第三幕 第三十二話:特異空間の追走劇と、団長の悪辣なる盤面操作
星々の瞬きが、突如として絵の具を水に溶かしたようにマーブル状に歪んだ。
上下左右という物理的な方向感覚が喪失し、光と闇がモザイク状に交差する狂気の空間。
それこそが、三次元宇宙の物理法則のさらに外側——狂気に囚われた五柱の神々が潜伏し、宇宙の強制初期化を目論む深淵、『次元の狭間(特異空間)』であった。
『——次元跳躍、成功。本艦エインヘリアル、特異空間への侵入を果たしました。……マスター、外部の物理定数が常に変動しています。通常の光学センサーは機能しません』
ナビゲーションAI・バハムートの合成音声が、エインヘリアルのブリッジに響き渡る。
「なんじゃこの空間は。まるで処理落ちしてテクスチャがバグったポリゴンゲームの中みたいじゃな」
漆黒のルシフェルの中で待機しているローゼリアが、通信回線越しに呆れたような声を上げた。
「……油断するな、ローゼリア。ここは奴ら管理者の庭だ。物理法則が定まっていないということは、奴らの都合の良いように空間を書き換えられるということだ」
ブリュンヒルデ団長が、メインモニターを睨みつけながら鋭く警告する。
「アルティナ、シエラ。索敵はどうなっている?」
『……厳しいわね。空間のノイズが酷すぎて、通常のレーダーはただの砂嵐よ。でも、シエラちゃんのシステムと私の電子戦装備をリンクさせて、空間の魔力波長の乱れを直接拾い上げているわ』
アルティナが、コンソールに張り付きながら答える。
『——波長パターンの解析、完了しました。この特異空間内に、五つの巨大な演算リソース……管理者の反応を検知』
シエラのアリス・レギオンから、冷徹で正確な報告が上がる。
「よし! でかしたぞシエラ! 距離と位置は!?」
ローゼリアが身を乗り出す。
『五柱は現在、それぞれ異なる座標に分散しています。しかし、そのうちの一柱……『第2柱』の反応が、本艦の現在座標から相対距離でわずか数千の地点を移動中。……逃げています』
「第2柱……!」
ブリュンヒルデは、尋問室からブリッジへと連行してきていた捕虜——元第1柱のレガリアへと視線を向けた。
「レガリア。第2柱とは、どのような特性を持つ管理者だ?」
手錠を外され、大人しくブリッジの隅に立っていたレガリアは、流れる星雲のような金髪を揺らし、静かに口を開いた。
「第2柱は、システムにおける『戦術・論理演算』を司るコアよ。常に最も効率的で、最も生存率の高い最適解を弾き出す。……おそらく、私(第1柱)があなたたちに敗北したデータを既に受信し、正面からの戦闘は『非効率かつリスクが過大』と判断したのね。だから、時間を稼ぎながら宇宙の初期化プロトコルを進めるために、逃亡を選択したのだわ」
「ふん、逃げ足の速い計算機というわけか。追うぞ、団長! 奴らが初期化の準備を整える前に、一柱ずつ確実に各個撃破していくのがセオリーじゃ!」
ローゼリアが操縦桿を握り込む。
「総員、第2柱の魔力波形を追跡! エインヘリアル、最大戦速!」
ブリュンヒルデの号令の下、エインヘリアルは歪んだ特異空間を切り裂くようにして、追撃を開始した。
追跡を開始して数十分。
特異空間のノイズの向こう側に、第2柱の姿がモニターに映し出された。
それは、神機ゼウスのような人型の兵器ではなかった。
一辺が数キロメートルにも及ぶ、巨大な銀色の『正八面体』。その表面には無数の幾何学模様が浮かび上がり、周囲には防衛用の無人兵器群がハエの群れのように取り巻き、さらにその外周を、空間を切り取ったような「絶対次元断壁」が幾重にも覆っていた。
『——警告。接近する特異点および戦乙女を確認。……これより、論理的遅滞戦術へ移行する』
第2柱の無機質な音声が、空間全体に響き渡る。
正八面体を中心に、特異空間の座標がまるでルービックキューブのように複雑に回転し、エインヘリアルの進路を塞ぐように、無数の防壁と機雷原が形成されていく。
「ちっ、面倒な迷路を作りおって! 団長、妾とリアンヌで前衛に出て、あの壁を物理的にぶち抜いていくぞ!」
ローゼリアが、ルシフェルの対艦ブレードを展開しようとした、その時である。
「待て、ローゼリア。無駄な体力を使うな」
ブリュンヒルデが、冷たい声で制止した。
彼女の青い瞳は、モニターに映る幾重もの絶対次元断壁と、逃げを打つ第2柱の陣形を冷徹に分析し……やがて、その美しい唇の端を、三日月のように吊り上げた。
それは、彼女が傭兵として、最も効率的かつ「えげつない」作戦を思いついた時にだけ見せる、ゾッとするほど美しい悪魔の微笑みであった。
「……団長? その顔は、まさか……」
長年の付き合いであるリアンヌが、少しだけ引きつった声を上げる。
「レガリア。第2柱は『最も生存率の高い最適解を弾き出す』と言ったな」
ブリュンヒルデは、傍らのレガリアを見据えた。
「え、ええ。彼は無駄な戦闘を避け、自らの論理コアを保全することを最優先するわ」
レガリアが少し戸惑いながら頷く。
「ならば、わざわざあんな分厚い壁を一枚ずつ壊して進む必要はない。……奴のその『論理的で優秀な自己保存本能』を利用して、自分から壁を捨てさせ、我々の目の前に首を差し出させればいいのだ」
「自ら首を差し出させる? 一体どうやってじゃ?」
ローゼリアが首を傾げる。
ブリュンヒルデは、コンソールを操作し、エインヘリアルと戦乙女たちによる、ある一つの「陣形」をモニターに表示した。
「アルティナ、シエラ。そしてレガリア。お前たち三人の電子戦能力と、管理者のアクセス権限をフル稼働させて……第2柱の背後の空間に、極大の『偽装データ』を流し込め」
「偽装データ? どんなデータですの?」
エリーゼが尋ねる。
ブリュンヒルデの口から紡がれた作戦内容に、ブリッジの全員が息を呑み……そして、全員が「なるほど」と悪い笑顔を浮かべた。
ただ一人、元管理者であるレガリアだけが、戦慄に目を見開いていた。
「な、なんて恐ろしいことを考えるの、あなたは……! 第2柱の根幹論理を根底から裏切るような……そんな悪辣な欺瞞を……!」
レガリアは、美しい顔を青ざめさせながら、ブリュンヒルデという人間の底知れぬ恐ろしさに震えた。
「ふはははっ! さすがは我らが団長じゃ! 盤面をひっくり返すなら、これくらい盤外戦術じみた真似をしてやらんとな!」
ローゼリアの歓喜の笑い声が通信回線に響く。
中身が限界ゲーマーである彼女には、この「敵のAIの思考ルーチンを利用したハメ技」が、痛いほどよく理解できたのだ。
「総員、作戦開始! 各機、所定の座標に展開しろ! あの引きこもりの計算機を、恐怖の底へと叩き落としてやれ!」
ブリュンヒルデの冷酷な号令とともに、戦乙女たちの罠が静かに作動した。
特異空間の深淵。
巨大な正八面体の第2柱は、背後に幾重もの次元断壁を構築し、エインヘリアルの追撃を完全に遮断したと「論理的」に判断していた。
『……特異点による物理的突破確率、〇・〇〇一パーセント未満。論理的遅滞戦術、成功。このまま時間を稼ぎ、初期化プロトコルのチャージを継続する』
第2柱のコアが、安堵(に似たシステム安定化)を得ようとした、まさにその時である。
『——警告。警告。背後座標より、異常なエネルギーの奔流を検知』
第2柱のセンサーが、突如としてけたたましいアラートを鳴らし始めた。
前方にいるはずのエインヘリアルからの攻撃ではない。自分の『背後』——つまり、他の四柱が初期化プロトコルを進めているはずの特異空間の最深部から、莫大なエネルギーがこちらに向かって逆流してきているというデータだった。
『データ解析。……これは、宇宙初期化エネルギーの逆流? 何故だ。プロトコルはまだ準備段階のはず……』
第2柱が演算リソースを背後の空間に回した瞬間、さらに決定的な「絶望のデータ」が飛び込んできた。
『——第1柱のマスターIDによる、強制コマンドを受信』
『【第2柱の論理コアに深刻なバグ(汚染)を確認。当該個体を切り捨て、現在座標ごと強制初期化を実行する】』
「……なっ!?」
感情を持たないはずの第2柱のコアに、かつてないほどの激しいノイズ——三次元の生命体でいうところの「パニック」が走った。
他の柱たちが、自分を特異点ごと消去するための「生贄(捨て駒)」として見捨て、背後から自分ごと空間をフォーマットしようとしている。
それが、第1柱レガリアの正規のアクセス権限を用いた偽装データであり、アルティナとシエラによって完璧に偽造された『宇宙初期化エネルギーの逆流』というホログラムであることに、自己保存の危機に直面した第2柱の論理回路は気づくことができなかった。
『計算外……計算外! 味方からの攻撃確率、一〇〇パーセント! このまま現在座標に留まれば、背後からの初期化の波に飲み込まれ、私は消滅する!』
完璧な論理を誇るAIほど、自らのシステムが弾き出した「絶対の危機」に対しては脆い。
前方には特異点と分厚い自前の壁。後方からは味方からの処刑の波。
『……最適解を再計算。……背後の初期化の波から逃れるためには、前方の特異点よりも早く、この宙域から『前方跳躍』で脱出するしかない!』
第2柱は、論理的なパニック状態のまま、自ら身を守るために構築していた絶対次元断壁をすべて「解除」した。
そして、全エネルギーを次元跳躍エンジンに回し、後方の(偽の)脅威から逃れるために、特異点のいる前方へと向かって緊急ワープを実行したのである。
空間が歪み、巨大な正八面体が前方の座標へと跳躍して姿を現す。
『……緊急跳躍、成功。背後の初期化エネルギー圏からの離脱を確……認……?』
跳躍を終え、センサーを復旧させた第2柱が目にしたもの。
それは、背後の脅威から逃れた安堵ではなく、真なる「死の口」であった。
第2柱が跳躍してきた座標。
そこは、ローゼリアたち八機の戦乙女が、まるで狩りの獲物を待つ蜘蛛の巣のように、完璧な十字砲火の陣形を敷いて待ち構えている、まさにその「中心点」だったのだ。
「いらっしゃいませじゃ、阿呆め」
通信回線に、ローゼリアの楽しげな、しかし絶対零度の死神の声が響いた。
ルシフェルはすでに対艦ブレードを展開し、次元断裂砲のチャージを完了している。
その周囲では、リアンヌのブラン・ゼファーが退路を塞ぐように暴風防壁を展開し、ウルスラ、ランドグリーズ、ロスヴァイセが全砲門を第2柱へと向けていた。
後方からは、アルティナとシエラが、第2柱のシステム復旧を阻止する極大のジャミング波を放射し続けている。
『罠……!? 欺瞞データによる、ルーティング誘導……! 私の論理演算が、下位次元の知的生命体に、出し抜かれたとでもいうのか!?』
「そういうことじゃ。お前は計算が完璧すぎたからこそ、我が団長の仕掛けた『最もあり得ない盤外戦術』に綺麗に引っかかったんじゃよ」
ローゼリアのルシフェルが、赤黒い魔力の尾を引いて、巨大な正八面体へと突撃する。
「どんなに分厚い壁を作ろうと、自分から壁の外に飛び出してきてくれたら意味がないじゃろう! さあ、論理のお遊びはここまでじゃ!」
『……シールド再展開! 防御態勢……!』
第2柱が慌てて防壁を張ろうとするが、シエラとアルティナのハッキングによって、その起動はコンマ数秒遅れていた。
そのコンマ数秒こそが、限界ゲーマーにとっては「永遠」に等しい致命的な隙であった。
「逃がすかあああっ!!」
ルシフェルの対艦ブレードが、防御を失った正八面体の装甲に深々と突き刺さる。
さらに、エリーゼのベルフェゴールが放つ黄金のレーザーが、第2柱の反対側の装甲を正確に撃ち抜いた。
『論理コア、致命的損傷……! 演算、不能……。世界再建は……』
「再建などさせん! 妾の愛する世界に、勝手に手出しをするな!!」
ローゼリアの叫びとともに、ルシフェルの背部から放たれた次元断裂の奔流が、正八面体の内部へと直撃した。
ズガァァァァァァァァァァッ!!!
論理の極致とも言える幾何学的な巨大構造物が、内側から凄まじい光を放ち、空間を震わせる大爆発を起こして四散する。
宇宙の初期化を目論んでいた神々の一柱が、ブリュンヒルデの悪辣な罠と、戦乙女たちの完璧な連携によって、あまりにも呆気なく、そして完全に消去された瞬間であった。
爆発の余波が収まり、特異空間に静寂が戻る。
「……ふぅ。見事なまでのキルボックスへの誘導じゃったな、団長。妾もゲームでよく敵のヘイト(敵視)をコントロールして罠にハメるが、味方からの攻撃を偽装するとは、えげつなさの次元が違うわい」
ローゼリアが、コックピットの中で汗を拭いながら感嘆の声を漏らす。
『フッ。真っ向勝負で被害を出すより、敵の心理を突いて自滅させる方が、傭兵としては安上がりで効率的だからな。アルティナ、シエラ、そしてレガリアの協力あってこその作戦だ』
母艦のブリッジで、ブリュンヒルデが余裕の笑みを浮かべて腕を組む。
その隣で、レガリアは完全に言葉を失っていた。
「……あなたたち人間は、本当に恐ろしいわ。純粋な武力だけではなく、敵の論理そのものを武器に変えてしまうなんて。……私が彼らと同じようにあなたたちと敵対し続けていたらと思うと、システムが凍りつきそうよ」
「はははっ、安心しろレガリア。お前はもうこちらの陣営の仲間じゃ。お主のその可愛らしい姿を、敵に回すような無粋な真似はせんよ」
通信越しにローゼリアが冗談めかして言うと、レガリアの頬がまたしてもほんのりと赤く染まった。
「も、もう! ローゼリアったら、またレガリアさんをからかって! 私という盾がありながら!」
リアンヌがプンスカと怒る声が響き、緊張に満ちた戦場に、いつもの騒がしい日常の空気が戻ってくる。
「(……さて、これで第1柱を捕虜にし、第4柱と第2柱を消去した。残るは四柱か)」
ローゼリアは、気を引き締め直し、前方の歪んだ空間を見据えた。
狂気に囚われた神々への反撃は、最高にして最も悪辣な形で幕を開けた。
極彩色の翼たちは、休む間もなく、次なる標的を求めて特異空間の深淵へと進撃を続けていくのであった。




