艦長代理の悲鳴も、ここには一切届かない。ただ純粋な、極上のリラクゼーション空間がそこにあった。
一時間後。
温泉で身も心もさっぱりと洗い流した一行は、それぞれに用意された色とりどりの浴衣に身を包み、旅館の広々とした和室の宴会場へと移動していた。
ブリュンヒルデは深い紫色の浴衣を凛と着こなし、ウルスラはシックな若草色。
銀髪三姉妹の長女ランドグリーズは、豪快に胸元を少し開けた真紅の浴衣。次女のロスヴァイセは清潔感のある白地に青の桔梗柄をきっちりと着付け、三女のオルトリンデは可愛らしい水色の金魚柄。
そしてエリーゼは、自らの金髪に映える華麗な山吹色の浴衣を、貴族らしく上品に着こなしていた。
「おおお……! なんだこりゃ、すげえ品数だぞ!」
座卓に案内されたランドグリーズが、目を輝かせて声を上げた。
そこには、地球の極東の島国が誇る食文化の結晶——『会席料理』のフルコースが、芸術的なまでに美しく配膳されていた。
「これより、夕食のコースをお持ちいたします。本日は大間のマグロのお造りに、青森県産和牛の陶板焼き、そして地元の山菜を使った天ぷらをご用意させていただきました」
仲居の女性が、恭しく頭を下げて説明する。
「素晴らしい……。食器の色彩と食材のコントラスト、さらには季節感を演出する紅葉の葉のあしらい。……メモしておかなければ」
ロスヴァイセが、職業病を抑えきれずに目を皿のようにして観察している。
「よし、皆。今日という素晴らしい休日に……乾杯だ!」
ブリュンヒルデの音頭で、エールビール(地ビール)のグラスや、冷たい緑茶のグラスが打ち鳴らされた。
「さっそく肉だ! この『和牛』ってやつを焼くぜ!」
ランドグリーズが、目の前の小さな陶板で焼かれている霜降りの牛肉を箸でつまみ、豪快に口へと放り込んだ。
その瞬間、彼女の動きがピタリと止まった。
「……おいおい、嘘だろ」
ランドグリーズが、震える声で呟く。
「溶けた……。噛まなくても、肉が口の中で溶けて消えちまったぞ!? しかも、この脂の甘みと旨味、ルミナスのドラゴンの肉なんか目じゃねえ! なんて恐ろしい食べ物なんだ、地球の牛ってのは!」
「ランドグリーズ姉さん、騒がしいわよ。……でも、確かにこれは驚きね」
ウルスラも、マグロのお造りを口に運び、目を丸くしていた。
「この『大間のマグロ』と呼ばれる魚類。脂質とタンパク質のバランスが絶妙で、舌の上でとろけるような滑らかさがある。添えられている『醤油』と『ワサビ』という調味料が、魚特有の臭みを完全に消し去り、旨味だけを極限まで引き上げている。……完璧な計算式だわ」
「……んっ。この『茶碗蒸し』という料理、とても優しい味がする」
オルトリンデは、小さなスプーンで茶碗蒸しをすくい、幸せそうに頬を緩ませていた。
「ふふっ、オルトリンデは子どもですもの、いっぱい食べなさいな。……団長も、お酒ばかり飲んでいないで、わたくしが取り分けてさしあげたお食事もちゃんと召し上がっていただきますわよ?」
エリーゼが、得意げに胸を張りながらブリュンヒルデの小皿に天ぷらを取り分ける。
「ああ、分かっている。……しかし、本当に見事なものだ」
ブリュンヒルデは、杯を傾けながら、美しく並べられた料理の数々を見渡した。
「我々エインヘリアルの食堂の合成食も、栄養素という点では完璧だが……この地球の料理には、『人を喜ばせよう』という心意気や歴史が詰まっている。ローゼリアがこの星の文化をこよなく愛する理由も、少しだけ分かった気がするな」
「そうですね。……そういえば、ローゼリア様とリアンヌは、今頃無事に艦長代理の職務をこなしているでしょうか?」
ロスヴァイセが、ふと思い出したように口にした。
その言葉に、宴会の席に一瞬だけ奇妙な沈黙が落ちた。
全員の脳裏に、エインヘリアルの執務室で、終わりの見えない書類の山に埋もれ、半狂乱になって羽ペンを振り回しているローゼリアの姿と、それを意味不明な愛の言葉で応援(妨害)しているリアンヌの姿が、鮮明な映像として浮かび上がったからだ。
「……………………」
「……よし、刺身のおかわりを頼もうか」
ブリュンヒルデが、見事なスルーパスを決めて仲居を呼んだ。
「そうですね! わたくしは、この『日本酒』の飲み比べセットというものを注文してみますわ! 貴族の淑女たるもの、地球の醸造技術も正しく評価してさしあげませんとね!」
エリーゼも満面の笑みで話題を切り替える。
「ガハハハッ! いいぞいいぞ、今日は団長の奢りだからな! 遠慮なく食い尽くしてやろうぜ!」
「……デザートの『りんごのシャーベット』、追加で三つお願い」
誰も、哀れなエースパイロットの苦境に触れようとはしなかった。
今の彼女たちにとって大切なのは、遥か彼方の宇宙で起きている行政事務の遅滞などではなく、目の前にある極上の地球文化をしゃぶり尽くすことだけである。
こうして、戦乙女たちの宴は、何の気苦労も、一切の罪悪感すらも介在しないまま、夜更けまで和やかに(そして大食漢の長女ランドグリーズのせいで旅館の厨房を大パニックに陥れながら)続いていった。
宴の後の、深夜。
広い和室には、ふかふかの布団が六組、川の字に並べられていた。
「いやー、食った食った。地球のメシは最高だったぜ」
浴衣をはだけさせ、腹をさすりながらランドグリーズが畳の上にごろんと寝転がる。
「ランドグリーズ姉さん、はしたないですよ。妹たちの前で少しは自重してください」
ロスヴァイセが、小言を言いながら姉の浴衣の帯をきっちりと締め直す。
「ふふふ……。すっかりいい気分ですわ。地球のお酒、わたくしのような淑女には少しばかり強すぎたかしら……」
エリーゼはすっかり出来上がっており、顔をほんのりと赤くして、満足げな笑顔で布団の上に座っていた。
「……ん。卓球、楽しかった」
三女のオルトリンデは、先ほど旅館の遊戯コーナーで、ウルスラと『戦乙女の動体視力と反射神経をフル動員した超音速の温泉卓球』を繰り広げた余韻に浸りながら、静かに布団に潜り込んだ。
「まったく、君たちが卓球の球を不可視の速度で打ち合うせいで、ラケットが燃え上がるかと思ったわよ。……でも、良い運動になったわ」
ウルスラも、満足げに眼鏡を外して布団に入る。
窓の外からは、初夏の風に揺れる木々の音が、静かに、そして心地よく響いてくる。
ブリュンヒルデは、一番端の布団に横たわりながら、窓から見える地球の夜空を見上げた。
雲の切れ間から、月が顔を出している。
あの月の裏側には、自分たちの帰るべき場所(母艦)があり、そして不甲斐ない部下たちが今も留守を守っているはずだ。
(……ローゼリアよ。今回ばかりは、私に感謝するんだな)
ブリュンヒルデは、薄く笑みを浮かべた。
彼女がローゼリアを地球の潜入任務に降ろしたのも、そして自らがこうして日本の温泉地にやってきたのも、単なる気まぐれや懲罰だけが理由ではなかった。
地球の時間が、彼女たちの体感よりも遥かに遅く進んでいたという事実。
それは、ローゼリアの前世からの月日が『まだ7年しか経っていない』ということを意味する。
ローゼリアの愛した家族や、親しかった友人たちが、この地球のどこかで今も変わらず生きているかもしれないのだ。
(あいつは、なんだかんだと強がってはいるが……あのコンビニで旧友に会った時の顔を見れば分かる。この星は、あいつにとってかけがえのない故郷なのだ。……艦長代理の激務を終えた後、もう一度だけ、こっそりと地球に降りる口実くらいは与えてやってもいいかもしれないな)
部下想いの厳格な部隊長は、月の光を見つめながら、ローゼリアへの少しばかりの労い(ボーナス)を考えていた。
もっとも、当のローゼリアが現在進行形で「あの鬼軍曹め! 絶対にベッドの下にルミナスのカエルを仕込んでやるぅぅっ!」と呪詛を吐きながら始末書を書いていることなど、知る由もない。
「……さて。明日はいよいよ、シエラが手配してくれた『本場の江戸前寿司』を食いに行くとするか」
ブリュンヒルデは、誰に聞こえるでもなくポツリと呟くと、重い瞼をゆっくりと閉じた。
温泉の温もりと、美味しい食事、そして完全な静寂。
エインヘリアルが誇る最強の戦乙女たちは、地球という青き星の優しさに包まれ、数年来の深い疲労を溶かすように、何の気苦労もない極上の眠りへと落ちていくのであった。




