第四幕 第一話:次元の海と、記憶なき特異点
時空の狭間——それは、光も音も、時間という概念すらも曖昧に溶け合う無彩色の海。
過去、現在、未来のあらゆる事象がデータや魔力のノイズとなって漂う、三次元宇宙の裏側であった。
通常、いかなる最新鋭の戦艦であろうと、この次元の狭間に長期間留まることは不可能である。機体の装甲は素粒子レベルで分解され、乗員の精神は永遠に続く虚無の空間に耐えきれず崩壊してしまうからだ。
しかし、一隻の漆黒の母艦——銀河最強の傭兵団を乗せた『エインヘリアル』は、その常識を覆して次元の海を航行し続けていた。
「——第三層の次元ノイズ、相殺完了。エインヘリアルの絶対防壁、維持率八九パーセント。……まだ潜れますわ」
ブリッジで、ロスヴァイセが冷や汗を流しながらコンソールを操作する。
「レガリア! 次のナビゲートは!?」
アルティナが、展開した無数のホログラムパネルを高速で弾きながら叫んだ。
「右舷前方、空間の歪みが強くなるわ。そこを避けて! シエラ、バハムートの残滓データのトラッキングは!?」
黒い軍服姿のレガリアが、元システム管理者の権限を総動員して、目に見えない次元の潮流を読み取っている。
「……微弱な魔力波長を追尾中。しかし、次元のノイズに阻まれ、対象の座標が特定できません。……マスター・ローゼリアの生存確率、再計算。二一・四パーセントに低下」
シエラが無機質な声で告げる。
エインヘリアルが古代遺跡『タルタロス』の爆心地から次元の狭間へと飛び込んでから、艦内時間でどれほどの月日が流れたのか、正確に把握している者はいない。
彼女たちは、ルシフェルの残骸から僅かに回収できたバハムートの初期化データを手がかりに、ただ一人、最愛の主を探してこの死の海を彷徨い続けていたのだ。
「諦めるな! ローゼリアは必ずこの海のどこかで生きている! 私の直感がそう告げている!」
特等席から身を乗り出したブリュンヒルデが、指揮杖を握り締めて檄を飛ばす。
「……そうですわ。お姉様が、こんな薄暗い場所で一人ぼっちで迷子になっているなんて、絶対に嫌ですわ! ベルフェゴールのセンサー出力、限界まで引き上げます!」
エリーゼが、祈るように通信回線越しに叫ぶ。
エインヘリアルの両翼には、有線ケーブルで母艦と接続された極彩色のマギアナイトたちが、次元の波に流されないよう必死に機体を制御しながら、外の空間を直接探査していた。
「ローゼリア……! お願いです、どうかお返事を……!」
純白の機体『ブラン』を駆るリアンヌは、涙で滲む視界を必死に拭いながら、暗黒の空間に目を凝らしていた。
(もし、あのまま彼女が消滅してしまっていたら? 私の盾が、彼女を守り切れなかったせいで……)
リアンヌの心に、何度も絶望の影がよぎる。
だが、その度に彼女は白い制服の胸元を強く叩き、己を奮い立たせた。
あの時、ローゼリアは言った。「誰も死なせない。世界も消させない」と。ならば、彼女自身も絶対に死んでなどいないはずだ。
その時である。
『——固有魔力波長に合致するシグナルを検知!』
シエラの声が、ブリッジの張り詰めた空気を切り裂いた。
「どこだ!?」
ブリュンヒルデが立ち上がる。
『本艦の直下、次元の深淵部! 非常に微弱ですが、間違いなくマスター・ローゼリアの生体反応です!』
「ローゼリア!!」
リアンヌが誰よりも早く反応し、ブランのスラスターを全開にした。
「待てリアンヌ! 突出するのは危険だ!」
「私が行きます! ローゼリアを……今度こそ、私がこの手で!」
リアンヌのブランは、次元の荒波を切り裂きながら、シエラから送られてきた座標へと真っ逆さまにダイブした。
装甲が次元の摩擦で軋みを上げ、アラートがけたたましく鳴り響くが、リアンヌは一歩も引かない。
暗闇の底。
そこに、淡い光を放つ小さな「繭」のようなものが漂っていた。
それは、ルシフェルのコックピットの緊急脱出システムと、バハムートが最期の力を振り絞って展開した魔力結界の残滓であった。結界は次元のノイズに削られ、今にも弾け飛びそうなほど薄くなっている。
そして、その光の繭の中に。
白い制服のあちこちが破れ、気を失って丸くなっている一人の少女の姿があった。
「……っ!! ああ、神様……!!」
リアンヌは、ブランのマニピュレーターを限界まで優しく、まるで壊れ物を扱うかのように伸ばした。
次元の波が結界を飲み込もうとするその寸前、純白の巨腕が光の繭をしっかりと抱き留めた。
「捕まえました……! ローゼリアを、確保しました!!」
リアンヌの歓喜の涙声が、エインヘリアルの全回線に響き渡る。
『よくやった、リアンヌ! そのまま母艦へ帰投しろ! 機関部、ワープエンジン始動! 我々はこれより、次元の狭間を脱出し、通常宇宙へと帰還する!』
ブリュンヒルデの力強い号令と共に、エインヘリアルは最大の任務である『特異点のサルベージ』を完了し、光のトンネルを切り開いて、元の三次元宇宙へと生還を果たしたのであった。
エインヘリアル内の最深部、医療ブロック。
滅菌された真っ白な部屋の中央に置かれた医療ポッドの中で、一人の少女が静かに眠っていた。
彼女を囲むように、戦乙女たちが息を潜めて見守っている。
リアンヌ、エリーゼ、ウルスラ、ランドグリーズ、ロスヴァイセ、オルトリンデ、アルティナ、シエラ、レガリア。そして、油まみれの作業着のまま駆けつけたフィーネ。
全員が、祈るような眼差しで医療ポッドのバイタルモニターを見つめていた。
「……外傷は、バハムートの結界のおかげでほとんど無かったわ。でも、次元の波を直接浴びたことによる精神的な負荷と、魔力回路の深刻なショート……いつ目を覚ましてもおかしくないはずだけど」
アルティナが、心配そうにタブレットを抱きしめる。
「生きて……息をしていてくれるだけで、十分ですわ。お姉様が、私たちの元へ帰ってきてくださったのですから……」
エリーゼが、ポッドのガラスに額を押し当てながら、ぽろぽろと涙をこぼしている。
「まったく、世話の焼ける阿呆だ。……お前がいない間、この艦がどれほど静かで退屈だったか、目を覚ましたらたっぷりと文句を言ってやらねばな」
ブリュンヒルデが、腕を組みながらも、その目尻には微かに光るものがあった。
やがて——。
「……ん。……んん……」
医療ポッドの中から、微かな声が漏れた。
バイタルモニターの心拍数が上昇し、少女の長いまつ毛が震える。
「ローゼリア!!」
リアンヌが弾かれたようにポッドに駆け寄る。
プシュゥゥゥッ……と音を立てて、医療ポッドのハッチが開いた。
ゆっくりと、真紅の瞳が開かれる。
「……う、眩しっ……」
ローゼリアは、蛍光灯の光に目を細めながら、重い体を起こそうとした。
しかし、彼女の生身の肉体は相変わらずの「運動能力皆無」であり、長期間の昏睡状態から目覚めたばかりの体は鉛のように重かった。
「……なんだ、この鉛みたいに重い体は。腕一本上げるのすらキツいぞ……」
ローゼリアは、弱々しい声でぼやきながら、周囲を見回した。
「ローゼリア!! ああ、よかった! 本当に、本当によかった……っ!!」
リアンヌが、感極まってローゼリアの小さな体に抱きついた。
「お姉様ぁぁっ! もう二度と、あんな無茶は許しませんわよ!」
エリーゼも泣きながら反対側から抱きつく。
「殿下! ご無事で何よりです!」
「ローゼリア、バカ! 本当にバカ! 心配かけやがって!」
「あははっ、おかえり、あたしらの大将!」
戦乙女たちが次々と歓喜の声を上げ、ローゼリアを取り囲む。
感動の再会。誰もが涙を流し、彼女の帰還を心から喜んでいた。
しかし。
ローゼリアは、自分を抱きしめて号泣するリアンヌとエリーゼを交互に見比べ、ひどく困惑したように眉をひそめた。
「……お、おい。ちょっと待て。誰だ、あんたたち?」
ローゼリアの口から紡がれた言葉に、ブリッジの空気が一瞬にして凍りついた。
「……え?」
リアンヌが、抱きしめていた腕の力を緩め、呆然とローゼリアの顔を見つめる。
「いや、誰かって聞かれても困るかもしれないけど……。なんていうか、頭に霞がかかったみたいで、直近の記憶が何も思い出せないんだ。……ここがどこで、なんであんたたちが泣いてるのかも」
ローゼリアは、自分のふわふわの金髪を一房指で弄り、さらに自分の胸元や華奢な手を見つめて、信じられないものを見るように顔をしかめた。
「それに……一番の謎なんだけど。なんで俺、こんな女の子の体になってるんだ……?」
沈黙。
医療ブロックに、計器の電子音だけが虚しく響き渡る。
戦乙女たち全員の頭上に、目に見えるほどの『?』が浮かんでいた。
「お、俺……? 女の子の体……?」
リアンヌが絶句する。
「ローゼリア、何を言っているのですか!? あなたは生まれた時からずっと、可憐な女の子ですよ!?」
「次元の波のショックで、とうとう頭がおかしくなってしまいましたの!?」
エリーゼがパニックを起こす。
「……シエラ。どういうことだ。なぜローゼリアが自分のことを男だと思い込んでいる?」
ブリュンヒルデが、困惑を隠せないまま震える声で問う。
「……次元の波による深刻な情報欠落、およびデータ破損です。バハムートの結界で保護しきれず、本個体『ローゼリア』としての本来の記憶データが一時的に封印されています。……おそらく、その空白を埋めるための防衛本能として、過去に彼女がプレイしていたゲームや仮想現実の『男性アバター』の疑似人格を、本来の自己と誤認して表面化させているものと推測されます」
シエラが無機質な声で答えるが、彼女の顔にも明らかな混乱が走っていた。転生などという非科学的な現象を知る由もない彼女たちにとって、それが導き出せる限界の論理的推論だった。
「記憶喪失……。私たちのことを忘れてしまって……その上、自分のことを男だと思い込む重度の妄想まで……!?」
リアンヌの瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。
「嘘ですわ、お姉様! 私です、エリーゼです! 目を覚まして立派な乙女に戻ってくださいませ!!」
エリーゼがローゼリアの両肩を掴んで激しく揺さぶる。
「わ、わかった! わかったから揺らすな! 首がもげる! ただでさえ運動能力ゼロみたいなもやしボディなんだから、その揺さぶりは致命傷だ!」
ローゼリアが悲鳴を上げる。
「エリーゼ、離れなさい。彼女を困らせるだけよ」
レガリアが、静かにエリーゼをたしなめ、ローゼリアの前に進み出た。
「……本当に、私たちのこと何も覚えていないの? 銀河最強の死神と呼ばれていたことも、狂った神様をぶちのめしたことも?」
レガリアが金色の瞳で覗き込む。
「俺は……つい最近まで、部屋に引きこもってゲームばかりしていたしがないインドア派の男だった記憶しかないんだ。銀河最強だの神殺しだの、そんな物騒なこと、この非力な体でできるわけないだろ」
ローゼリアは心底呆れたようにため息をついた。
その言葉に、戦乙女たちはさらに深い絶望の淵へと突き落とされそうになった。
あんなにも頼もしかった、背中を預け合った無敵のエースが、自分の過去はおろか、かつての絆すらもすべて忘れ、自分を男だと思い込む妄想に囚われてしまったのだ。
だが。
「……フッ。はははははっ!」
突然、ブリュンヒルデが腹を抱えて笑い出した。
「だ、団長?」
リアンヌが驚いて振り返る。
「命があっただけ重畳ではないか。……五体満足で、一人称が『俺』になり妄想に取り憑かれようと、その絶望的な体力の無さと憎めない態度は以前と全く変わっていない」
ブリュンヒルデは笑いを収めると、ローゼリアのベッドの前に立ち、優しく、しかし力強い手で彼女の頭をポンと撫でた。
「記憶など、また一から作ればいい。お前が忘れてしまったというのなら、我々が何度でも教えてやろう。お前がどれほど強くて、どれほど狂っていて、そして……どれほど我々に愛されているかをな」
その言葉に、戦乙女たちの顔にハッと希望の光が戻った。
そうだ。彼女が生きているなら、それでいい。
記憶がなく、奇妙な妄想にとらわれているのなら、これからまた新しい記憶を、このエインヘリアルで一緒に作って思い出させていけばいいのだ。
「……そうです、ね。団長の言う通りです」
リアンヌが、涙を拭い、純白の制服の背筋を伸ばして、ローゼリアに最高の笑顔を向けた。
「初めまして、ローゼリア。私はリアンヌ・ヴァーミリオン。銀河最強の傭兵団エインヘリアルの副団長にして……あなたの、絶対に砕けない『純白の盾』です」
「初めまして、お姉様。私はエリーゼ。お姉様のお食事から身の回りのお世話まで、すべてを取り仕切る『正妻』ですわ!」
「正妻は捏造だろ!」とアルティナが即座にツッコミを入れる。
次々と自己紹介とアピールを始める美少女たちを見て、男性の意識となったローゼリアは、ポカンと口を開けた。
「(……なんだ、この状況は。俺は記憶喪失のヒロイン枠のはずなのに、なぜか美少女たちに取り囲まれて、夢のような空間になってるぞ? みんな俺を女の子扱いしてるけど……まあ、鏡を見る限り美少女だしな)」
完全に意味不明な状況に戸惑いながらも、リアンヌの真っ直ぐな瞳や、エリーゼの温かい笑顔を向けられると、不思議と悪い気はしなかった。
むしろ、心の奥底がポカポカと温かくなるような、絶対的な『安心感』を感じていた。
「……まあいい。俺が誰であれ、あんたたちが誰であれ、しばらく世話になることには変わりなさそうだな。……よろしく頼む、リアンヌ……さん」
ローゼリアが、不器用に笑いながらリアンヌに右手を差し出す。
「はいっ……! よろしくお願いいたします、ローゼリア!」
リアンヌが、その小さな手を両手でしっかりと握り締め、再び嬉し涙をこぼした。
かくして。
次元の海から奇跡の生還を果たした特異点は、記憶を失い、かつての男性としての人格を表面化させ、周囲を大いに混乱させた状態から、再び銀河最強の傭兵団と共に歩み始めることとなった。
運動能力皆無の少女と、記憶を取り戻させようと奮闘する重すぎる戦乙女たちの、騒がしくも新しい日常が、今ここに幕を開けるのである。




